第19話 かすれてすれ違う *テオドール視点
顔を洗おうとして石鹸に手を伸ばしたが、いつものところになかった。まだ使える大きさではあったが小さくなってきていたし、母さんが取り替えようと捨てて、補填し忘れたのだろう。
前髪からしたたり落ちる湯をギュッと押しやってもう一度確認するが、ない。
忌々しく思いながら、風呂場の扉を開けて脱衣所に出たとき、それは起こった。
目の前に、タオルをもったイリーナが入ってきたのだ。彼女はビックリしたまま俺を見つめ……それから力の限り叫んだ。
「ふんぎゃああああああああああああああ!!?」
それがあまりにもうるさかったので、タオルを口に突っ込んでやろうかと思ったが、体を隠したほうが賢明だろうと、イリーナの手からタオルを奪って腰に巻く。後から思えば、海で泳ぐ習慣のないイリーナにとって、男の裸にビックリしたのも分からないでもない。しかし、このときはそんなことなどすっぽりと頭から抜け落ちていた。
さっさと石鹸を掴んで風呂場に戻れば、ドアの向こうから肉体美がどうのだの、嫁にいけなくなるだの叫んでいるらしい。
「というか、ベル様に顔向けできないよおおおおー! ばかあ!」
その言葉にムッとする。
この場合の被害者は俺だろう!
そう思い始めると、押さえていたはずの怒りが湧き上がってくる。
俺のことを覚えていなかったことについては、俺も嘘をついたし、自業自得だと思う。けれど、それに対するイリーナの返事はあまりもあっさりしていた。あいつの中で、過去の話は過去として綺麗に引き出しの中に仕舞われていたことに、チリリと胸が痛む。そして、それ以上に金に対して執着を見せる姿にがっかりした。
思い出の中で笑うイリーナは、白くて柔らかくて、ふわふわとした存在だった。昨日再会したときには、髪飾りも何もつけないそっけない姿だったけれど、昔は可愛らしい髪飾りをつけ、長い髪が光を反射してまるで天使のようだと思ったのだ。
あの夏の日、日差しで頬を赤くした彼女に氷菓を渡したときの気持ちをなんと表現すればいいのか分からない。多分……淡い初恋だったのだろう。
それが、久々に選抜試験で会えば「ベル様、ベル様」と、いつの間にかベルナルドを追いかけている。
面白くない。ふざけんな。
ジリジリと胸が焦げ付いた。
「おい」
「何よ」
イリーナの中で昔の俺がベルナルドに吸収されてしまったのなら、……完全に壊したくなった。
粉々に潰してやりたいと思った。
「背中くらい流せ」
「は?」
そんなこと出来ないと、怒ってもいいし、怖がってもいい。逃げ出せばいい。
「メイドなんだろ?」
「っ……!」
俺の思い出も壊れてしまえばいい。傷つけて……自分も傷ついて、それで終わり。
このまま出て行けと願った。
――けど。
予想を裏切って、イリーナは据わった目をして風呂場に入ってくる。まさかの事態に俺はシャワーを持ったままぽかんと口をあけたまま固まった。
「ちょっ! 待て!」
「何が?」
いくらなんでもここまで近づかれれば、この事態が異常なことくらい分かるだろう。
「さっき、ベルナルドに顔向けがどうとか言ってたくせに」
「メイドなら背中を流せと言ってきたのはそっちでしょ!」
普通の女ならば、顔を赤らめて逃げるはずだ。
それほどまでに、俺はどうでもいい存在というのか?
まるで馬鹿にされているような気がしてむしゃくしゃする。試験中でも堂々と男の集団の中で布団を敷き、朝、ヴィルマーが髪を撫でていても気がつかないほど安心しきった顔で熟睡していた。ベルナルドがやんわりと止めたが、そのままにしていたら俺が止めていただろう。下心を持って近づいた奴らは、睨んで追い払う。眠れなかったのは俺も同じだ。
出しっぱなしのシャワーを捻って止めると、顔についた水滴をぐいっと拭う。
こいつは警戒心が足りないというレベルじゃない。金のために、ホイホイと境界線を越えやがって。
「馬鹿が。こんなことして無事に済むと思うなよ」
男が皆、ベルナルドのように誠実で、ヴィルマーのように手加減を知る奴ばかりだと思うな!!
ぐいっと彼女のあごを掴んで、唇を寄せる。そうして……
――少し日焼けで荒れた唇に、柔らかい唇が重なった。
顔を離すとイリーナはぽかんとした顔で目を見開いている。顔を赤らめるでもなく、全くの無反応の様子に舌打ちしたくなる。
「これも仕事だと? 金のためなら我慢できるとでも?」
それほどまでに軽く見られていたのだろうか。それとも、こうやって他の男にも唇を許したのだろうか。そんな光景を思い浮かべかけて、余りの不快感に頭を振った。
「金、金……今のうちから金の亡者のように稼いでどうする? 金貨三千枚貯めてベルナルドに告白? 貧乏貴族が背伸びして、裕福な貴族になったら誰でも男がなびくと思ったのか? 持参金で男を買おうとするな。ましてやあいつは金貨三千枚ごときで買えるような安い男じゃない」
――帰れ!
もうこれ以上顔を見ていたくなくて肩を突き放せば、イリーナはたたらを踏みながら、泣きそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさい、テオさんの前に現れて、思い出の女の子像を壊してしまって、幻滅させてしまって。ごめんなさい」
でも人は変わるものなの。ずっと昔のままじゃいられない。
ベル様をお金で買えるだなんて思っていない。けれど、今の私にはお金が必要なの。『普通』になるために、『普通』に生きていたいから。
「だから、なるべく目の前に現れないようにするから。だから、もう少し、もう少しだけここにいさせてください」
すぐに消えるから。終わったら、テオさんの前から姿を消すから。
なんとかそれだけ……震える唇から言葉を紡ぐと、イリーナは踵を返して走っていった。