色〜母の世界
久美とは月に一度、駅前の喫茶店で会う。
いつもと同じ窓際の席で、いつもと同じブレンドを頼んだ。
久美はカフェオレだった。それも毎回変わらない。
「旦那さん、今どうしてるの」と久美が聞いた。
「家にいる」と答えた。
久美はナプキンを一度折り直してから、顔を上げた。
「再就職は考えてるの?」
「本人は、するって言ってる」
「それはよかった」と久美は言った。「でも、幸子は大変ね。急にそんなことになって」
私は頷いた。奥歯が軽く触れた。
「うちの主人だったら、絶対そんなことしないけど」と久美は続けた。
「でも、男の人って追い詰められると突然そういうことするのよね。だから奥さんがしっかりしないと」
唇だけ動いて、止まった。
「子供もいるんだし、早く落ち着くといいね」と久美は言った。
「直樹くん、来年受験でしょう。こんな時期に、かわいそうに」
「そうね」と答えた。
「旦那さんにもう一度、ちゃんと話してみたら? 家族がいるんだから、好き勝手はできないって」
久美は笑顔だった。
テーブルの上の私の手に触れようとして、指先だけ伸ばして、引っ込めた。
コーヒーは温かかった。
けれど、久美の言葉を飲み込むたびに、喉の奥が砂を噛んだようにザラついた。
コーヒーが冷える速度だけが、はっきりわかった。
帰り道、公園の脇を通った。
ベンチに子供が一人いた。
砂を手のひらに乗せて、そっと落としていた。
風が来て、散った。また拾って、また落とした。
私はしばらくその子を見ていた。追いかけなかった。
駅の方へ行くはずの足が、家の方へ折れた。
家に帰ると、押し入れを開けた。アルバムの背表紙が指先に冷たく当たった。
引き出した拍子に、埃が舞い、西日にきらりと光った。手がそれを選んでいた。
リビングのソファに座って、ページをめくっていると、二階から直樹が降りてきた。
気配に気づいて顔を上げた。隠そうとして、やめた。
「何見てるの」と直樹は言った。
「昔の写真」
「見ていい?」
言葉が出てこなかった。でも閉じなかった。
直樹はソファの隣に座って、アルバムをのぞき込んだ。
髪の長い男が写っていた。
ギターを抱えていた。白いTシャツの色が、脇の下から濃く変わっていた。
弦の上の指がぶれていた。口が開いたまま、息をしていた。目元でわかった。父だった。
「バンドのライブ、よく見に行ってたの」と言った。
「下北沢の小さなライブハウスで」
ページの端を撫でた。
「就職するって、自分で決めたの」
直樹が写真から目を離さずに頷いた。
「嬉しかったのも本当よ」と言った。
「ちゃんとしてくれるんだって。私たちのために頑張ってくれるって。それが誇らしかった」
窓の外で風が動いた。カーテンの端が揺れた。
二人でしばらく、アルバムを見た。
ライブの写真、打ち上げの写真、見知らぬメンバーたちと肩を組んだ写真。
どれも父が、カメラを見ていなかった。
「直樹は」と聞いた。「どうしたいの、これから」
責めているのではなかった。ただ、真剣に聞きたかった。
直樹は「わからない」と言おうとして、止まった。
「絵は、好きだけど」とだけ言った。
私は頷いた。それ以上聞かなかった。
アルバムの角を指で一度押さえてから、そっと閉じた。
立ち上がって台所に向かいながら、独り言のように言った。
「父さんのギター、いいでしょう」
直樹は答えなかった。
台所から、人参を切る音が聞こえてきた。
これまでより少しだけ鋭く、確かなリズムだった。




