第5話 心が乾いていませんか
まだお父様がグリーンマーメイドの片隅に領地を持っていたころ、お母様の病気静養のために、初めてそこを訪れた。
空が真っ青で、雲も全然なくて、でも、とにかくカラカラに暑かったあの日。
私は初恋の人に出会った。
「お母様、このままいなくなっちゃうのかなぁ」
悪くなる一方のお母様の体調を思い出すと、心配で、心配で、もう会えなくなるかもしれないと思うたびに涙がこぼれそうになる。何か別のことを考えようとするけれど、すぐに思考は悲しい予測へと結びついてしまい、目の奥が熱くなった。
これでも貴族の娘だ。泣いているところを人に見られてはいけないと、上を向く。涙が乾くまでこうしていようと、首が痛くなるまで上を向いていたら、ガサガサと茂みが揺れる音がして驚いた。
猫が紛れ込んだのだろうか? そう思って、揺れる茂みを見つめていると、そこから現れたのは予想に反して、よく日に焼けた男の子だった。
「ん」
そうして差し出されたのは、よく冷えた氷菓。オレンジの果汁を冷して作られたそれは、珍しいもので、貴族でもなかなか口にできないものだ。受け取ってよいものか迷っていると、「溶けるから!」と急かされて渡される。
恐る恐る一口食べると、ひんやりとした感触と、甘酸っぱい果汁の味が広がった。あまりの美味しさにニッコリ笑うと、彼はホッとしたように息をついた。小麦色の肌に綺麗な黒髪、何よりも吸い込まれるような大きくて蒼い瞳が空のようで綺麗だと思う。
「美味しい……ありがとう」
ぽつりと呟くようにして、まだ冷たい容器をぎゅっと握ると、彼は「あんたが溶けなくて良かった」と返した。
「溶けるのは私なの?」
首を傾げてみると、溶けないのか? と彼も首を傾げた。
どうやら、北から来た人は肌が白いから、この天気で溶けてしまうのだと聞いたのだそうだ。
「涙をこぼしたら溶けてしまうだろ」
体が冷えたら、きっと元気になるに違いないと、拳術大会の上位入賞者しかもらえない氷菓をもぎ取ってきてくれたらしい。
――その優しさが嬉しかった。
木の上ではセミがミンミン鳴いていて、地面ではせっせとアリが働いている。
「ここはあったかいね」
「暑いの間違いだろ」
ここの人たちはとても優しい。時間はゆったりと流れ、困った人には手を差し伸べようとする。そう答えると、当たり前だという返事が返ってきたのだけれど、私が住んでいる首都や貴族の社会は、基本的に他人はライバルと思っているので、どう説明すればいいのか困ってしまった。
心なしか、地面からゆらゆらと水蒸気が立ち上るのが見える。
ふと、静かになった彼を見ると、地面に無限模様を描いているようだ。
「なあ。メビウスの輪って知っているか?」
「メビウスの輪?」
聞きなれない単語にきょとんとしていると、また今度見せてやるよと彼は笑った。
次の日も彼に会った。その日もカラカラに渇いた夏の日だった。
見知らぬ土地を歩き回るのは、どこか冒険のようでワクワクする。綺麗な花が咲いた湖のほとりはとても神秘的だったし、初めてのきゅうりやトマトの収穫手伝いは、とても楽しかった。もぎたての野菜の美味しさにもビックリする。
少し日焼けした私の話を聞いてくれるお母様も、とても嬉しそうだった。
毎日が楽しい日々。終わってしまうのが惜しくなるくらい。
バカンスが終わって帰る日は、夜半に雨が降ったせいで、少し地面がぬかるんでいた。
「私の名前はイリーナ=ブルジョワリッチって言うの。イリーナとだけ覚えてて欲しいな。首都のお友達は変な家名だって笑うから……」
軽く雨が降って柔らかくなっていたそこに、適当な棒を使って名前をガリガリと刻む。
なんだか別れ際に名乗りあうのもおかしな話なのだけれど、名前を教えてくれませんか?
勇気を出して聞いてみると、彼は少し迷ったようにしてから、ポツリとこぼした。
「………………ベル。ベルナルドだ」
もう随分昔の記憶だ。夏の空気しか思い出せなくて、顔もおぼろげで……でも、大きくて安心する手が優しくて。そんなことだけ良く覚えている。
2度目にベル様に会ったのは今から3年ほど前のことだった。お母様が亡くなって、お父様が借金を背負って、領地をいよいよ手放した日。最後に一目見ておこうと訪れたあの日。
鈍い痛みが胸の奥をジリジリ焦がし、泣こうにも泣けなくて、途方に暮れてしまっていた私の前にベル様は現れた。久しぶりに出会ったからか、背は高く伸びて、声も変わっていて、誰だか分からなくて、向こうから名乗ってくれて初めて分かったのだけど。
「どーした」
余裕のない顔だといって、頭をなでてくれたその手はやっぱり大きくて、そして頭の奥が痺れるくらいに優しくて、不覚にも涙がこぼれてしまった。
あの時、心にたまっていた悩みを聞いてくれたことに感謝している。
あのときの私は、いろいろなものを失ったショックと、未来に向かって抱え込まざるを終えなくなった問題が重過ぎて、身動きをとるばかりか、息をするのも苦しかった。
もちろん、彼がどうこうできるような問題ではなかったけれど、自分でも話しているうちに落ち着いてきて、これからやることが見えた気がしたから、だからやはり感謝している。
「愚痴ってしまってごめんなさい」
「ん」
強がりの私にとって、ベル様は初めて私が弱音を吐いた人だった。
ここが幸せだった頃の思い出を色濃く残している土地だったから言えたのかもしれない。けれども、話し掛けてくれたのが彼じゃなきゃ、こんなに弱い自分を見せられなかっただろう。
隣に住んでいるカールにも話せなかったこと。
ありがとう、聞いてくれて。
最初は感謝の気持ちだったのだろう。
ぽんぽんと頭を撫でられると、ふわりと心が浮き上がる気がする。同情じゃなくて、純粋に心配してもらえたことが嬉しい。その優しさが荒んだ心にすうっと染み込んで、傷を癒していった。
――感謝の気持ちが恋へと変わるのは、もう間もなく後のこと。