8話 あの日見た夜空の下で
今回も長いです。
夜の闇の中に、無数の松明や光魔法の明かりが揺らめいている。
ここは屋敷の裏手にある小高い丘の上だ。周りの喧騒も少し薄れ、あたりには虫の声が響いている。
大勢の避難民が集うテントより遥か向こう。生い茂る森の中に横たわる大きな湖は、部屋で目覚める前に見た夢の景色と似ていた。
あれは、まだ青年だった頃のエドウィンの記憶なのだろうか。
「下ばっかり見てると、見えるものも見えなくなるぞ」
颯爽と丘を登ってきたリリアナがバスケットを差し出した。中には卵のサンドイッチと小さな水筒、そしてカップが二つ入っていた。
「マリーとセバスティアンが持たせてくれた。食べられるときに、食べておきなさいって」
リヒトシュタイン家の使用人たちは、みな無事のようだった。ありがたくいただき、ホットコーヒーを啜る。蒸し暑い夏の夜だが、手に馴染む温かさは、アルティの強張った体をときほぐしてくれた。
ぺろりと夜食を食べ終えたリリアナが、アルティの隣の地面に寝転ぶ。キャスケット帽の下の闇が、一瞬だけ夜の闇に溶けて輪郭が曖昧になる。もしずっと目で追っていなければ、そのまま見失っていただろう。
「アルティも見てみろよ。すごく綺麗だぞ」
リリアナに従って仰向けに寝転ぶ。よく晴れた夜空の中に無数の星々が浮かんでいた。淡い月の光が、優しくアルティたちの体を照らしている。こうしていると、実家のベンチで並んで夜空を見上げたことを思い出す。
「アルティの家で見た夜空を思い出すなあ」
同じことを考えていたようだ。思わず笑みを漏らすアルティに、リリアナが目を細める。
「ありがとうな。あのセレネス鋼の短剣があったから、私は今ここにいる」
「あなたの身を守れてよかった。髪留めはお守りにもなりませんでしたね」
「そんなことないよ。あれがあったから、しばらく意識を保っていられたんだ。すぐ外されちゃったけどな」
寂しそうな声に、胸がずきんと痛む。
「……ごめんなさい。鎧兜を溶かそうなんて提案して」
「いいよ。また作ってくれるんだろ?」
当然のように話すリリアナに、また笑みが漏れた。
「……エミィ、格好よかったな」
目覚めの知らせを受けて部屋に駆けつけたとき、エスメラルダはベッドの上でぬいぐるみの欠片を見つめていた。意識を失っても、ずっと握りしめていたらしい。
その場にいる誰もが声をかけられなかった。だが、大人たちの狼狽える気配を察し、こちらに顔を向けたエスメラルダは、決意の滲んだ声で言ったのだ。
「アルティ、力を貸して。今のままじゃ魔王は倒せない。もっと魔力を増幅する必要があるの。セレネス鉱石で何か作れないかな?」
「エミィ、そんな体で何を言ってるの。さっき、魔王は鎧がないと姿を保てないって話してたんだ。だから……」
「もし、鎧から引き剥がしても、消えるまでにどれぐらいかかるの? 次の鎧に入り込まれたら同じことだよ」
どれだけラドクリフが宥めても、彼女は断固として譲らなかった。
「マーガレットの敵討ちのつもりじゃない。みんなを守りたいの。それに……あの人、苦しんでた。ずっと叫んでたの。悲しい、悲しい。あいつを返してくれって」
あいつ――フェリクス。エドウィンの親友。非業の死を遂げ、エドウィンに悲しみと憎しみを残して旅立ったデュラハン。もし彼が現状を知ったら、どんなに苦しむだろうか。
「何か、いい案は思いついたか?」
「……相手は原始のデュラハン。なら、作るのは鎧兜しかありません。俺はデュラハンの防具職人ですから」
体を横向きにしたアルティに合わせて、リリアナもこちらを向く。寝転びながら顔を合わせるのも、なかなか新鮮だ。
「鎧兜を溶かしたあと、セレネス鋼製の鎧兜の中に閉じ込めるのはどうでしょう。もちろん、気づかれないように表面は偽装する必要がありますが、教会の鎧兜を転送魔法でこっちに持ってくれば……」
「製作時間が短縮できるな。でも、いくら偽装したところで大人しく入るか? たとえウルフの闇魔法でその場にある鎧兜を全部飲み込んだとしても、王城には他に腐るほどある。怪しいと勘づかれて逃げられたら終わりだぞ」
「問題はそこなんですよね……」
セレネス鋼は属性を弾くため、風魔法の吸着魔法は使用できない。確実に閉じ込めるには、条件反射で入ってしまうほど至近距離に置かなければならないし、入ったあとも何らかの方法でエドウィンの動きを止めなくてはならないのだ。
「私が着ればいいんじゃないか? 鎧が溶けて次を探しに行かなきゃならない状況なら、そばにいるデュラハンの鎧兜に入り込む可能性が一番高いと思う」
リリアナは自分の提案を後押しするようにポンと両手を叩いた。
「一度操った相手だ。油断も誘えるだろう。偽装した表面をレイさんの魔法で固めれば時間稼ぎになるだろうし、中で抵抗すれば動きを止められるかもしれない。実際に、王城では左腕も使えたし……」
「何を言って……! 危険すぎますよ!」
「大丈夫。セレネス鋼製なら、意識も保っていられるはずだ。やらせてくれ。私だって、このままじゃ終われないんだ」
それは、初めての依頼のときにアルティが言った言葉だった。一年前のことなのに、覚えていてくれたのか。
「あ、でも、着られるかな? 私とはサイズが……」
「……着られます。実はリリアナさんのサイズに合わせて作ったので」
じっと目を見つめると、リリアナの顔の闇が赤くなったような気がした。
「そ、それで偽装ってどうやるんだ? 具体的に教えてくれよ」
「セレネス鋼の上から薄い……本当に薄いストロディウム鋼板を被せるんです。隙間にスライム樹脂を充填すれば強度も十分だと思います。重量も増しますし、動きにくくなるのは否めませんけど」
「お兄さんに提案した屋根と同じだな。重さは大丈夫だ。セレネス鋼は元々軽いし、そんなやわな鍛え方はしてない」
力瘤を作るリリアナに、口元が緩んだ。リリアナのそばにいると、それだけで心が軽くなる。向こうもそう思ってくれるといいのだが。
「さすがです。あとは鎧の内側にエミィちゃんの魔力を増幅する魔法紋を、そして表面の鋼板にはその魔力を反射させる魔法紋を刻めば……」
「魔力を注げば注ぐほど増幅する?」
頷いたアルティに、リリアナが感心したようにため息をついた。
「そんなこと、よく考えついたな」
「侯爵に無茶振りされた仕事のおかげですよ」
あれは互いを打ち消し合う魔法紋だったが、逆に反射し合う手はないかと思いつくきっかけになった。人生、何がうまく作用するかわからないものだ。
トリスタンが工房に来た経緯を話すと、リリアナは父親の横暴ぶりに呆れていた。
「父上もしょうがないな。でも、さすがアルティだ!」
横から伸びてきた腕にぎゅうっと頭を抱きしめられた。鎧を脱いだ体は、とても柔らかくて温かい。そのぬくもりを閉じ込めるように、強く抱きしめ返す。
「リリアナさん……」
もう自分の気持ちを押さえきれなかった。首を伸ばし、そっと闇に口付けを落とす。実体はないはずなのに、不思議と柔らかい感触がした気がした。
「ア、アルティ……! 今、何を……!」
「リリアナさん、俺、あなたが好きです。友人じゃなく男として、これからもずっとそばにいたい。シエラ・シエルで言ってくれましたよね。一人で旅に出なくていいって。俺は、あなたと世界を巡りたい。そして……」
耳あたりの闇に顔を寄せて囁く。
「いつか、ミルディアさんに子供を見せに行きませんか?」
少しの間をおいて、リリアナがこくりと頷いた。
月明かりに浮かぶお互いの影がそっと重なる。
そのあとに起こったことは、二人だけの秘密だ。
翌朝、アルティはみんなにリリアナと話した内容を打ち明けた。ガラハド、ラドクリフ、エスメラルダはデュラハンらしく鎧兜に反応し、レイとバルバトスは魔法紋に反応し、そしてウルフは何も言わずしきりに感嘆の息をついていた。
「二人とも、昨日帰ってくるの遅かったけど、そんなこと話し合ってたの。リリィも思い切ったね。また魔王を鎧の中に入れるなんて」
「えっ、う、うん。そうだよ。つい長引いちゃってさ」
リリアナがわかりやすく動揺した。こちらを見るガラハドの視線が痛い。
「ついに君も一人前になったんだねえ」
アルティの肩に手を乗せ、レイがしみじみと頷いた。若干気になる言い方だが、職人としてと捉えておく。
「で? その鋼板を貼るのってどうすんだ? さすがにアルティ一人じゃできねぇだろ」
「ここに避難している職人たちの手を借りたいんですけど……」
ちらりとガラハドを見ると、彼は心得たように大きく頷いた。
「すぐに集めるよ。セレネス鋼製の鎧兜も手配しておくね。他にも必要なことがあればなんでも言って。アルティ君たちには現場に集中してもらいたいから」
それから一時間もしないうちに、屋敷の庭に困惑の表情を浮かべた職人たちが集まってきた。あの地獄絵図が広がっていたすぐ隣である。周囲を駆けずり回る医者たちや力なく横たわる負傷者たちが、不審げにアルティたちのことを眺めている。
そばには煌々と燃える火をたたえた炉。職人たちの了承を得たら、すぐに作業に取り掛かれるように、耐火レンガをかき集めて作っておいたのだ。
「――というわけで、皆さんの力をお借りしたいんです。魔王を倒して首都を取り戻すため、どうか一緒に作ってもらえませんか」
職人たちに事情を説明したが、返ってきたのは断固とした拒否の声だった。
「無茶だ! そんなのうまくいくわけない!」
「二重鋼板なんてやったことないよ。机上の空論だ。子供の戯言だよ!」
方々から捲し立てられて耳が痛くなる。アルティとて無茶を言っていると理解しているが、ここまでとは思わなかった。特に長命種の職人たちからの反発が大きい。彼らからすれば、アルティなんてただの子供に過ぎないのだ。
そのとき、長命種たちの声を阻むように「ちょっと待ってくれよ!」と声が上がった。王城からの依頼を受けた時に、アルティの悪い噂を流したヒト種の職人たちである。
「こいつはまだガキだが、腕は確かだぜ。エルネア教会の鎧兜を見ただろ? あれは、こいつが考えたんだぞ」
「だからなんだ! 相手は魔王だぞ! 何をやったって無駄なんだよ!」
「無駄ってなんだよ! やってみねぇと、わからねぇだろうが!」
ヒト種の職人たちと、長命種の職人たちが取っ組み合いの喧嘩を始める。その騒ぎを見て、周りの避難民たちの間にも不穏な空気が漂い始めた。
「アルティ……」
リリアナが不安な声を上げる。その声に押されるように職人たちの間に割り込み、アルティは静かに言葉を続けた。
「……楽しそうだと思いませんか? やったことのない仕事なんでしょう? これを成功させたら、間違いなく歴史に残りますよ。子々孫々にまで自慢できます」
「は? この状況で何を言ってんだ!」
「この状況だからです!」
吠えるように声を張り上げる。アルティの迫力に、職人たちは何も言い返せないようだった。
「炉の火が消えたら、二度とものは作れない! 俺はそんなのは嫌だ! 百年後まで届くものを作ると、親友と約束したんだ! 千年後まで技術が受け継がれるのを楽しみにしてくれている人がいるんだ! あんたらにも、そういう人がいるんじゃないのか! お客さまの要望に応えるのが職人だろ! ここで諦めてどうするんだよ!」
荒い息をつくアルティを、その場にいる全員が見つめている。あたりは水を打ったように静かだ。咳払い一つ聞こえやしない。
その中でぽつりと、小さな声が上がった。
「未来も何もないわよ。共に歩きたい人はみんな死んじゃったもの」
それは避難民の一人だった。彼女の傍らには白いシーツを被せられた誰かが横たわっている。周囲に悲しみと諦観の気配が広がっていく。アルティの炎は、抗えない涙にかき消されようとしていた。
(もう駄目なのか?)
唇を噛むアルティの肩を、誰かがぽんと叩いた。
「やあ、遅くなってごめんね」
ようやく想いが通じ合ったアルティたちです。
これからラストスパートに向けて一気に駆け抜けていきます。




