提案
10.提案
そこにいた人物の登場はよくよく考えてみれば最初から考慮しなくてはならないものであったのだろう。だが、教授の使うオフィスと言われていてもそこに大きな違和感があったのも事実だった。
普通に談話室と言われた方が案外納得出来たかもしれない雰囲気だったからだ。
そして、入室時にいなかったのでかなり油断していた。
だからこそ俺はその人物、九頭竜教授の登場には凍りつく、という表現が一番近いのだろうと自分でも思う。
それは他も同じのようだ。
部屋の雰囲気もその人物の一言で一変した感じもする。
「す、すみません」
開口一番で教授から警告を受けた神明先輩はばつの悪そうな顔を見せる。
その顔を見て教授は少し笑みを浮かべながら、
「まだまだツメが甘い。まだまだ答えを教えられないな」
と言った。
どうやら教える気は一応あるみたいだった。
というかこれも研究課題として課されるのならば、正直このゼミは嫌だな…と思う。
教授の言葉に溜息をついている。
恐らく何度もこうやってトライしてみても空振りしてきたのだろう。
そんな先輩方から目線を外した教授は、俺達を見つめた。
「君達が、三国が言っていた一回生か」
どうやら三国先輩から話が通っていたようだ。
まあ、教授の部屋をお借りしているので、当然と言えば当然だが。
「ええ。一回生の小浜誠です」
他のメンバーは凍てついたままだが、かろうじて俺はこの雰囲気に慣れてきたので、教授の問いに答える。
「小浜…。聞いた名だな」
「本日二限の教授の講義を受講させて頂いてます」
少し考えるような仕草を見せた教授に対して、俺はすかさず言った。
すると教授は合点がいったようだ。
「そうか。通りで見覚えもあると思ったわけだ」
そういうと、パソコンのある席のうち、もっとも俺達に近い所に座った。
そのまま俺達の方へと体を向ける。
「どうだ。あの授業は聞きやすいか?」
と、唐突にそういう事を言った。
正直その質問には戸惑った。
確かに前期後期両学期の試験前後に学校から授業内容は適切であったか? 等のことを問われるアンケートがあるが、それはあくまで匿名であり教授ではなく教務課に提出するのだ。
だが、今回はどうだろう。いくらなんでも本人の前でいうなんてちょっと言いづらいだろう。
というか、普通に『聞きやすいです』と答える以外に道はないんじゃないか?
「聞きやすいのは聞きやすいのですが、黒板を消されるのが少し早くて、まれに板書仕切れないことがあります」
俺がひとつしかない道を選ぶか否かで悩んでいるというのに、今まで黙っていた筈の林檎がそう発言した。
「君は?」
俺に聞いた質問の筈が、突然別の人物が回答したからか、教授は少し意外そうな顔を見せながらも、突然口を開いた林檎に尋ねる。
「申し遅れました、お、同じく一回生の敦賀林檎です。お、小浜君同様に先生の授業を受講させて頂いてます」
と、林檎はやや緊張した様子でそう答えた。
どうでもいいが、なんだかずいぶん久しぶりに林檎に苗字で呼ばれた気がする。
林檎が同じ授業を受けているということを聞いた途端、教授が小さく頷く。
「そうか。板書が早いのだな。以後気を付けよう」
そういうと、懐からメモ用紙を取り出すと、机の上に置いてあったペンを掴み、そのままメモを取る。
「教授はね、こうやって直接聞くようにしてるのよ」
教授のそばに淹れたばかりの紅茶を置いてから、三国先輩は俺達に対してそう言った。
「まあ、ご機嫌伺いや単位を気にして本音を言わない学生も多いけどね」
と、細くするように神明先輩も言う。
俺も言えなかった側なので、言えなかった他の学生の気持ちが痛いほどよく分かる。
「だが、敦賀君のような物怖じせず意見をはっきりと口にする学生の方が私は好きだ」
教授はそういって林檎を評価する。
「ありがとうございます」
林檎はそういって笑顔を見せる。どうやらだいぶ緊張もほぐれてきたようだ。
「ですが、実際問題彼女のような学生の方がこのご時世では稀有だとは思いますよ」
そんな林檎の傍らで神明先輩は苦言を呈していた。
「…稀有か」
反応するのはそこなのか。
俺は内心ツッコんだが、当然ながらそんなことはおくびにも顔には出さない。
だが、一言呟いた教授は何か考えるように手のひらを額に乗せるような仕草を見せた。
「何か妙な点でもありましたか?」
そんな仕草に気付いた三国先輩が教授に問う。
「いつも何か気になるとこうやって考えるんだよ」
神明先輩がそう言って俺達に解説してくれた。
「そういえば授業中にそうしているのをお見かけしたことあります」
瑞穂がそう言って相槌を打つ。こちらも緊張が和らいだのかもしれない。
言われてみれば、授業中にもこんな仕草をたまにしていたなと、俺も気付いた。
「もはや先生の癖だからな。多分どこでなにをしていてもこれはすると思う」
神明先輩はそう言って苦笑いを浮かべる。
そこで教授は結論が出たのか、自らの手を額から離し、俺達を見た。
「君達、良かったら今度ワシの研究の手伝いをしてみないか?」
『は?』
教授の放ったその一言に、一回生のみならず、教授のゼミ生二人までもが、素っ頓狂な声を上げた。
そして、いきなり言われたことに頭が混乱し、そのため説明がほとんど耳に聞こえてこない。当然ながら、説明を聞き終えても俺達一回生は五人とも保留のまま、教授の部屋を退室した。
「どういうおつもりですか?」
「私達ゼミ生よりもあの子達の方が必要ということですか?」
「まあ、そう怒るな」
「いや、別に怒っているわけではありませんが…」
「今まで教授の研究に一回生を必要としたことがなかったので理由をお伺いしたいだけです」
「簡単なことだ。感受性を見てみたいだけだ」
「感受性…ですか?」
「そうだ。彼らはどのようにアレを見て、何を考えるのか気になったのだ」
「急すぎませんか?」
「そこは失敗だったかもしれないな」
教授の部屋を退室して七号館を出ようとしている中、行きとは違う意味で全員無言だった。
俺もそうだが、きっと戸惑いというものだろう。
なんて結論を出せばよいのか俺には分からなかった。
静かなまま、エレベーターに乗って一階へ向かい、何も言葉を発することの出来ないまま、外へ出る。正直部屋からここまで誰にも会わなかったのは幸いだったかもしれない。
「じゃあ」
外に出た直後に、翼はそう口にした。
「あ、ああ」
俺はそう返すと、左手を軽く上げて、翼は一人去って行った。
一人で考えたかったのかも知れない。
「今日はここで解散しちゃいましょうか」
翼の背中が小さくなるまで俺達はその場にいたが、やがて林檎はそう言った。
「そうだね」
幸雄も頷く。最後までほとんどしゃべらなかったが、つまらないのか戸惑っているのか俺には判断出来なかった。
「じゃあ、帰ろうか」
瑞穂はそう言って、同調する。こちらは明らかに困っているような顔をしている。
「そうだな」
俺も他に思いつかなかったので、頷いた。
「じゃあ、また明日ね」
何故か林檎だけは笑みを浮かべていた。もう結論が出たのだろうか? こちらも判断出来なかった。
そのまま林檎と瑞穂と別れ、幸雄とは駅まで一緒に歩く。
だが、結局何も話せないまま駅まで着き、簡単に挨拶だけしてコンコースで別れた。
ホームまで行くと丁度列車が来たので、そのまま乗り込んだ。
車内は空いていたので、適当なところに座ってから溜め息をついた。
「どうするべきか」
思わず車窓から見えた夕陽に向かってそう呟いた。
それと同時に活動を書いてるノートになんて書こうか、なんていう疑問も浮かんできた。
これはどうやら気持ちの整理が必要かもしれない。
「ねえ、林檎ちゃん?」
「何? 瑞穂?」
「林檎ちゃんはどう考えてるの?」
「決まっているじゃない」
「え?」
「いつも通り…よ、普段と変える理由があるかしら?」
「そうね。その通りね」
「むしろ難しく考える方がどうかしてたわ」
「そうかもね…。それは?」
「これ? さっきの教授の言ってたことを纏めたものよ」
「そんなメモしてたのね」
「ええ、誠君みたいにいつもじゃないけど」
「それどうするの?」
「決まってるじゃない。みんなでしっかり考えて。みんなで結論を出しましょう」