魔方陣と父親
「あ、おはようございます」
隼人は図書館でミーナに挨拶をした。彼女は狼族の獣人で、その高身長に特徴的な黒毛で、一目で彼女と分かった。それにしても、
「朝早くからおられるんですね」
「今は学院が休みなので、暇を持て余しているというか……」
彼女の言う学院とは、王立魔導学院のことである。
「それに、ハヤトさんとお話できればなと」
良い笑顔で言う。隼人は少し面食らった。
(恋愛的な意味がなくても、これは結構効くな……)
「そ、そうなんですか。俺もまだ魔術については初心者なので、ミーナさんに教わるのは楽しいですよ」
「それは良かったです!でしたら今度は、もう少し応用を勉強しましょうか」
「ですね。前回の復習は済ませてあるので、ぜひ」
そして二人は参考書を持って席につく。と、隼人は不意に言った。
「ミーナさん、実は俺、試験を受けることになったんですが……」
「一体なんの試験ですか?」
「陸軍士官学校です」
「士官学校!?国立の試験は3日後ですよ?」
「どうしても受けないといけないんです。難易度は易しめに調整されているらしいんですが、どう勉強すればいいか分からなくて。それでとても厚かましいお願いなんですけど、アドバイスとかありませんか?」
ミーナは考え込む。
「そうですね……。やっぱり、魔術学ですかね。特に陸軍士官学校の実技試験は、ゼロから魔術式を組み上げるといった内容ですから」
「なるほど……」
やっぱり、3日で間に合う気がしない。
(でも、受かれば少佐。それに大隊長……)
「受かりますよ、きっと」
ミーナが言う。
「ハヤトさんは戦闘機のパイロットさんですから、魔術理解に必須な術式全体を俯瞰する、なんて得意なはずです」
「そうですかね……」
「そうですよ!早速進めましょう!」
(どこまで健気で優しいんだ、この人は)
「よろしくお願いします」
そして正午を回り、お昼時を過ぎた頃。
「ミ、ミーナさん。そろそろ休憩を……」
「あと少しですよ!あとたった2000通り、術枝を描くだけです!」
隼人は手首に鈍い痛みを感じながらも、苦しそうに鉛筆で線を引いていた。そこから更に10分後。
「出来ました……」
「拝見します。……これは!」
ミーナはぐったりと椅子の背にもたれかかる隼人に声をかける。
「完璧です!こんなに早く初級魔術を理解するなんて、すごい!」
「どうも……。あと、お昼を」
隼人が席を立とうとしたとき、すかさずミーナは言う。
「私、サンドイッチがありますよ」
「……頂きます」
さらにさらに30分後、やっと精気を取り戻し始めた隼人に、ミーナは参考書を差し出す。
「次はこれを解きましょう」
「サンドイッチ、とても美味しかったです…!」
「ありがとうございます。では、解きましょう」
この程度では、ミーナは揺るがない。
(そんな、ゲームのNPCみたいに)
「分かりました……」
「ではまず、基底術式と、魔方陣についてです」
ミーナの講義は1時間続いた。
「……という訳で、魔方陣の特にハーレン型六角魔方陣では、このように基底術式を中心に放射状に術枝が伸びていきます。基底術式を一度内部で完結させるのは……」
隼人が機械音声のように言葉を継ぐ。
「魔術の内包する概念的な属性を変更可能にするため」
「その通りです!ですから、魔術全体の書き換えも容易に行えます。特にハーレン魔方陣は6角形の形状から量産しやすく、複数の魔術を並べて、一つの魔晶石から同時に使用できる利点があります」
「だから整備性と拡張性、そして生産性の優先される兵器類などに広く使われている」
「完璧ですね。魔術の属性は言えますか?」
「火、水、地、風の四大属性」
「その理由は?」
「自然界に恒常的に存在するモノや現象、つまり誰しもが持つ普遍的概念は、魔術を構築し易くするため」
「素晴らしいですね。この調子だと、士官学校の一般試験も受けられそうな勢いです!」
「そうですか……」
隼人は心の中で叫んだ。
(この人、鬼だ!自分で頼んでおいてなんだけど、正直受験勉強よりキツかった。それによく見たら、この範囲、通常は1年かけて学ぶところじゃないか。それを2時間ちょっとで……)
「では最後に、魔術の格について勉強しましょうか」
「最後!」
ミーナの言葉に、隼人は不意にガバッと椅子から跳ね起きた。
「そうです。不本意ながら、もうすぐ家の門限なので……」
「ええ、とても不本意ですよ!それで、魔術の格というのは?」
「ざっくり言うと、術式変数量に拠る、魔術の規模です。今ハヤトさんが学んだのは初級魔術と一般魔術。国の分類では、あと上に二つ、上位の魔術が存在します」
「それは一体……」
「上級魔術と、そして極大魔術です。これらは他二つの魔術とは一線を画す性能や威力、効果範囲を持ちます。分かりやすく術式変数の値で言うと、初級が1000通り、一般が10万通り、上級が5億通り、極大が1兆通りから分類されます」
「1兆!そんな魔術が存在するんですか?」
「いくつか存在しますよ。といっても、膨大な量の術枝が必要ですから、それら全てを一定間隔で表すために、その一部を術枝ではなく文字とすることで省略した、ルーン型の円形魔方陣が用いられています。半径500メイル以上の巨大なものになりますが」
メイルとは、1メートルと丁度同じ長さを表す単位である。つまり、半径500メートルの巨大な魔方陣が存在している。
「そんなもの、どうやって運用するんですか?」
「地表にあらかじめ描いておいて、その上に敵を侵入させ発動。ですかね」
「巨大な地雷のようでもありますね。でも、それだけですか?」
「基本はそうですね。移動可能な極大魔方陣は作れませんから」
隼人はそこに引っかかった。
「基本は?例外も存在するんですか?」
「賢者様です」
「シルヴィア様が……。一体どうやって?」
隼人の問いに、ミーナは表現しづらそうに空中で手を動かした。
「それが、その。なんて言うんでしょうか。賢者様は、魔術を使わずに空中に魔方陣を展開させることが出来てですね……」
「え?」
「それに、術枝の精度を下げずに魔方陣全体を縮小させているので、大きさは大体3メイルほどになります」
「………」
今ならば分かる。魔術を理解し始めた今の隼人ならば、その異常さが分かる。
(空中に魔方陣を展開する?魔術を使わずに?どうやって?)
もしかしてシルヴィアは、すでに魔術の領域を逸脱しているのでは?隼人は思った。そして、
「……でもそれなら、なんでシルヴィア様は前線に出張っていかないんですか?」
極論、シルヴィア一人がケリがついてしまいそうである。
「呪いです。千年前、魔王アークサスが封印される直前にかけた、束縛の呪い。賢者様はその呪いによって、移動を厳しく制限されています。具体的には聖竜様の結界内を除き、一歩踏み出せば死に至ります」
「解除する方法は?」
「今のところ、アークサスを倒すしかありませんね。賢者様でも魔王の呪いは解けていません」
(シルヴィア様でさえも逃れられない呪い、か。一体魔王はどれだけの存在なんだ……。そして俺は、その魔王を倒せるのだろうか)
「でもその代わり、首都の守りは万全です。今は聖騎士団も帰還していますし」
「聖騎士団……確か人類で最も強力な戦力、でしたよね」
この銃と大砲の時代に、である。
「彼らは聖竜様の加護を授かっていますからね。今現在魔族に対して最も有効な攻撃手段は、上級以上の魔術を除いて、榴弾砲や艦砲ではなく、聖騎士の振るう鉄剣です」
(となると今後、同じ戦線で戦う可能性もあるわけか……)
「なるほど。また勉強になりました」
「それは良かったです!と、もうそろそろ時間ですね」
すでに時計は午後6時を指している。窓からは淡い夕焼けが見え、天井の魔力灯がうっすらと影を作り始めていた。
「では明日は総復習をしましょう。あ、明日もお会いできますか?」
「ええ、もちろんです」
2人は図書館入り口を出ると、軽く別れの挨拶をして、帰路についたのだった。
その日の夜、ミーナは上機嫌で自身の造ったスープを口に運んでいた。時間は7時、夕食時である。向かいに座る父親は、その様子を不思議に思った。いや、思っていた。
「ミーナ、昨日からどこか上機嫌だけど、なにか良いことでもあったのかい?」
「実は、図書館である人に魔術を教えているの」
(ある人…?)
「へえ。それは誰?」
「それがね、お父様。なんとあの、異世界人のタカミネハヤトさんなの!お父様、お仕事で会った事あるでしょう?」
「………」
父親の尻尾が大きく揺れる。それは、動揺している時の彼の癖であった。
「本当に、あのタカミネハヤトかい?」
「もちろん。見た目もそうだし、何より襟証の無い軍服を着ていたもの。それにハヤトさん、とっても魔術の理解が早いのよ?」
「ハヤト、さん……」
またも尻尾が大きく振れる。
「ミ、ミーナ。もしかしてその彼は今度、陸軍士官学校の試験を受けると言ってなかったかい?」
「だから私が勉強を手伝っているの。頼まれちゃったし。なにより私、ハヤトさんに興味があるの」
(ハヤトさんの戦闘機について)
「へえ……」
バキッと音が鳴る。持っていた鉄製のスプーンが縦に割れる音である。
「彼から頼まれたのか。昨日と今日と、丸一日」
「明日は2日分のおさらいをしようと思ってるの。そうだ、私の参考書を貸してあげようかしら」
「ミーナ、よく聞いて……」
「……お母様がお父様と出会った時も、こんな感じだったのかしら」
不意にミーナが呟いたその言葉に、彼は自身の言葉を飲み込んだ。変わりに、頭の中にある記憶が想起される。
『私が貴方に世界を教えてあげる。だから、一緒に来て?』
何時頃だっただろうか。彼は若く、彼女も若かった。
「エリアナ……」
その目線の先は、ミーナの隣に置かれた空の椅子だった。3年前から空いた、固い木の椅子。すでに人の温もりは無く、ただ彼に冷ややかな現実を浴びせていた。
ゴリアテはミーナを見た。楽しそうに語る彼女には、確かにエリアナの面影があった。
「それで一節ごとに術枝を区切ったら……」
「ミーナ」
ゴリアテは言う。すでに尻尾は動いてはいなかった。
「……どうしたの?そんなにかしこまって」
「ミーナ、彼は確かに勤勉で優しい男だ。だから、最後まで教えてやれ。きっと彼は、お前の期待に応えてくれるよ」
「お父様……」
「ただし、今度からは私も同行させてもらうけどね」
(今度会ったら絶対に詰める)
「まあ!お父様ったら!」
陸軍中将、ゴリアテの邸宅には、今日も2人の穏やかな笑い声が流れていた。
そしてミーナとの怒涛の総復習を終えて隼人は、試験本番を迎えていた。