6話 絶望の中の希望
夢を見ている。
目の前に広がるのは、アルティの知らない景色だ。
ウルカナのリュシー湖とは違う、エメラルドグリーンに輝く広大な湖。それを囲むように生い茂る青々とした針葉樹。夏の暑さにも負けずに咲き誇る花々。
足を踏み出せば、ブーツの下で草がさくさくと鳴った。
よく晴れた空を横切るのは火食い鳥だろうか。夢の中の自分はいつもより視線が高く、コバルトブルーの鎧兜を着たデュラハンと、その隣で歩く金髪のエルフの少女の背中を、少し後ろから眺めている。
二人は恋人同士なのかもしれない。とても仲睦まじそうだ。
エルフの少女がこちらを振り向き、アルティに大きく手を振った。
その笑顔には、ミルディアの面影があった。
初めに目に飛び込んだのは、空に浮かぶ入道雲だった。
「東門の向こうに魔物が近づいてる! 動けるものは武器を取れ! 迎撃するぞ!」
「治療魔法を使える医者はこちらへ! 重症者の対処をお願いします!」
「薬と包帯が足りません! 誰か補給を!」
「パパー! ママー!」
大きく開け放たれた窓の向こうから、性別も年齢もばらばらな声が聞こえてくる。首を伸ばしても、外の様子は見えない。どこかで誰かが魔法を使っているのか、轟音が響くたびに、ベッドが微かに揺れている。この振動で目が覚めたらしい。
ここは病室……なのだろうか。クリーム色の壁に、白い窓枠。天井からはチューリップを逆さまにした形のレトロな魔石灯が下がっていて、床には淡い茶色の板材が敷かれている。どんなに考えても、見覚えはない。
「駄目だよ、動いちゃ」
体を起こそうとしたところを押し留められ、ベッドに逆戻りさせられる。急に自覚した痛みに顔をしかめながら視線を横に向けると、血で汚れた白衣を着たヒト種の男が、真剣な眼差しでアルティを見下ろしていた。
「ハイリケ先生……」
「全身打撲に左鎖骨骨折。頭を強く打ったけど、脳に出血はなし。頭蓋骨骨折もしてなかった。石頭でよかったね。鎖骨は治療魔法で繋げといたよ」
生命魔法に長けたものは、自身の生命力で対象者の体の中を読み取ることができるという。高度すぎて使い手は少なく、魔法紋で代用するのも難しいとレイが言っていたが――まさかヒト種のハイリケが使えたとは。
「先生……。アイナさんとエルゼさんは……? いつも一緒にいましたよね……?」
ハイリケは静かに微笑んだ。
「僕は行くよ。患者がたくさん待ってるんだ」
「あっ……待って……待ってください……! みんなは……? リリアナさんはどうなったんですか……?」
必死に手を伸ばすが、ハイリケは部屋を出て行ってしまった。
一人になり、不安が押し寄せてくる。
必死に記憶を手繰り寄せるが、覚えているのはリリアナの中に男が入り込んでいたことと、短剣を手にしたアルティにリリアナが手を伸ばしたこと――それだけだ。
「……こんなところで寝てる場合じゃない」
幸いにも、両手両足は健在だ。床に置かれていたスリッパをつっかけ、部屋を出る。
ここは一番奥の部屋らしい。右手には花の絵がかけられた壁。左手には、部屋と同じく淡い茶色の板材で統一された廊下が伸びていた。
廊下の左右にはいくつか部屋があったが、人がいる気配はない。つきあたりの扉を開くと、そこは渡り廊下になっていた。
奥にはここよりも立派な赤い扉が見える。廊下の左右には窓がなく、屋根を支える柱と、胸元ぐらいまでの高さの壁があるだけだ。だからなのか、さっきよりも声が大きく聞こえる。
廊下を中程まで進んで下を覗くと、地獄絵図が広がっていた。
腕がもげた獣人、全身が焼けこげた遺体、血まみれで泣き叫ぶ子供、剣を握りしめたまま動かない騎士――数えきれないほどの死傷者が、この建物の敷地内に横たわっている。その合間を縫うように駆けているのはハイリケだ。彼の傍らに、やはりアイナやエルゼはいない。
「うぐっ……」
吐き気が込み上げてきて、思わずその場に膝をついた。
(一体なんなんだ。なんでこんなことになったんだ。リリアナさんは? 師匠は? みんなどこにいるんだ。まさかあの中にいるのか?)
アルティの頭の中を、悍ましい想像が駆け巡る。よくもミルディアに、あんな偉そうなことを言えたものだ。
アルティはちっともわかってなかったのだ。絶望というものを。
目の前が真っ暗になりかけたそのとき、廊下の奥から鈴の音のような声が聞こえた。
「アルティ」
そこに立っていたのは、男物のシャツとズボン、そしてキャスケット帽を身につけたデュラハンの女性だった。
声を上げるよりも早く、足が動く。
アルティの女神さまの元へ。
「リリアナさん!」
「アルティ!」
大きく広げられた腕の中に飛び込み、体を強く強く抱きしめる。柔らかさも、体温も、鼓動も確かに感じる。リリアナは生きている。
「よかった、目を覚ましたんだな」
「リリアナさんも……。あいつはどうなったんですか? みんなは?」
「今から説明する。ついてきてくれ」
手を引かれて連れられた先は、さっきの部屋とは比べものにならないくらい豪奢な部屋だった。とはいえ、成金趣味というわけではない。伝統を踏襲しつつ、必要なところに必要なだけお金をかけたという感じだ。
「叔父上、アルティが目を覚ましました」
「おや、もう動いて大丈夫なの? 若いっていいねえ」
窓際で外を見下ろしていた、エメラルドグリーンの鎧兜を着たデュラハンがこちらを振り向く。叔父だと聞いたからだろうか。顔の闇の中に浮かぶ青白い光は、不思議とリリアナと似ているような気がした。
「姪っ子がお世話になってるね。僕はガラハド・リヒトシュタイン。トリスタンの弟で、このリヒトシュタイン領を任されているものだよ」
「リヒトシュタイン領……? 俺は首都にいましたよね? なんでそんなところに」
「とりあえず座りなよ。立ってるの辛いでしょ。リリアナ、支えてあげなさい」
指し示されたソファに腰を下ろし、ガラハドの言葉を待つ。隣に座ったリリアナが、心配そうにアルティの背に手を回した。
「まず、君たちは負けた。リリアナは取り戻せたけど、代わりに魔王が蘇ってこの国を蹂躙してる。魔王の正体はわからないけど、聖女を凌ぐ闇と魔の魔力の持ち主だよ」
「たぶん、メルクス森の神殿の地下で見つけた鎧兜の主だと思うんだ。調査隊の先鋒として私が一番先に小部屋に入ったんだが、鎧兜に触れた途端、あの赤黒いもやが鎧の中に入り込んできて……」
「鎧の中? リリアナさんの中じゃなくて?」
リリアナが頷く。
「あの赤黒いもやは、膨大な闇と魔の魔力なんだよ。なんで肉体がないのに動いているのかはわからない。あいつに体を操られている間、まるで魔力の鎧を着ているような感覚だった。最初は抵抗してたんだけど、徐々に意識が保てなくなって……」
こらえ切れなくなったのだろう。リリアナは顔の闇を覆って嗚咽を漏らした。
「私のせいだ! アルティを、みんなを傷つけて。こんなことになって……。ごめんなさい、ごめんなさい……」
「リリアナさんのせいじゃありません!」
「そうだよ、リリアナ。相手は魔王なんだ。たとえお前が操られなかったとしても、遅かれ早かれこうなってた。意識を取り戻せただけで御の字だ」
震える背中を撫で、アルティはガラハドに向かい合った。
「その……。俺は百年前のことにはあまり詳しくないんですけど、リリアナさんを操ってたやつ……地下の鎧兜の主はラグドールのモルガン王ではないんですか」
「百年前の魔王は完全に死んでいる。リヒトシュタインが討った死体は念入りに確認して、灰も残さず焼いたと聞いているよ。魔王というのは、多くの魔物を一斉に操るほど強い魔属性の魔力を有するもののことだ。今回の場合は、それに闇の魔力も上乗せされているから、百年前の魔王より強い」
ごくりと喉が鳴った。そんなアルティに、ガラハドが目を細める。見ているだけで安心感を与える、力強い眼差しだった。
「ただね、こっちだって確実に強くなっている。この百年、魔法や魔機の技術は著しく進歩したし、セレネス鉱石が見つかって、魔属性と聖属性の研究も進んだ。おかげで、多くの人間が魔物に抵抗する手段を得て、魔物使いの相棒たちも理性を保っていられる」
首都から逃げた市民や兵士たちは、近くの駐屯地から転送魔法で各地に避難。散り散りになりながらも、通信機や転送魔法を通じて連絡を取り合い、抵抗を続けているそうだ。
リヒトシュタイン領は対魔王の前線基地として、続々と集まる避難民や兵士たちを受け入れ、日夜襲いくる魔物と戦いながら戦線を維持している。ただ、国王をはじめとした主要なメンバーは、まだどこにも辿り着いていないそうだ。
「みんなはどうなったんですか? 師匠は? レイは? エミィちゃんたちは?」
「ラドクリフ君とハンス君は君たちとエスメラルダちゃんを転送魔法でここに送り届けたあと、市民たちを避難させるために首都にとって返した。レイさんと兄は消息不明。クリフさんは無事に首都を出たみたいだけど、通信機の魔石が切れたようで連絡がつかない。そして、エスメラルダちゃんはまだ目を覚ましてない」
あまりの状況に声も出ない。
「今回の魔王には肉体がない。倒すには聖属性の魔力が不可欠だ。ルクセンに使いを出したけど、魔物に阻まれて向こうも身動きを取れないでいるらしい」
「あいつ……。この世界をぶっ壊したいって言った。報いだって。きっと、百年前にモルガン戦争に従軍した兵士なんだよ。でも、なんで今さら……。あんな悍ましい姿になってまで……」
啜り泣きながら、リリアナは魔王に剣を振るったときのことを教えてくれた。
さっき、渡り廊下でアルティが感じた絶望を、魔王も感じていたのか。
一体、魔王はどんな人間だったのだろう。ひょっとしたら、兵士になる前は職人だったのかもしれない。アルティの作った鎧兜にダメ出しをしてきたし。
そのとき、ふと一つの名前が浮かんだ。
「……エドウィンさん?」
リヒトシュタイン家の屋敷はかなり古くて広く、避難民たちは敷地内のあちこちでキャンプしています。




