第43話 王弟殿下の思惑
翌日。
空は澄み渡り、海は凪いだように揺れていた。何事もなかったかのように候補生達は朝食を食べ、旅館から少し離れた海辺で訓練を始める。私は岩場に座ってスコアの管理を行っていた。今日の訓練が終われば私の仕事は完了だというのに、奇妙に落ち着いている。
あの晩、テオさんは何度も、何度も「大丈夫」と繰り返した。
瞼に落とされたキスが優しくて、添えられた手が温かくて、すがりつくように泣いてしまった私。今、思い出せば顔から火が出そうなくらい恥ずかしいのだけれど、いつもは強引で、短気で、やんちゃなテオさんが黙って聞いてくれるから、すっかり甘えてしまったように思う。
泣き顔を見せろといわれて「はい、そうですか」など、簡単に見せられるものではないと思っていた。けれど、不思議な話だが、テオさんには見せても大丈夫だと思ってしまったのだ。
それは、本人が「大丈夫」と言ってくれただけでなくて、ずっとテオさんが素の自分で接してくれていたからかもしれない。彼ならば、本心を隠して微笑むことはしないだろう。だから、心からの言葉なのだろうと信じることができた。
まあ、素っ裸を既に見ているから羞恥もへったくれもないというのは否定しない。
「ベルナルドさん、3人抜き……と。やっぱり強いなぁ」
ベルナルドさんのことは今も好きだ。
でも、あの人には自分の強いところを、良いところだけを見ていて欲しいように思う。この感情の違いが何かは分からない。
だけど、棚上げしてはいけないような気がしている。
「候補生達のお世話、お疲れさん」
急に目の前に影が出来て見上げると、王弟殿下が立っていた。慌てて礼をとろうとすると、そのままで良いと押し留められる。
「殿下、この度はわたくしにこのようなお役目を与えてくださって本当にありがとうございます」
隣に腰掛けた殿下に改めてお礼の言葉を述べると、普段は目通りすら叶わぬ雲の上の人なのに、「うん」と頷いて笑った。
目の前では、砂浜で候補生達がフォーメーションの練習をしている。
けれど、海は穏やかで、木々は風に揺られて、太陽はあたたかく降り注ぎ、平和そのものだった。
その平和は、ただ降り注ぐ光のように与えられるものではなくて、目の前で訓練している彼らのような人たちが勝ち取り、殿下をはじめとするクリスタルパレスの面々が引き継いでいるものだ。
そして、私がここに呼ばれた理由も……それに関係しているだろう。
「南部の候補生達とは全員お話なさったのですか?」
一人一人と対話していた姿を思い浮かべ、この人は見かけほどにぼんやりしていないのだと思い至る。
「テオ以外はね。それにしても南部はいいね。この自由な空気と大らかな人々を見ていると、ティアラがここを選んだのも良く分かる」
殿下は羨ましそうに目を細めた。
ああ、本当はグリーンマーメイドに、ティアラさんのもとにいたいのだろうな。
「殿下も大変ですね」
色々な思いをこめて苦笑すると、殿下は「ほんとじゃよ……」とため息をついた。
ぽよよんと飛び出たお腹と洋ナシ体型、人懐っこい笑顔、そして平民の母親から生まれた聡明なる王の弟。その姿の半分近くは作られたものだ。最初ロマンスグレーの王様と似ていないと思ったけれど、食生活などを見直せば、そっくりになるだろうと思う。
わざと肉や酒を飲み、体型を崩す理由なんてそれ程多くはない。貴族を束ねる宰相に対し、平民の味方である自分像を作り上げた。勿論、全てが嘘ではないのだろうけれど、見掛けや話し方に騙されるとあとで痛い目に会いそうだ。
「殿下、私はテオさんに会うために呼ばれたのですね」
向き直って目を見つめると、彼は「気づいていたのかい?」と笑ったが、目が笑っていない。
「テオドールとそなたには見張りをつけていたよ。いや、想像以上に甘酸っぱい青春にフレンディの奴、身悶えしておったぞ」
なぬ!!! 見張りとかついていたんですか!?
ぎゃああああああ。じゃあ、じゃあ、私の昨日のあれとか、それとか、全部筒抜けだったのか。
「悪い、悪い。一応あいつも王族で、兄上の息子に何かあったときのスペアとしての役割があるもんでな」
「スペアって……」
少し言い方が悪いんじゃ、と思えば「ティアラと同じことを言うな」と殿下は肩をすくめる。クリスタルパレスには王様の息子がいて、王太子として執務の手伝いをしているのは知っていた。目の前の王弟殿下は継承権を放棄している……ということは、まさか、王位継承権第2位はテオさん!?
それでティアラさんは厄介ごとに巻き込まれないよう、ここに越してきたのか。
「まあ、そう言っても基本的にはあいつの好きなようにさせてやりたいと思っているんだが」
ただ、自由にさせていたら、自分の所属している第3騎士団に入りたいといってきた。それは必然的にクリスタルパレスにやってくることを指す。ならば、その願いをかなえるために、息子のために何をしてやれるだろうか。
できることは二つ。
一つは、味方を作ってあげること。もう一つは、不安要素を排除すること。
「私は、その……テオさんの障害になると?」
私自身が敵意を持っていなくても、テオさんが好意を抱いているというだけで利用価値が出てくる。そして、私には利用されてしまうだけの十分な理由がある。
「テオには、フレンディというわしの右腕を味方としてつけた。そなたは正直なところ、障害になると思っておった。だから、金貨千枚というのは手切れ金のつもりだった」
ぽんと金貨千枚を出してしまう王族を見た後で、テオさんに好意を寄せられていると知ったら、金の無心をするに違いないと思われていたのか。確かに私の境遇では、そう思われても仕方がない気がする。というかむしろ、殿下と出会ったときの自分を思い出したら金の亡者にしか見えないよね!
けれど、私にだってプライドがある。人として恥じる行為だけはしたくない。ワインをかけられようが、嘲笑されようが構わない。けれど、卑怯なことをしてしまったら、私は自分自身を許せなくなると思ったのだ。
「だが、テオドールはそなたを選んだ。ティアラも気に入ったといい、フレンディも面白いといっておる。少々、思惑が外れた」
ベルナルドとやらとくっつくのであれば、それはそれで良かったのだが……と、浜辺に視線を移す殿下の横顔は、いつもの飄々としたものではなく、落ち着いた年相応のものだった。




