第21話 はずされた知恵の輪 *テオドール視点
ベルナルドがイリーナと出会ったのはそんなときのことだった。あまりにも思いつめた表情で、崖の上に座って海を眺めていたものだから、声をかけずにいられなかったのだと彼は言う。
「家の手伝いをしているとは言っても、親の庇護下でぬくぬくと育ってきた俺には、かける言葉が見つからず、差し出せるものもなく、ただ、ただ、話を聞くことしか出来なかった」
芝生を踏みしめると、さくりと小気味の良い音がした。
「イリーナは、それが嬉しかったと話していたな」
今日の結果発表の後のことだ。
「ん」
家を売って引っ越して、母親から受け継いだアクセサリーや家具、小物など全て売り払っても焼け石に水だった。大切なものを手放して、それでも解放される未来が見えない辛さ。働こうにも、まともな稼ぎでは追いつかず、かといって世間知らずのお嬢さんができるような仕事なんて世知辛い世の中にはなかった。
きっと行き詰っていたのだろう。涙こそは見せなかったけれど、イリーナは全身で悲鳴を上げていた。
「もー、ロリコン趣味だったり貴族いじめが趣味のオヤジの下に売られるくらいなら……死にたい……かも」
死にたくないけれど、未来が恐怖でしかないならば消えてしまいたいのだと、彼女は笑って言った。
「そんなイリーナに俺は、『死ぬ気でやってやれないことはない』と無責任なことを言った。死なないで欲しかった。そんな言葉しか言えなかった俺の気持ちを汲み取ったのか、健気にも『わかった』と応えてくれたよ」
彼女はまず、裏町の金貸しに金貨千枚の借金をした。「返せなかったら髪でも血でも腎臓でも心臓でも売ってやる!」と啖呵を切ったというから、相当の覚悟だったのだろう。普通なら小娘と言われてもおかしくない子供に貸すはずはないが、堂々とボスの目を見て勝負に出た彼女を気に入って、そいつは金を貸したのだという。
それからその金を元手に、一部の信頼できる貴族や町の人と事業を起こし、投資し、失敗したり、成功しながら、彼女は必死に生きてきた。
「たまに来る手紙には、いつも頑張っていると丁寧な文字で書かれていた」
――そして、借金返して誰にも迷惑かけない身になったら、好きな人に「好き」って言いたいな。そのことだけ考えて、他は何も考えないようにして働いてます。
「じゃあ、イリーナが言っていた、金貨三千枚貯まったらお前に告白というのは」
「『俺』を買うわけじゃない。『自分』を買うための金をイリーナは必死に稼いでいる。自分の未来を購えなければ、彼女の未来は光の差さない牢獄のようなものしかないんだ」
ベルナルドは立ち止まって、俺の顔を見た。その真摯な瞳に映っているのは、馬鹿みたいに間抜けな俺の顔。
声を出すことも出来ず、かすれていくだけで、口を開けようにも震える姿。
「テオ、お前にはお前の事情が有り、気持ちがある。それについて否定するつもりはない。けれど、この中で一番危うい状態にいるイリーナが、『ベルナルド』という存在を心の支えにして、その言葉をご宣託のように胸に抱いて、前に進む気になったのならば、俺は張り詰めた糸のような彼女を見守り、後ろで支えてやりたい」
お前を裏切ることだと分かっていたが、そのために嘘をつき続けたのだと、ベルナルドは締めくくった。
昔のままではいられないといったイリーナは、昔のことを覚えていられるほど安穏とした人生を送ってきたわけではなかった。
ベルナルドのためにとっておいたファーストキスを俺に奪われて、ショックだっただろう彼女に俺は何を言った?
「金、金……今のうちから金の亡者のように稼いでどうする? 金貨三千枚貯めてベルナルドに告白? 貧乏貴族が背伸びして、裕福な貴族になったら誰でも男がなびくと思ったのか? 持参金で男を買おうとするな。ましてやあいつは金貨三千枚ごときで買えるような安い男じゃない」
それは自分を必死で取り戻そうとしているイリーナにとって、どれだけ残酷に響いたことか。
自分に腹が立った。
自分が傷ついたからといって人を傷つけも良いはずがない。許されるはずもない。
「くっそ! 俺は騎士失格だ!」
ダンッ! と門を支えるレンガに拳をぶつければ、尖った部分が皮膚をえぐり、血がにじんだ。それでも構わずに、拳を何度も叩きつける。骨に響くような衝撃が何度か走るが、さらに続けようとしたところでベルナルドが腕を掴むようにして止める。
「やめろ」
そんなことをしても何もならないと分かっていても、馬鹿な自分を許せなくて、最後に1回地面を踏み固めるように蹴った。
「くっそ……」
じわじわと痺れるような痛みが手に走るが、それよりも胸の痛みの方がひどくて。
イリーナを傷つけてしまったことを今更後悔しても遅いのだけれど、痛くて、痛くて、自分があまりにも愚かなことが悔しくて。
あんなにも大切に思っていたはずなのに、深く深く傷つけた。
どうすればいい?
謝ればいい?
……だめだ、謝ったところで過去を水に流すことは出来ない。許しを得たところで満足するのは俺だけだ。
ならば何ができる?
めまぐるしく考える俺を見て、ベルナルドはようやく険しい顔をふっと緩めた。
「テオ、守ってやれ。騎士は強ければいいというもんじゃないだろ?」
そうして、すっとこちらを向いたまま、遠くにある樹木のあたりをそっと指し示す。そこには、紺色のドレスに白いエプロンをつけたイリーナが座り込んでいた。
「イリーナ!」
大声で叫ぶと彼女は飛び上がり、恐る恐るといった様子で幹に隠れながらこちらをのぞき見る。どうやら俺たちには気づいていなかったらしい。しかも、暗闇で見えにくいらしく、目をパチパチと瞬いていた。イリーナは白いから、こちらからは表情まで良く見えるのだが。
「ベルナルド、俺は近づいても大丈夫だろうか」
「嫌われたままでよければ、遠巻きにしてみていればいいさ」
ただし、傷口は時間とともに広がるだろうな、と付け加えて彼は俺の背中を押した。




