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婚約破棄ですか? では、あなたが操られた理由をお教えしましょう

掲載日:2026/10/22

満開を過ぎた薔薇が、赤い花びらを石畳に散らしていた。


王宮東翼のサンルームには、午後の陽光が斜めに差し込んでいる。湿った土と熟れすぎた果実の甘い香りが、むせ返るほど濃かった。


「オリヴィア。君との婚約は、今日限りで破棄する」


第二王子エドワルドは、堂々と胸を張って宣言した。


その腕には男爵令嬢マリエラが縋りついている。潤んだ瞳、震える肩、今にも泣き崩れそうな表情。実によくできた演技だった。


「理由をお聞かせいただけますか、殿下」


「その冷酷さだ! 君はマリエラを陰湿に虐め、社交界から追放しようとした。証拠も揃っている!」


彼は羊皮紙を私の足元へ投げ捨てた。


「君が書いた誹謗中傷の手紙だ。筆跡まで一致している!」


私は紙を拾わなかった。


「殿下。一つ質問をしてもよろしいでしょうか」


「今さら命乞いか?」


「マリエラ様が初めて殿下にお会いした日のことを覚えていらっしゃいますか?」


「当然だ。彼女とは古い狩猟詩について語り合った。あれほど趣味の合う女性はいなかった」


「その詩集は王宮書庫にしか原本がなく、一般に流通しているのは三十年前の限定復刻版だけです」


「それがどうした」


「マリエラ様のご実家が復刻版を購入されたのは、茶会の三日前です」


マリエラの指がぴくりと動いた。


「偶然ですわ! 昔から好きだった本を買い直しただけで……」


「そうでしょうね。では、殿下が幼少期に落馬した際のお話は?」


エドワルドが眉をひそめる。


「あれは王族の間でも限られた者しか知らぬ話だ」


「マリエラ様は、同じように落馬した経験があると仰ったそうですね。左膝に傷が残っていると」


「ええ! 私たちには運命的な共通点が――」


「男爵家の侍医によれば、マリエラ様の左膝に古傷はございません」


沈黙が落ちた。


「人は自分と似た相手を好みます。趣味、経験、価値観。共通点が増えるほど警戒心は薄れる。『影響力の武器』では、これを好意の原理として説明しています」


「難しい言葉で私を侮辱するおつもりですか!」


マリエラが叫んだ。


私は彼女ではなく、周囲の側近たちに目を向けた。


「では皆様に伺います。私がマリエラ様を虐めているところを、実際にご覧になった方は?」


数人が顔を見合わせた。


「私は侍女から聞きました」


「私は騎士団の者から……」


「私も、皆がそう申しておりましたので」


「つまり、誰も直接は見ていないのですね」


私は微笑んだ。


「それが社会的証明です。皆が信じているから、自分も信じる。では、その噂を最初に広めた人物は誰でしょう?」


側近たちの視線が揺れた。


「最初に相談を受けたのは、下級騎士のロベルト卿でしたね。彼はマリエラ様から『殿下をお守りするため、オリヴィア様の横暴を止めてほしい』と頼まれたそうです」


「私はただ、助けていただきたくて……!」


「ええ。あなたは誰にも嘘の証言を強要していない。ただ、不安を伝えただけ。聞いた者が勝手に善意で噂を広めるよう仕向けた」


エドワルドが苛立たしげに机を叩いた。


「もうよい! そんな理屈で彼女の潔白を疑うものか!」


「では殿下。マリエラ様は昨夜、何と仰いました?」


「……何?」


「『明日までに婚約を破棄してくださらなければ、公爵家に消されてしまう』。違いますか?」


エドワルドの顔色が変わった。


マリエラが悲鳴のような声を上げる。


「殿下! 私たちの会話を盗み聞きさせたのですわ!」


「否定なさらないのですね」


私は静かに続けた。


「期限を設け、失う恐怖を煽る。殿下は熟慮する時間を奪われたのです。厳密には希少性と損失回避を組み合わせた誘導ですわ」


「黙れ!」


エドワルドが拳を握った。


そのとき、マリエラが涙を拭い、か細い声で言った。


「皆様、お分かりでしょう? オリヴィア様こそ、難しい理屈で殿下を操ろうとしているのです。私には何も分かりません。ただ殿下をお慕いしているだけなのに……」


側近の一人が頷いた。


「確かに、オリヴィア様のお言葉も推測にすぎません」


「そうだ!」とエドワルドが勢いを取り戻す。「結局、君には何の証拠もない!」


私は扇を開いた。


「お見事です、マリエラ様」


「……え?」


「自分が理解できないものを危険だと思わせる。そして『純粋な私』と『狡猾な相手』を対比する。たいへん効果的な印象操作です」


「また、そのような――」


「ですが、私は一度も、皆様に私を信じてほしいとは申し上げておりません」


私は扉へ視線を向けた。


「事実を確認していただきたいだけです」


重厚な硝子扉が開いた。


「ならば、確認しよう」


現れたのは王太子アルベルトだった。背後には近衛隊長と財務卿が控えている。


「兄上……?」


「エドワルド。お前が証拠と称した手紙は、王立鑑定院で調査済みだ」


財務卿が書類を広げた。


「用紙の透かし、インクの配合、筆跡の特徴。すべてマリエラ嬢の私室から押収した書状と一致しました。さらに、オリヴィア公爵令嬢の署名を練習した紙片も発見しております」


マリエラの唇が震えた。


「そ、それは……」


「もう一つある」


アルベルトが告げた。


「マリエラ嬢の父親は、第二王子の婚姻に伴う宮廷人事を見越し、複数の商人から金を受け取っていた。婚約破棄の翌日に新たな婚約を発表させる計画書も押収した」


「嘘です!」


マリエラが叫んだ。


「殿下! 私を信じてくださると仰ったでしょう!?」


エドワルドは彼女の手を振り払った。


「触るな! 私を騙していたのか!」


「殿下が勝手に信じたのでしょう!」


その言葉に、全員が凍りついた。


マリエラ自身も、口を滑らせたと気づいたらしい。


私は扇を閉じた。


「そのとおりですわ、マリエラ様」


「……何ですって?」


「殿下には、ご自身で考える機会が何度もございました。それでも都合のよい言葉だけを選び、私の弁明を退けられた。騙されたことと、責任がないことは別です」


エドワルドが私を見た。


「オリヴィア……私は……」


「一貫性の原理をご存知ですか。人は一度公言した判断を、誤りだと分かっても撤回しにくくなります。ですが殿下は、驚くほど簡単に意見を変えられましたね」


「そ、それは真実が分かったからだ!」


「いいえ。今度は王太子殿下という、より権威のある方のお言葉に従っただけです」


エドワルドは口を開き、何も言えずに閉じた。


「他人の判断に従うことしかできぬ者に、王家の責務は任せられん」


アルベルトが冷たく告げる。


「父上には報告済みだ。お前の継承権と公務上の地位については、王家の評議会で審議する。それまでは謹慎を命じる」


近衛兵が進み出た。


「兄上! お待ちください!」


エドワルドの声が遠ざかる。


マリエラも連行された。男爵家の不正と書状偽造について、正式な裁判が開かれることになるだろう。


やがてサンルームには、私とアルベルトだけが残された。


「見事だったな」


アルベルトが微笑む。


「私が到着する時刻まで計算していたのか?」


「もちろんですわ」


「証拠の収集も、鑑定院への依頼も、君の手配だった」


「殿下には、最後に権威をお貸しいただいただけです」


「では、私も君の筋書きの一部だったわけだ」


私は答えず、窓の外へ目を向けた。


夕陽を浴びた薔薇が、最後の花びらを散らしている。


「一つだけ聞きたい」


アルベルトの声が低くなった。


「君はなぜ、あれほど丁寧に心理学の原理を説明した? 証拠を突きつけるだけで十分だったはずだ」


「殿下はどうお考えですか?」


「……エドワルドに、自分の愚かさを理解させるためか?」


「それもございます」


私は扇を胸元に当てた。


「ですが、一番の目的は、周囲の方々に『自分も操られていたかもしれない』と思っていただくことでした」


アルベルトが目を細める。


「そうなれば、誰もエドワルドを庇えない」


「庇えば、ご自身の判断力まで疑われますもの」


「なるほど。社会的証明を逆向きに利用したのか」


「ええ。そして、皆様の前で真実を認めさせれば、今度はその判断に一貫性を保とうとなさるでしょう」


アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて声を上げて笑った。


「恐ろしい女性だな、君は」


「お褒めの言葉と受け取ります」


「では、その恐ろしい女性に一つ提案がある」


彼は私の前に立った。


「私の妃にならないか。君ほど頼もしい伴侶はいない」


私は微笑んだ。


「殿下。今のお言葉には『権威』と『好意』、それに『返報性』への期待が含まれていますわね」


「……求婚まで分析されるとは」


「当然です。私は二度と、王子という肩書だけで結婚相手を選びません」


「ならば、どうすればよい?」


「まずは私が、殿下ご自身を好きになれるか確かめさせてくださいませ」


アルベルトは一瞬目を丸くし、それから楽しそうに笑った。


「望むところだ」


差し出された手を、私はすぐには取らなかった。


人の心には、必ず隙がある。


けれど、その隙につけ込むことと、心を通わせることは違う。


それを理解できる男性かどうか。


今度こそ、時間をかけて見極めるつもりだった。


私は扇を閉じ、彼の手にそっと指先を重ねた。


「では殿下。まずはお茶から始めましょう」


窓の外では、散り終えた薔薇の向こうに、新しい蕾が揺れていた。



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