第20話 そしてひっかかる *テオドール視点
結局……完全に俺の負けだった。
「最低だな、俺は」
イリーナは残るといって引かなかった。後に残ったのは、苦い罪悪感とジリジリと焦げ付くような焦燥感。
すっかり湯冷めしてしまった体を拭いて服を着る。後味の悪さだけ噛み締めて廊下に出れば、そこに珍しい訪問者がいるのが目に入った。
「テオドール」
焦げ茶色の髪を短く刈り上げ、がっしりとした体躯に恵まれた友人は、いつもは穏やかな顔をしているのだが、何故だか今は険しい表情を浮かべている。
「お前が来るなんて珍しいな」
片手に紙袋を3つほど抱えているところを見ると、食材の追加注文でもあったのだろうか。家が魚屋のベルナルドは、時折こうやって他の食材と一緒に魚を届けてくれることがあった。最も、今は選抜試験に入っていることから、大抵は彼の両親が馬車で届けてくれることが多いのだが。
「昼に届け忘れていたものが、店に残っていたからな」
ガサリと手渡された紙袋はズシリと重い。しかし、それ以上に重々しいのは彼の表情の方だった。
「……何か言いたいことでもあるのか?」
基本無口な友人に問いかければ、予想通り首を縦に振る。そうして、門の外を眺めるように視線を移すので、荷物を置いて何とはなしに二人で門の外へと歩き出す。
すっかり薄暗くなった外は少し肌寒く、こんなことなら後でシャワーを浴びれば良かったと思い始めた頃、ベルナルドがポツリとこぼすように言った。
「テオ、もっとイリーナに優しくしてやってくれ」
その言葉に、先ほどの苦い気持ちが喉元にせりあがってくる。
「お前、騙されてるぞ。アレは強い女だ」
「脆いところもある少女だ」
その俺を苦笑しながら諭すように、ベルナルドはすぐに言葉を引き継いだ。
何故そんなに甘いのだろう。それは優しさというよりも、棘も合わせて包み込むような慈悲のようにすら感じられる。
「あいつはバイトを首にならないためなら……金のためなら、自分まで差し出すような女だぞ」
お前まで金で買おうとした女だと吐き捨てるように言えば、さすがにこれにはベルナルドも驚いたようだった。
そりゃあ「大好きです」と告白したその日に、別の男のキスを受け入れたと聞けばショックだろう。
でも、違った。
「何を言った?」
いつもの温厚なベルナルドの声よりずっと低くて……質量を持った重いそれに一瞬息が詰まりかけた。
「別に……帰れと言っただけだ」
憮然とした俺の言葉の端から想像がついたのか、「予想以上にこじれていたのか」とベルナルドは大きなため息をつく。そして、次の瞬間俺は、したたかに頭上に拳骨を喰らった。
「痛ってえええ!!!!」
本気で殴ったわけではないことは分かる。しかし、手加減したといっても完全な不意打ち。ガードすることも出来ず、頭の中がひっくり返ったような痛みが突き抜けた。
「何をする!」
「それはこっちの台詞だ!」
温厚なベルナルドが怒る様子に思わず息を呑む。全身から静かに怒気が立ちあがる姿に、蛇に睨まれた蛙のごとく体が動かない。
何故そんなに怒る。それ程心配するなら、恋人にでも何でもすればいいではないか。
そんな気持ちを込めて何とか睨み返せば、彼はガシガシと頭を掻いて、言葉を選ぶようにこぼした。
「話はそんな単純なものじゃない」
イリーナは誰にでも媚を売るような女じゃない。そのキスも多分……ファーストキスだろうに。
「……話が見えないんだが?」
ベルナルドは何を知っているというのだろう。眉をギュッと寄せて問えば、彼は「俺はあまり説明が得意ではない。けれど、多分、3年前に一番話したかったのは『お前』に……だろうから」と前置きして、俺の目をまっすぐに見た。
「なあ、急に借金を抱えて、返せなければ3年後に体を売れといわれたら……お前はどうする?」
「借金って言われても……稼ぐ当てなんて」
今は母さんの仕事が順調だから、そういうことについて考えたことはない。生活は出来て当たり前、援助もしてもらって当たり前、この先仕事にありついて、稼げるようになったときに孝行でも何でもすればいいと考えていた。
「普通は当てなんてないだろうな。ましてや、今から3年前なら子供と言っても差し支えない年齢だ」
けれど、イリーナはそんな現実を突きつけられた。そして、それを1人で受け止めなければならなかった。
「1人って……周りの大人は?」
「母親は他界し、父親は蒸発した。親族はそっぽを向いて、誰も彼女に手を差し伸べない状態だ」
事業を起こすために彼女の父親が借りた金額はおおよそ金貨二千枚。それに利子がついて三千枚。大人の男が五年から十年働いて稼ぐ金額が、借金として彼女の肩にのしかかってきた。それまで慎ましくも不自由なく生きてきたイリーナにとっては寝耳に水だっただろう。
話を聞こうにも頼みの父親はどこかへ消えてしまっているから何も分からない。ただ、残されたのは借金の証文と、金貨を回収に来た男達だけ。
「まず家を売れ、土地を売れ、持ち物を洗いざらい売れ、それからイリーナを見て……お前も売ってやるという」
貴族に屈折した感情を抱えている人間は探せばどこにでもいる。イリーナは今でこそ手入れされていないが、顔立ちは愛らしいから、磨けば変わるだろう。だから、そういう人種に売ってやると告げられた。
父親は逃げたまま帰ってこない、助けなんてない。
そんなとき、自分の無力さを突きつけられた子供はどうすればいい?
その言葉に、どう答えてよいのか分からなかった。




