コバルトブルーの空を見上げて①
エドウィン視点の物語です。
罵声と暴力。それが俺の日常だった。
「近寄んなこのガキ! 服が汚れんだろ!」
蹴り飛ばされた体が、泥だらけの地面に跳ねる。周りの大人たちはみんな知らん顔だ。物乞い一人死んだところで、何も感じやしねぇだろう。
物心ついた頃から親なんていなかった。どうやって生まれたのかも、いつ捨てられたのかも知らねぇ。気づけばこの薄暗い路地裏で、ゴミと哀れみを拾って生きてきた。エドウィンって名前も、年齢も、自分で決めたもんだ。
最初はよかった。体が小さいうちは、聖女ヅラした子持ち女たちが、たまにパンやスープを恵んでくれた。だが、十を超えて見た目が男に近づいてくると、あいつらは自分の子供に危害が加えられるのを恐れ、露骨に俺を避けるようになっていた。
逆に増えたのは男たちの暴力だ。この世界は弱いものに厳しい。さっきみたいに、ただ目が合っただけで鬱憤ばらしで殴られる。
別に近寄ってねぇよ、と毒づいた声は空から降り注ぐ雨音にかき消されていった。
暗い空は嫌いだ。惨めな人生がさらに惨めになるから。もし生まれ変われるのなら、鳥になって鮮やかなコバルトブルーの青空を飛んでみたいもんだ。
ぺちゃんこになった腹が、食糧を求めてぐうぐうと鳴る。こんな目に遭ってもまだ生きたいのかと思うと、無性に笑いが込み上げてきた。
「おい、お前」
視線を頭の方に向けると、髭面の男が俺を見下ろしていた。こんな雨なのに傘も差さず、両手に工具を詰め込んだ鞄を抱え、腰のベルトには金槌が差さっている。
「俺と一緒に来るか?」
そのとき、こくりと頷いたのがよかったのかどうかは、いまだにわからねぇ。
俺を拾った男はデュラハンの防具職人だった。小さな工房だったが、俺と同じ年頃の弟子が五人はいた。身寄りのないやつを拾ってこき使えば安く上がるからだ。
男――親方の名前は正直覚えていない。覚えているのは、この体に染み付いた暴力の跡と金槌を振るう技術だけ。寝床と飯は与えられたが、それ以外は路地裏にいた頃とほとんど変わらなかった。
それでも人は育つもんだ。気づけば俺は十五歳になり、工房の中でも一番の腕利きになっていた。ただ、その腕を堂々と発揮する機会は得られなかった。俺が作ったもんは、みんな親方の手柄になっちまったから。
みんなが寝静まった夜にコツコツと技術を磨いて作り上げた作品たちは、俺が望まない形で世間に出回り始めた。そんな俺を、兄弟子たちはまるで汚い野良犬を見るような目で見ていたもんだ。親方も金を産む俺を手放す気は微塵もないみたいだった。
このままじゃ一生飼い殺しにされる。
いつ逃げ出そうかと考えていたある日、街を管理しているリヒトシュタインという貴族の家から仕事が舞い込んできた。そこの長男が鎧換装の儀を迎えるにあたって、金属製の鎧兜一式を求めてるっていう。
親方は使いの手から手紙をもぎ取ると、すぐに俺をリヒトシュタインのお屋敷に連れて行った。
表向きは親方が作るように見せかけ、裏では俺が作る。いつもの流れだ。リヒトシュタイン家は古い歴史を感じさせる風格を持ち、敷地も広大だった。どんだけ金がかかってんだろうって、下品なことを考えたもんだぜ。
それと同時に、へこへこと頭を下げながら使用人に案内される親方の背中を見て、今なら逃げられるんじゃないか、と心の声が囁いた。
だけど、まあ、見事に迷っちまった。こんなでっけぇ家に足を踏み入れたことなんてなかったからな。
屋敷は裏手に小高い丘があって、本邸と渡り廊下で繋がれた先には離れがあった。俺はどうも、丘の方に上っちまったようだった。
丘からはこのあたり一体の風景が見渡せた。遠くに生い茂る針葉樹の森の中には、エメラルドグリーン色のでっけぇ湖があって、日の光を浴びてきらきら輝いていた。
「何してるの?」
つい景色に見惚れていた俺の背後から現れたのは、鹿革の鎧に身を包んだデュラハンだった。背は俺より遥かにデカかったけど、店に来る客たちに比べると、雰囲気がまだガキっぽかった。
「お前こそ何してんだよ」
不躾な言葉にも、デュラハンは気分を害したりしなかった。それどころか、やっと味方が見つかったと言わんばかりに俺に駆け寄り、手に抱えた兜を差し出してきた。
「逃げてる。兜壊しちゃって。今月に入ってもう二個目。どうしよう」
どうしようってなんだ。初対面の俺に兜を差し出して何がしたいんだ。
言いたいことは山ほどあったが、口に出たのは違う言葉だった。
「しょうがねぇなあ。直してやるよ」
デュラハンはゲオルグ・フェリクス・リヒトシュタインと名乗った。歳は十五。俺と同い歳だった。なんのこたねぇ。フェリクスはリヒトシュタイン家の跡取り息子で、俺が作る鎧兜の持ち主だった。
まあ、そんなこと言えるわけねぇから、工房では着々と製作を進めながらも、親方の目を盗んでフェリクス――フェルと交友を深める日々が続いた。なんか妙に馬があったんだよな。うまく言えねぇけど。
フェルは俺の腕前に惚れ込んだようで、兜の手直し以外にもいろんなもんを頼んできた。財布、鞄、帽子……。防具職人なのか、なんでも屋なのか、わからなくなるぐれぇに作った。密かにずっと考えていた風切り羽の屋号紋を入れるようになったのもその頃だ。
俺が何か作ると、フェルはいつも大袈裟に喜んでくれる。でも、嘘じゃなくて心からそう思ってんだろうなってことが伝わってきて、俺は初めてものを作るのが楽しいって思えるようになった。
その日も俺はフェルが壊した兜を手直ししていた。どうも魔力が強すぎて、すぐに凍らせて破いちまうみたいだった。
いい加減に魔力をコントロールできるようになれよ、なんて軽口を叩く俺に、隣で仰向けに寝転んで空を眺めていたフェルが、まるで今日の夕飯を尋ねるように言った。
「ねぇ、僕の鎧兜、作ってるの君じゃないの?」
びびった。動揺を顔に出さねぇようにするので必死だった。でも、人の心に敏いフェルにはそれで十分だった。
フェルは「やっぱり」と呟くと、体を起こして俺の目をじっと見つめた。兜は俺が持ってたから、そこに漂ってたのは闇だけだったけど。
「おかしいと思ったんだよね。確認のために見せられたデザイン画、明らかに君が描いたやつだったもん。あの親方さんが作ったって作品、全部チェックしてみたんだ。今までずっと、親方さんが君の手柄を横取りしてたんだね」
こいつ怖ぇな、と思ったのと同時に、理解された喜びで胸がいっぱいになった。思わず泣いちまいそうになって唇を噛む俺に、フェルは弾んだ声で言った。
「本気出してみたくない?」
結果的に、俺は風切り羽の職人として日の目を見るようになった。表向きに進めていた鎧兜よりも、さらにいい鎧兜を作って同時にお披露目することで、その場にいた人間たちを黙らせたんだ。あの時の親方の顔ったらねぇぜ。言えるわけねぇよな。両方とも弟子の作品です、なんて。
静まり返った部屋の中で、フェルは八歳下の弟を連れてきてこう尋ねた。
「どっちを着たいと思う?」
まっすぐに伸ばされた小さな指を、今でもありありと思い出せるぜ。
フルプレートを二個も作るのはしんどかったが、費用も材料も全部フェルが出してくれた。鎧兜をカラフルにしてくれと聞かされたときは正気を疑ったが、「オンリーワンが欲しいんだよね」なんて言われて断れるわけもねぇ。
だから魔石塗料をふんだんに使って鮮やかなコバルトブルーに仕上げてやった。路地裏で見たあの暗い空を、二度と見なくて済むように。
鎧兜の着色なんて未知の分野に手を出したおかげで、俺の腕はさらにメキメキ上がった。親方は俺を無視しつつも利用することに決めたらしく、次から次へと仕事をとって来るようになった。俺は馬車馬じゃねぇよ、とよく毒づいたもんだ。
兄弟子たちの嫉妬の目にも正直辟易した。金槌だけは死守したが、道具を壊されるのは日常茶飯事。顔を合わせるたびに飛んでくる嫌味と暴力。挙句に俺と親方がデキてるなんてろくでもねぇ噂を流される。工房の中に俺の安住の地はなかった。
気づけば俺はフェルよりも空を眺めるようになって、四六時中、鳥になりてぇなんてくだらねぇことを呟くようになった。
その横で、フェルは「じゃあ、僕も一緒に連れてってよ」なんて言ってたっけな。あいつもきっと、リヒトシュタイン家の後継ぎとして色々あったんだろう。軍人の家系に生まれたばっかりに、持ちたくもねぇ剣なんて持たされてたし。
こいつを連れて街を出ようか、なんて馬鹿みてぇなことを夢みたりもした。でも、その夢が叶わねぇことは十分にわかってた。フェルにはリヒトシュタイン家を背負う責任があったし、愛する家族と引き離すことがこいつの幸せに繋がるとはとても思えなかった。
そして、俺たちの付き合いが三年目になった頃、フェルは大人の落ち着いた男に、俺は放し飼いの犬みてぇな男に育っていた。
親方が馬鹿みてぇにとってきた仕事のおかげで懐にも余裕ができて、今までやりたくてもやれなかったことに手を出せるようになったからだ。
俺がやりたかったこと。それは勉強だった。
仕事に必要だから文字や数字は叩き込まれたが、それ以外のことはさっぱりだった。だから俺は暇を見つけては近所の魔法使いの婆さんやエルネア教の司祭やらに小金を払って、教えを乞うようになった。
もちろんそれだけじゃねぇ。もっと技術を磨きたかったから、分野違いの職人の工房にも顔を出して修行させてもらうようになった。
充実した毎日だったな。あっちに行き、こっちに行きを繰り返すもんだから、フェルには「フラフラしないで!」って、よく怒られたけど。
そんな中、俺たちの運命を変える女が現れた。
ミルディア・ロペス。
美しい金髪を持つ、青い目のエルフだった。
フェリクスと同い年と言っていますが、概算なので、実際はエドウィンの方が少し年上でした。




