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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

倒樹界 終章 新しい家族

 終章 新しい家族


 雨の中、杖をついて立つ哲也の前に、木々の間でうずくまるようにかたむいた、大きな鳥居がある。

 鳥居は降りしきる雨に洗われ、きれいな朱色をにぶく輝かせていた。ここは青梅街道に面した、井草八幡神社である。

 やっとここまで帰ってこれた。

 ハルニレの枝でつくった、即席の杖を握りしめながら、哲也は思った。

 右足と左手に打撲をうけ、肋骨も何本か折っている彼であったが、なんとか歩けるくらいに回復していた。ミイラ男のように、全身を包帯やらなんやらでぐるぐる巻きにされた痛々しい姿だったが、きたえられた若い体は強靭であった。

 だが、新宿でこの異変と遭遇してから、すでに七日がすぎてしまっている。

 新宿から中野区をはさんで、杉並区まで帰るのに一週間もかかってしまった。途中、哲也が動けなくなっていたし、またレギオンの群れに遭遇したこともあって、考えていたより時間のロスが多かったのである。

 

 哲也は、青梅街道をはなれて自分の家の方向を命に示しながら、心が重い泥に沈んでいくかのようであった。

 彼の家には、年老いた祖母が一人しかいない。頼れるものもなく、流通も通信もマヒし、樹海と化したこの東京に、老人が一人残されてしまったのだ。どう考えても楽観的にはなれない。

 なにしろ彼らでさえ、ここ二日間は満足に食事をできていない。怖れていた食べ物の腐敗がはじまったのである。彼には命という頼れる相棒がいたから、なんとかなったのだ。

 

 家は、ここから南へ少し下った所にある。ちょうど善福寺公園と東京女子大の間あたりだ。もうすでに目と鼻の先なはずなのだが、まわりを見回しても、マンサクやザイフリボク、ハリエンジュといった木々が立ち並び、地面には倒木の層が折り重なっているだけだった。哲也のおぼえている、高級住宅街としての善福寺の面影はどこにもない。

 それでも、ここで育った土地勘と、いくつか見つけられた電柱や民家の住所表示で、彼は自分の家を見つけることができた。

 

 そこは立体の花畑であった。

 下からキリシマの朱色の花、リュウキュウツツジの白紅色の花、クルメツツジの紅色の花、オオムラサキの赤紫色の花などが咲き乱れ、上に目を向けると、フジやシラフジの紫や白の花々が垂れ下がっている。

 それらはすべて春の花であったが、今や狂い咲きする花は珍しくない。

 これはどうやら、祖母がいつも世話をしていた、庭の木々のなれの果てであるらしい。

 哲也は、せん定はさみをもって庭に立つ彼女の姿を思い出した。

 しかし花々にかくされて、肝心の家はまったく見えない。

 「うわ! キレ〜イ!」

 単純にうれしそうな声をあげる命。

 うす暗い森の中で、この辺りだけは不思議と明るかった。枝と枝の間から、木漏れ日がスポットライトのごとく降り注いでいたのである。

 しかも都合のよいことに、太陽光が差し込んでいるのに植物が動き出さない。これは陽光の絶対量が少ないためである。哲也たちは明るく感じているが、それはここまでで暗さになれてしまっていたからであって、光量自体はやっぱり少ないのであった。

 哲也は、玄関があった所へ、足を引きずりつつ進んだ。

 ここが自分の家だとわかるのだが、玄関はおろか塀の一部すら見えない。すべてが緑や白や赤や黄といった色たちにさえぎられ、生い茂る下草と横たわる倒木いがい、なにも見えない。

 「哲也」

 命に呼ばれてふり返ると、彼女は黒革の手帳をもっていた。

 「そっちの方でひろったよ。草の中に落ちてたんだ」

 言いながら手帳をよこしてくる。

 哲也は、祖母が最近物忘れがひどくなったと言って、いつも手帳を持ち歩いていたのを思い出した。

 たしか、お婆ちゃんのものも黒革だった。

 手帳のページをパラパラとまくった。その手が思わず止まる。

 そこには、まぎれもない祖母の字で、哲也への言葉がつづってあったのだ。


   哲也へ

 もうすぐお別れです。

 私の体は木にはさまれて動きません。

 今まで長い間、ほんとうにありがとう。

 私はあなたと暮らせて幸せでした。

 でも私は、最後にどうしてもあなたに伝えなくてはならないことが、一つだけあります。

 哲也、あなたは強すぎます。

 あなたは弱さを憎むあまり、なにに対しても完璧すぎるのです。

 弱さは悪ではありません。

 なんでも一人でこなしてしまうことが、強さの証明になどなりません。

 なにもかもを自分だけでやってしまい、他人をまったく頼れないような人間は、実はこの世でもっとも愚かなのだと知りなさい。

 ほんとうは、もっと早くこのことをあなたに言いたかったのだけれど、勇気のなかった私を許してね。

 この手帳が、あなたの手にわたることを祈っています。

 最後に、さようなら。なんとしても、あなたは生き抜いてね。

                                   てる

 

 手帳の字は所々かすれ、さらに乱れてもいたが、不思議と書かれていることはすべて読み取れた。

 てるという、祖母の名が書かれた所を、指で何度もなぞる。

 そして哲也は手帳を閉じると、それをズボンのポケットにしまった。ポケットの中で、祖母の手帳は父の懐中時計とぶつかった。

 やっぱりダメだったか・・・。

 予想はしていた。でも、もしかしたら生きていてくれるかも、とも思っていた。とは言え、もはや自分は大人なのだし、祖母の死は、受け止めざるをえない現実の一つにすぎないと、理解することもできた。

 なのになぜだか、がっくりと力がぬけた。いきなり目の前が暗くなった。

 うああああああ〜。

 誰かが、うなっているような、妙な声をあげている。それが自分の泣き声だと気づかずに、哲也はただただ立ち尽くしていた。

 なにも見られない。なににも触れない。自分は一人になってしまったのだと思い知らされた。

 「哲也! 哲也!」

 暖かい体が彼をつつむ。筋肉だらけのくせに、そこだけはやけに柔らかな乳房が、彼の顔におしつけられた。抱かれて、ケガをした所が痛む。それでも離されたくはなかった。

 しばらくそうしていて、哲也の涙が止まった後、命は抱擁の力をゆるめた。

 「先輩」

 いまだ泣いているかのような、ひびわれた声で、哲也が命をよんだ。

 「先輩、あの手帳、どこで見つけました?」

 「ん? こっちだよ」

 命は、オオムラサキの下へと、哲也を連れて行った。

 彼は木を見上げた。はびこる枝と葉と花で、その全体像がわからない。だが、絶望的なほどの大きさをほこっているらしい。

 もちろん、どこにも祖母の姿などない。

 「おい! なにやってるんだ!」

 命は、とつぜんオオムラサキを登りはじめた哲也を見て、驚きの声をあげた。

 「どうしたんだよ! そんなことしちゃ、体に悪いだろ!」

 そう言っても、返事はない。彼は必死の表情で、ただ木を登り続ける。

 しかし、手も足も胴体すらも満足に動かせない男に、木登りなどできるはずがない。けっきょく一センチも登れないままに、足をすべらせて転んでしまった。そのまま倒木のすき間に体がはまってしまい、ぶざまにも抜け出せなくなってしまう。

 命に助け出された哲也は、そのまま力尽きたかのように座り込んでしまった。

 「大丈夫か?」

 彼はうなずいた。

 「なんでまた、そんなことを」

 「お婆ちゃんを、せめて降ろしてあげたいと」

 「さっきの手帳。お婆ちゃんのものだったんだな」

 「・・・ええ」

 「見せてもらっても、いいかな?」

 哲也はその言葉に少し考え、そしてこれにもうなずいた。

 しばらく手帳を読んでいた命は、それを返しながら、「哲也、お婆ちゃんの言いたいことが、まるでわかってねぇな」と言った。

 そして彼女は、声を荒げてつづける。

 「だってそうだろ! この手帳を読んだ後も、その体で木に登ろうとしやがってさ!」

 だまって命に怒鳴られている哲也。

 「哲也、お婆ちゃんの言う通りなんだよ。なんでも一人で背負っちゃダメなんだ。わかってくれ」

 彼女は、なけなしの勇気を奮い起こして、哲也を叱っていた。

 彼は自分の身の上話をしてくれない。それでも命は、彼が家族や家庭というものを知らない人間らしいと、ここまでの言動で気づいていた。今回、祖母を失ってしまった彼は、天涯孤独の身になってしまったことであろう。

 今は、この私だけが、哲也の支えになってあげられるんだ。

 彼女は強い義務感と、ほんの少しの優越感にかられていた。

 「よし哲也。お婆ちゃんは、この木にいるんだな。じゃあ、私がさがしてきてやる。だからここで待ってろ」

 命はオオムラサキに向き直った。

 天を突くかのような大木だが、彼女の身体能力と体力ならば、この木を登るていどはなんてこともない。

 「そんなこと言っても先輩、ぼくのお婆ちゃんの顔も知らないじゃないですか」

 「あ、そっか・・・」

 彼女の燃える義務感は、冷静な哲也の一言で粉砕されてしまった。

 「だ、だけどな、哲也の家族なんだから、たぶんわかるだろうよ。お婆ちゃん、哲也と似てるんだろ?」

 「いえ、それほど似ていたとは思えません」

 「ううっ」

 これで命はかなり困ってしまった。次の言葉をどうつなげればいいのか、彼女にはわからない。

 「そ、そんなん、やってみなくちゃ、わからねぇって!」

 言葉につまって意地になった彼女は、ムリヤリ行動にでた。オオムラサキに飛びつき、あっという間に見えなくなってしまう。


 小一時間ほどもオオムラサキをさまよっていた命だったが、けっきょく哲也の祖母は見つからなかった。

 「見つかりませんでしたか」

 帰ってきた彼女の表情を見て、哲也は彼女の失敗をさとった。

 「・・・ごめん・・・」見事にしおれながらあやまる。

 かっこよく啖呵を切ったはいいが、哲也の祖母どころか、一人の人間の姿も見つけることができなかったのである。

 「しかたありませんよ。でも、待っている間に、ぼくも落ち着きましたから」

 そう言った哲也は、いつものほほ笑みを見せた。だが命には、彼が笑いながら泣いているようにしか見えない。

 「さ、行きましょうか。もう、ここに用はありません」

 「え? 行くって、どこへ?」

 「先輩の家へ」歩き出した哲也は、けっしてふり返ろうとしなかった。「なにしろ、ここには誰もいないのですから。そんな場所に、ぼくらは用などないはずです」

 一歩一歩、重い足取りながら、確実に自分の家から離れていく。命は哲也についていくしかなかった。

 「さよなら」

 彼女は、哲也のつぶやきを耳にした。

 

 森にかこまれた吉祥寺駅を、二人はすぎた。

 駅ビルの看板も、半分以上がツタにおおわれて、無残にもゆがんでいる。

 哲也が歩きやすいように、ヤブを切り開きながら歩いていた命は、駅の裏手でとつぜん止まった。

 「どうしましたか?」

 哲也が彼女の脇から前を見ると、オオヤマレンゲの白い花の下に、くすんだ金髪の大きな白人女性が立っていた。

 「ママあっ!」

 命が叫んだ。そしてヤブを踏み散らしてダッシュする。

 「み、命! 命なの!」

 命を見た女性も、同じように走り出す。

 哲也の眼前で、巨大な親子の壮絶な抱擁がくり広げられる。

 横綱、がっぷりよつです。

 口にできない感想が浮かんだ。

 

 なんと、命の家族は全員が無事であった。

 さらに驚くべきことに、この家族はまわりの木々を材料に、即席の家まで建ててしまっていたのである。

 すばらしい生命力と適応力であった。

 「お姉ちゃん! お姉ちゃんね! 無事でよかった!」

 「いやいや、この人が死ぬはずないって、言ったじゃん」

 「真琴(まこと)! (みなと)!」

 命の母親のエマに連れられて行ったログハウスには、父親の(しげる)と、妹の真琴と湊がいた。

 やたら似ている姉妹だな。よく見れば、細部は違うけど。

 高三と高一の妹がいるとは聞いていたが、その両方ともが哲也よりはるかに背が高く、命と似たような体格をほこっているとは思わなかった。彼女たちも典型的な白人美人で、髪も赤くて長いものだから、よく見ないと誰が誰だかわからなくなる。

 そして、母親のエマも、ほぼ命たちと同様の背たけをもった人物なのである。

 こうなると、ともに百七十センチ代の茂と哲也は、大里家の女性たちにかこまれると、なんだか自分たちが巨大なダムの底にいるような錯覚をおぼえてしまう。

 まぁ、大里家の家長である茂にとっては、慣れた景色のはずだが。

 「私たち、これからどうなっちゃうのかな」

 「ぼくの考えが正しければなんですけど、そんなに問題ないと思いますよ」

 姉の命と同じように、真琴や湊にも、異変いらい力が強くなったり頑丈になるハルク効果があらわれているらしい。それを心配する真琴のひとり言を聞いて、哲也は自分の考えを披露した。

 「先輩にはここまでの道のりで説明したんですけど、あなた方は、たしかに超人的な能力をもっています。

 ですが、夜目がきくことも、足が手のように動くことも、ほんらいすべての人ができることなんです。必要がないから使えなくなっていただけで。

 それがあなたたちは、ちょっとだけハイパワーで使えるようになっているだけだと、ぼくは思います。

 だから、あなた方は、人間の枠を飛び越えてしまうようなことはないでしょう」

 ほほ笑みつつ説明する哲也を見て、真琴と湊は胸の動悸が早くなってしまうのを感じた。

 二人とも、長姉ほどのイケメンマニアではないつもりだったのだが、哲也はモロに好みであった。

 「それ、ほんとうですか?」

 真琴がうつむきがちに返事をする。反対に湊は哲也から目をそらさなかった。

 「あったりまえ! 哲也はねえ、絶対に間違えたりしないんだ!」

 豪快に断言する命であった。

 真琴も湊も、哲也の言葉を信用していいと考えていた。二人の内でもとくに真琴は、命より複雑な思考回路をもっており、初対面の人間をかんたんに信じたりしたことはなかったのだが、なぜか哲也なら積極的に信じるべきと思ったのである。

 「ねえねえ、お姉ちゃん。この人のことを、ちゃんと紹介してよ」

 末っ子の湊が、いたずらっぽい目つきで聞いてきた。

 なんとなく会話をしていたが、まだ哲也は自己紹介をしていなかった。

 「神野哲也くんっていうのよ。今日からいっしょに住むわ。こんな時ですもの、助けあわないとね」

 命や哲也が答えるより早く、エマが口を開いた。彼女はここまでの道中で、一通り哲也のことを聞いていたのだ。

 「そう! 今、人類は危機の中! だから遠慮なんかしなくていいのよ! 私たちは、みんなあなたの味方だからね!」

 彼女は一人で語って、一人でうなずいている。どうやらこの人は、熱い感激屋であるらしく、だんだんと自分に酔っていく気配があった。

 「は、はあ・・・」

 老夫婦に自分一人という、どこか枯れたような生活をしてきた哲也には、こういう汗臭いノリには耐性がない。生返事を返すほかなかった。

 「ああ! なんて、かわいそうなんでしょう! こんなにひどいケガまでして! でも、もう安心よ! 私たちがあなたを守ってあげるから! そうしたら、この程度のケガなんて、すぐによくなるわ! ええ、なりますとも! ええい、ならいでか!」

 「あの、たしかに大ケガですが、そこまでのものでは・・・」

 「湊!」

 「ん!」

 「あなたは包帯と薬の用意を! 吉祥寺駅周辺まで出れば、すぐに見つかるわ! それと当面の水と食料、薬草をとってくること! いいわね!」

 「うん、すぐやる!」

 「あ、あの・・・」

 哲也の声など聞こえなくなったエマは、矢つぎ早に指令を飛ばす。

 「真琴!」

 「はい!」

 「あなたは、まずベッドを一つ作り、しかる後に枕やシーツをさがしてきて、ベッドメイク! すべて終わったら、哲也くんを寝かして固定! 」

 「わかったわ!」

 「いえ、固定するほどではないかと・・・」

 「そして命!」

 人の話は聞かないエマであった。

 「おう!」

 こういう所は母親似なのか、三姉妹もほかに耳など貸さない。

 「もちろん、あなたは哲也くんの看病よ! 彼用のベッドができるまでは、私たち夫婦のものを使っていいわ! 愛で回復を早めなさい! 愛、愛なのよ!」

 「まかせろ! 私、愛ならいつもあふれてる!」

 娘と再会し、哲也を見た瞬間、エマは二人の関係を見抜いていた。て言うか、娘が昼間っからハダカで動き回っていたのだ。いっしょにいる男と他人であるはずもないのだが。

  ちょっと、ついていけない・・・。

 この親子は、信じられないくらい恥ずかしいセリフを堂々と口にし、いまだに命は服を着ていないというのに、それに対しては完全にノーリアクションだったりする。なんだか哲也は、頭を抱えたくなった。

 「哲也くん。こうなってしまっては、彼女たちを止められるものなどないんだよ」

 哲也の背後から肩に手を置いて、父親の茂がしみじみと話しかけてきた。

 「お父さん・・・」

 「だがね、そのおかげで私は助かったようなものなんだよ。異変が起きた時、エマと真琴が、私を抱えて逃げてくれたからね。ちょっと、男としてはこう、恥ずかしい気持ちもあるんだけど」

 「あ、ぼくもそうでした。先輩に抱えられて、ここまでこれたようなものなんです」

 「うん。そうだと思ってたよ」

 男としての自尊心を、少しだけ傷つけられてしまったもの同士、後は言葉など不用であった。

 「さあ、総員戦闘開始!」

 だが男同士の傷のなめ合いは、エマの宣言とともに強制終了させられた。

 命にかつがれてリビングを出ていく哲也の姿を、茂は最後まで見送っていた。

 

 「ほーら哲也、あーん」

  命が、カボチャスープの入ったスプーンを差し出してくる。哲也が口を開くと、すぐに暖かいスープが流し込まれた。

 ・・・かなり恥ずかしい・・・。

 命の後ろには真琴と湊がおり、目をかがやかせてこちらを観察している。哲也は、自分が動物園の珍獣になったような気がしてきた。かと言って、スープくらい自分で飲めると言っても、聞き入れてはくれないだろう。

 この扱いはしかたないとして、食糧が自給自足できているのは心強いな。

 大里家の人々の、暑っ苦しい視線はあえて無視と決める哲也。今、それより注目するべきは、彼らの生活力なのである。

 エマたちは食料確保の手段として、自分たちを苦しめた植物の急速成長を逆手にとっていた。

 まず彼女たちは本屋の跡地で写真入りの植物図鑑をさがし、それで食用および薬用の植物を見分け、自分たちで栽培していたのである。

 なにしろ、この森には、ありとあらゆる種類の植物がある。

 熱帯地方に生える木も、寒帯地方にあるはずの木も、すべてごちゃまぜなのだ。少しさがしただけで、食用ではカボチャやニンジンやクリが見つかり、薬用ではカワラケツメイやカタバミ、ハハコグサなどが見つかった。はてはバナナやマンゴーまでがあったのである。

 さらに、これらを増やすのも簡単であった。

 少しでも日の光に当てればよいのである。それだけで、単なる種子は見る間に巨大化し、たわわに実をつける。あまり大きくなる前に倒してしまい、光をシートなどでさえぎってしまえば、倒木や急速成長の危険もない。

 「今やモモクリ三秒、カキ八秒さ」

 茂は、そんな冗談を言ったものである。

 この方法は、哲也も道中で思いついてはいた。しかし、たんなる想像と実践はちがうものである。たったの一週間でこれだけのノウハウをつくり上げたエマたちは、すごいとしか言いようがない。

 だが、このやり方にも欠点があった。それは、動物性タンパクが入手しにくいのと、急速成長した穀物や果物の味がまずいということである。

 正直、動物性タンパクの方はどうしようもない。これはガマンするしかないにしても、味だってけっこう問題であった。急速成長した実は、中身があまりつまっておらず、味も悪い。ゼイタクを言うつもりはないが、それでもことが毎日の食事についてなのである。舌の肥えた現代人には、少しつらい。

 だから、それを補うために、調味料がぜったいに必要だった。

 命たちがエマにであった時も、エマは調味料をさがしに出ていたのである。

 哲也はカボチャスープを飲ましてもらいながら、当面の食料問題が解決していたことに、心から安堵した。

 

 食事を終え、哲也が体を横たえると、今度は猛烈な眠気におそわれた。

 そして次の日から、彼は四十度近い高熱に苦しむこととなった。

 命の家族とであえた達成感と、頼れる人間がいる安堵感から、今まで薬と気力でおさえていた疲れと骨折の熱が、一気にあらわれたのである。

 熱にうなされながら、さまざまな夢を見た。

 ダンドリオンが、サバンナの原野を駆けぬけて行った。

 石館義男と美代子の親子が、サクラ吹雪の下で笑っていた。

 父が懐中時計を、祖母が黒革の手帳を、それぞれ自分の懐にしまいこんだ。

 車が谷に落ちていく。その中で兄が、「起きろ、哲也」と言った。

 たしかに兄は、「哲也」と、夢の中の自分に向かって呼びかけていた。

 目をさますと、命の顔のドアップが横にあった。

 どうやら看病してくれている間に、彼女も眠ってしまったらしい。

 「・・・ん・・・」

 哲也が動いたので、命も目をさました。

 「あ、すみません。起こしちゃいましたか」

 「いいよいいよ。それより具合はどう?」

 「ちょっとスッキリしました。もちろん、まだ本調子には遠いですけど」

 彼の脳裏に、夢でであった一人一人の顔が浮かぶ。その全員に、心で別れをつげた。 

 よし、心の準備はできた。今こそ、言おう言おうと思っていたことを、告げるべき時だ。

 一大決心し、上半身を起こす。そして、命の瞳を正面から見つめた。

 「な、なに?」

 命は彼のただならぬ気配に、なにかで怒られるんじゃないかと、思わず身構えてしまう。

 「先輩、お願いが一つあります」

 「へ?」

 「先輩のことを、名前で呼んでもいいですか?」

 「はぁ? なんだって?」

 哲也がなにを言ったのか、命はよく理解できていなかった。

 しかたないので、顔を赤らめつつ、言葉を変えてくり返す。

 「あなたのことを、大里先輩ではなく、命と名前で呼んでもいいでしょうか?」 

 哲也に新しい家族ができた、その瞬間であった。

 








 エピローグ


 『それ』は、神野哲也から目が離せなかった。

 現在の彼は、数人の人間たちと行動をともにしている。

 その集団のリーダーは年長の女であったが、いつからかそれは哲也に代わっていた。彼がそう望んだわけではなかったが、集団の構成員全員の考えが、自然とそうなっていったのである。

 「神野哲也の能力が、効果をあらわしはじめたか」

 『それ』の予想だと、集団はこの後、哲也をめぐって争いはじめてしまうことになる。

 薬物中毒患者は、薬物でえられる快感以外では、食事をしても睡眠をしても楽しめなくなるものだが、神野哲也の能力にあてられたものも、同じ道をたどるはずなのだ。その結果、彼を独占しようとするものがあらわれることは、想像に難くない。

 

 とくに三人いる娘たちは、その変化が顕著であるぶん、不安も大きかった。

 彼女たちは、自身の自己進化によるハルク効果と、哲也から与えられる覚せい効果によって、無敵の身体能力をえている。それは、銃弾すら撃たれてからよけられるという、通常の人間をはるかに超えるものであった。こんな三人につねに守られている神野哲也は、物理的な脅威にたいしてなら、ほぼ怖いものなしだ。

 たとえば、これから必ず起こることとして、水位の上昇やスーパーセルと呼ばれる巨大台風などの問題がある。水位は、気温が六度あがれば約五センチ上昇するものなので、吉祥寺にいる彼らとて安全ではない。さらに今の気象状況は、おそろしく大きな台風を生み出すだろう。

 それでも、これらの脅威なら、哲也の頭脳と三人の守護者の力で、なんとでもできる。それがたとえ大災害だとしても、力で彼らを害することは不可能であった。

 

 しかし、彼女たちの内面がどうなっているかはわからない。

 今、守護者たちは全員が服を着なくなっているが、これは彼女たちがそれだけ獣に近づいている証拠に思える。これがエスカレートすると、たとえば将来、彼女たちが母親になっても、子育てなど不可能かもしれない。哲也の能力によって、我が子にすら愛情をもてなくされている可能性がある。

 さらに言えば、強い力は体への負担も大きいのである。このままなら、あの守護者たちは後二十年ほどしか生きられない。その時、一人ぼっちに戻ってしまう哲也は、いったいどうなるのか。


 『それ』は嘆息した。

 神野哲也は自分でも気づかないうちに、自分自身もふくめた、まわりのすべての人間を不幸にしようとしている。

 彼が不憫であった。彼を救いたかった。

 『それ』が、人間の個人に、こんな感情をもつのははじめてであった。

 だが、『それ』に、哲也を救うことはできない。

 『それ』は、人類の文化文明を一晩で滅ぼしてしまうようなことならできるが、個人に救いの手を差し伸べるような手段をもっていないのだ。全知全能などという存在は、きわめて大ざっぱにならざるをえないのである。

 

 「私がまちがっていたのか。この事態を、引き起こすべきではなかったのか」

 自問自答はつづく。

 だが少なくとも、今回のカタストロフを自分がはじめなければ、神野哲也は平凡ながらもおだやかな一生を送れたであろうとは思った。

 『それ』は、後悔している自分に驚いた。全知全能と後悔は、あまりにも相反するものである。

 それでも、神野哲也なら、彼の不屈の精神なら、この状況も乗り越えられるかもしれないと考えた。今までなんども、『それ』の予想を超えることを成しとげてきた人類の、中でも人類中の人類といえる彼なら、きっと。

 「私の先読みも、はずしまくっていることだしな」

 全知全能とか言いながら、自分がまちがうことに希望を見いだす『それ』。悪くないジョークではあった。

 「しかし、なんとぶざまな」

 自分をわらう。うろたえている自分にあきれ、しかし、しばらくしてから納得もした。

 悩み、不安を感じ、後悔し、しかし最後になけなしの希望にすがる。

 これは人間だ。『それ』は、人間の生きざまをながめているうちに、自分も人間になってしまっていたのである。

 

                      



極端な世界で、極端なキャラクターを動かしてみたいと思い立ち、ノアの方舟や北欧神話などをヒントにこの作品を書き上げてから、ずいぶん時間がすぎてしまいました。

その間に、ゲームやアニメ、あるいは映画などで、似たようなアイデアを見せつけられ、同じようなことを考える人間って多いものだなぁと考えたものです。

さらに震災まで発生し、その圧倒的な現実の前に、私の想像の矮小さも思い知らされました。

それでも、当時の自分が一生懸命作り上げた作品ですし、ただタンスの肥しにしているよりも、少しでも人の目につく場所におこうと、今回、投稿させていただいた次第です。

では、お楽しみいただけたなら、身に余る光栄です。

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