第37話 失われる体温 *ベルナルド視点
「頭を上げてください。ずっと甘えていたのは私です」
ごめんなさい。
彼女からこぼれた言葉は謝罪だった。
「イリーナ……」
「ごめんなさい。ベル様に甘えていました。……勝手に……勝手に……心の支えにして、貴方の負担になって。迷惑になっているなんて、少し考えれば分かることなのに。いえ、分かっていたのに、気づかないフリをして、その優しさに甘えていました」
それは違うと思った。けれど、言葉にならない。
「ベル様のこと、ずっと好きでした。今でも好きです。好きで……ごめんなさい」
むしろ謝るべきは俺なのに、彼女は何度も謝った。もしかしたら、俺に好きな女性が出来たのだとでも思ったのかもしれない。
顔を上げると、彼女は風に吹かれて顔にかかった髪を手で押さえながら、必死で涙をこらえるようにして、それでも笑顔を作ろうとした。その瞳には涙がにじんでいたけれど決して落ちてくることは無かった。
自分で突き放しておいて勝手な話だが、罪悪感に胸が痛む。
ハンカチを取り出そうとすると、彼女はやんわり押し返すように断った。
「大丈夫。私なら大丈夫です……だから、だから心配しないでください」
それは、自分に言い聞かせているようであり、これ以上優しくしないで欲しいという願いのようにも聞こえる。
「イリーナの気持ちは嬉しかった。それは、本当だ」
せめてそれだけは伝わるようにと、なんとか口にすると、彼女は頷いて……ゆっくりと空を見上げた。
涙がこぼれないように。
こんなときでも俺の前で泣くことができない配慮と意地が、彼女の強さでもあり脆さでもある。
心の避難所として寄り添うことは嫌ではなかった。俺にとってもイリーナは希望であり、支えであった。たとえ、その気持ちが盲目的なものであると知っていても、彼女の好意は心地良いものであったから。
けれど、どこまで行こうとも、その気持ちは恋に変わるとは思えなかった。
そうしてそのままズルズルと引きずる俺の甘さが、優しさじゃなく甘さがこうした事態へつなげてしまったのだと思う。
夕陽が水平線に沈むと、吸い込まれるように朱色が闇色へと塗り替えられていく。
沈黙したまま岩に腰掛けていると、隣で彼女が震えているのが伝わってきた。
けれど、ここで抱きしめる資格なんて俺にはない。
二人とも波の音を、ただ、ただ聞いていた。
ざわざわと揺れる心のように、波が寄せては返す。
その波に攫われてはしないかと不安になって彼女を見る。……いる。
その表情は分からない。
何を考えているのかも分からない。
どちらも言葉を紡ぐことができず、さりとて立ち上がることも出来なくて、しばらくそのままで座っていた。
いつの間にか辺りはすっかり暗くなっている。
指先が潮風ですっかり冷たくなっていた。
くしゅん、とイリーナがくしゃみをする。それによって張り詰めた緊張感が破られ、俺は息をついた。
「戻ろう」
「はい。…………ベルナルドさん」
イリーナは、そう、俺を呼んだ。
「夕飯始まっちゃいましたね。急いで戻らないとなくなりそうです! 明日、大変ですよ」
何事もなかったように彼女は立ち上がり、皆がいる方向を指差す。そして、片手で器用に砂を払うと、さっさと歩き出し、前を進んでいった。
「そうだな」
遅れて俺も立ち上がる。
「置いていきますよー」
笑っている顔は、いつものイリーナだった。
けれど、その後姿はいつもより……少し心細そうに見えた。
自分の言葉の選び方の拙さに言い訳したい気持ちや、罪悪感はあれど、こうしたことに後悔はない。
けれど、同時に俺はなんて卑怯な奴だと思う。
2回も彼女を裏切るなんて。
夕食は普通に食べた。
……食べなければならないと思った。俺が食べなかったと聞けば、彼女が負担に思うだろうから。
だから腹に詰め込んだけれど、味は分からなかった。
「ベルナルド、そんな無表情で食べないでよねー」
どんな表情で食べろというのだ。
そう返すとヴィルは「やーね、ご機嫌斜め?」と口を尖らせる。そんなにひどい顔になっているのだろうか。
「ってか、イリーナは?」
「いないなー。海に落ちて風邪をでも引いたか?」
「勿体無い! こんなに美味いのに」
「あー、さっき呼びに行ったら、食欲がないんだと」
「本格的に風邪だろ、それ!」
選抜メンバーが夕飯を腹に収めながら、気づいたように騒ぎ出す。
頑丈な自分達であれば風邪など引かないだけに、体調不良に気づかなかったとしょんぼりするメンバー達に、俺は申し訳ないと思った。俺のせいであると言い出すことは出来ないけれど。
食事を残しておくかどうするか、少し話題に上ったが、最後まで夕食に来なければ、ヴィルが様子を見に行くということで落ち着く。
結局、イリーナは夕食には現れなかった。
その日、変わったことといえば、イリーナが俺のことを「ベル様」ではなく「ベルナルドさん」と呼ぶようになったことぐらいだった。
たったそれだけのことだけれども……確実に、着実に何かが変わりつつあった。




