第38話 星に吸い込まれる
夕飯に出る勇気も余裕もなくて、私は旅館の前にぼーっと立っていた。
食欲がないといったのは本当。心配をかけたくないとは思ったけれど、あの人の顔を見たら泣いてしまいそうだったから。
ベルナルドさんは、私が彼のことを好きだと思い込もうとしていると言ったけれど、そうじゃなくて……本当に心から好きだった。
考えるだけですごく嬉しくて、会いたくて、……伝わらなかったのかもしれないけれど、むしろ私が支えにしすぎて、本当の気持ちが隠れて見えなくなってしまったのかもしれないけれど、あれを恋だといわないのなら、一体恋とはどんなに激しいものなのだろうか。
なんだか現実が現実じゃないような気がして、ふらふらと外へ出る。夕暮れに座った岩場へと向かって。
サクサクと砂が混じった道を歩くと、小気味良い音がする。海から吹く風は涼しく、優しく髪を撫でていった。
大丈夫、私は大丈夫。
心は泣きたくて、軋んで、悲鳴をあげて、じんじんと痛くて仕方がないのに、不思議と涙はこぼれなかった。
私が泣く理由なんてないじゃない。散々迷惑かけてきて、気持ちを押し付けて、拒否されたからといって何を今更被害者ぶることができるというのだろう。だから泣いてはいけないのだ。感謝こそすれ、悲しいなどと……おこがましい。
ああ、あのとき上手く笑えただろうか?
一生懸命、上を向いて隠せただろうか。
空に瞬く星が綺麗だった。まるで星が降ってきそうなくらいたくさんの星が輝いていた。建物がひしめくクリスタルパレスでは、よほど高いところからでなければこのパノラマの星空は見えないだろう。
空は曇ることなく、とても澄んで美しい。ぽっかりと穴があいた心に降り注ぐように星の光がキラキラと吸い込まれていくようだった。
……逆に吸い込まれてしまったら、どんなに気分が良いだろう。
何故だか分からないけれど、笑みがこぼれた。それはひどく素敵なことのような気がして、首が痛くなるのも構わずに上を向いていた。まるで幻の中にいるような感覚。心の中が星の光で満たされたら、私はまた、前に進めるのだろうか。
ベルナルドさんは前に進んだ。私はそれをきちんと見送りたい。あの人が幸せであるよう、せめて祈ろう。
いつか、好きな人ができて、その人と歩いていく後姿を見ても、祝福できる自分でありたい。重荷ではなく、背中を押せる自分でありたい。
目を閉じると星の光が瞼に焼き付いている。吸い込まれそう……。
「イリーナ!」
急に名前を呼ばれて振り返ると、玄関からラフなシャツとズボンという格好をしたヴィルが出てきた。「部屋にいないから探しちゃったわよ。具合が悪いって聞いてたから心配したんだからね。もう!」と腕を組む彼に、私はニッコリと微笑んだ。
だって、ほら、星が綺麗でしょ?。
不思議と足が海のほうへ向かっていく。
ベルナルドさんと最後に見た星空が見たくて。
あの場所に行きたくて。
「どうして泣いてるのよ?」
きょとんとしたヴィルの声が追いかけてきた。
泣いてなんかないですよ……そういいかけた瞬間、追いついたヴィルに、親指で涙を拭われる。その手には水滴がついていて、おかしいな、と首を傾げる。
「熱は大丈夫みたいだけど、潮風に当たったら体に悪いわよ?」
何か言わなくちゃと思うのに、こんな時に限ってボキャブラリーが貧困になってしまう自分が情けない。
口を開きかけて、ひくっと嗚咽を飲み込むと、ヴィルは少し考えて、私の両頬を手で包み込んだ。その手が温かくて、自分の体が冷えていることに気づく。
「ね、何か落とした?」
優しげな声に、思わずこくりと頷いた。
「大切なものを海に置いてきちゃったみたい」
手の指から零れ落ちる砂のように、感情がポロポロ落ちていく。
嬉しいとか、
悲しいとか、
幸せだとか、
つらいとか、
全部なくなってくると不思議に心は落ち着いてきた。
「でも、大丈夫だよ」
そう、大丈夫……。あの人に好きだと胸を張って言える自分になろうという目標と、ささやかな希望は失くしてしまったけれど、ベルナルドさんのことを好きだったという甘くて苦い思いはまだ心の奥にくすぶるように残っている。
それをすくいあげて、ぽろぽろと落とせば、楽になれる気がした。
頑張って、突っ張って、それで一体何が私に残るのだろう。
急に可笑しくなって笑いがこみ上げてきた。努力は無駄なんかじゃなかったと思うけれど、私なんかが積み上げられるものは少ししかなくて。頑張っても報われなくて。
「どうせなら、欠片も残らないくらい全部、落としてきたら良かった」
諦めてしまえば、最初からこんな思いはしなくて済んだのにね。
おどけたように、全然問題ないように
言ったのに……
なのに……
「泣くほど大切なものを落として、何で今度は笑ってるのよ!?」
ヴィルは怒っていた。
「だって、探しても、もう失われてしまったものは見つからないもの」
星を見上げると、涙でぼやける。
ハァ、とヴィルは呆れたようにため息をついて、困ったように笑った。
「もう暗くなってるものね。でも、朝になったら探してみましょう? 手伝うから」
探しもしないで諦めるなんてイリーナらしくないわよ、と付け加えて、彼はようやくいつもの笑顔を見せてくれた。




