色〜退路が見えない道
進路希望用紙は、三つ折りにされて鞄の底に沈んでいる。
教科書の重みでさらに奥へ押し込まれ、用紙の角が少しずつ潰れていく。
提出期限は来週の金曜日だと担任の川田が言った。
黒板に赤チョークで「11/14」と書いて、二重丸を描いた。
椅子が鳴って、笑い声が一度だけ跳ねた。
ペン先が一斉に走った。
昼休み、隣の席の宮下が弁当のから揚げを口に放り込みながら言った。
「俺、経営学部にする」。別に誰も聞いていなかったのに。
直樹はしゃけのおにぎりを見つめていた。いつもと同じおにぎり。
「お前は」と宮下が言った。「どうすんの」
「まだ」と直樹は答えた。「決めてない」
「美大だろ、反対されてるのか」
「反対はされてないよ、たぶん」
宮下は「ふーん」と言って、スマホを取り出した。
絵を描くことは好きだ。
小学生のころから、気づけば紙に何かを描いていた。
授業中のノートの余白、教科書の端、レシートの裏。
描くことに理由はなかった。ただ手が動いた。
ただ、美大に行きたいかと言われると、話が変わる。
何かを習うと、広がるより先に輪郭がつく気がした。
こうするべき、こう見るべき、という線が引かれていく。
その線が怖かった。
まだうまく言葉にはできていなかったけれど、そういうことだと思っていた。
かといって、普通の大学に行きたいとも思わない。
就職したいとも思わない。
何がしたいかと言われれば、ただ絵だけを描いていたい。
でもそれで生きていけるとは思っていないし、思えない。
だから動けない。
行きたい場所も、行けそうな場所も、どこにも見当たらなかった。
宮下は画面を眺めたまま、何も言わなかった。
直樹はおにぎりを半分だけ残して包み直した。
しゃけの匂いが急に濃くなった。
鞄の底で、紙の角がまた一つ折れた。
帰り道、足が交差点で勝手に曲がった。
家へ向かう角だけ、遅れてほしかった。
夕暮れの住宅街を歩きながら、塀の染みを眺めた。
不規則で、どこにも収まらない形をしていた。
目がそこに吸い寄せられた。
形がほどけていて、ずっと見ていられた。
でも同時に、小学校の図工で先生が定規を当てて線を直した手の感触が戻った。
あのとき、紙の上の染みはただの汚れになった。
夕日のはずなのに、壁の白が白いままだった。
影だけが濃く伸びて、色はどこにも染みてこなかった。
鞄のファスナーに指がかかった。引く前に、指先が離れた。
玄関を開けると、家の中が静かだった。
いつもなら台所から音がしている時間だ。
でも今日は何も聞こえない。
リビングをのぞくと、母が椅子に座っていた。
炊飯器のランプが消えていた。いつもなら光っている時間だった。
「お帰り」と母は言った。
一度も瞬きをしないまま言った。
「ただいま」と直樹は言った。
喉の奥で一度言葉が引っかかった。飲み込んだ。
二階の自分の部屋に上がって、鞄を床に置いた。
その夜、夕食の席で父が言った。
「会社、辞めた」
自分の息のほうが大きく聞こえた。
「もう、限界だった。だから辞めた」と父は続けた。
「退職金はそれなりに出る、学費は心配するな。仕事もやらないわけじゃない」
直樹の口の中の米が、急に粉っぽくなった。
茶碗の中の白米を見つめた。一粒一粒が、やけにはっきり見えた。




