5話 魔王再臨
「アルティ!」
異変を察知し、中に飛び込んできたレイが床に倒れたアルティに駆け寄った。
必死に呼びかけても、アルティは額から血を流してぴくりとも動かない。赤黒いもやに弾き飛ばされた勢いで壁に頭をぶつけたのだ。
開け放たれたドアの向こうでは、ハンスや近衛騎士たちが抜き身の剣を手にして、こちらを睨んでいる。充満する赤黒いもや――膨大な闇と魔の魔力に気圧されて、中に入れないのだろう。
それが正解だ。魔属性は生物の精神を支配する。これほどの魔力量なら、いくらセレネス鋼製の武器を手にしているといえど、魔属性に適性があるものが近寄れば一瞬で立てなくなってしまう。
エルフのレイはデュラハンのラドクリフたちとは違い、この赤黒いもやの中でもまだ動けるようだが、すぐに何もできなくなるはずだ。
その前に退いてほしい――だが、彼は親友のアルティを決して置いていかないだろう。
近衛騎士たちが共に詰めていた魔法士たちに攻撃を要請したが、無駄だ。たとえ遠距離から魔法を放ったところで通用しない。
聖属性が属性を弾き、増幅させる性質を持っているのとは逆に、魔属性は属性全てを飲み込み、己を増幅させる性質を持っているのだ。もし聖魔法使いがいたとしても、エスメラルダほどの魔力がなくては、とてもかなわない。
こうなって、初めてわかるとは。せめてレイに知らせる術があれば。
(ふざけるな! ふざけるなよ!)
目に涙を滲ませながら、リリアナは自分の無力を噛み締めていた。
外された右肩がズキズキと痛む。アルティを迎撃するため、リリアナを操る男が魔力で無理やり引き伸ばしたのだ。その痛みで意識が引き戻されたのは不幸中の幸いかもしれないが、事態は何も好転していない。
まさかこの手がアルティを傷つけるなんて。
歯があればきっと歯軋りしていただろう。リリアナの覚醒に気づいた男が低く笑う。まるで虎に挑む子猫を嘲笑うように。
『おい、抵抗すんなよ。今さらだろ? 仲よくしようぜ』
ざらざらとした感覚が身体中を這い回っている。気持ち悪い、と叫びたいが声が出ない。リリアナの体は未だ男の支配下にあるのだ。けれど――。
(好きな男を傷つけられて黙っていられるか!)
男は今、魔法士たちが放つ魔法に気を取られている。その隙にリリアナが持つ氷の魔力を、少しずつ、少しずつ、蜘蛛の糸のように細く練り上げて足元に垂らした。
ぱき、と微かな音を立てて床に氷柱ができていく。同時に、アルティが取り落とした抜き身の短剣がゆっくりとリリアナに向かって押し上げられていく。
『何やってんだ、お前』
男に気づかれた――が、こちらの方が早い!
気力を奮い立たせて短剣を掴み、白銀色の切先を顔の闇に突き立てる。刹那、目を覆うほどに眩しい閃光が部屋中を包み、男の拘束が緩んだ。
「手伝ってくれ!」
精神を苛む魔属性の魔力が薄れ、ようやく動けるようになったラドクリフたちの手を借りながら、一気に鎧兜を脱ぎ捨てる。
アルティは男がリリアナの中にいると思ったようだが、そうじゃない。男はリリアナと鎧兜の隙間にいるのだ。
早着替えはデュラハンのオハコだ。こんなときだというのに、床に転がった鎧兜は、相変わらず鮮やかなコバルトブルーに輝いていた。
「リリアナ! 大丈夫か!」
「お父さま! 鎧を……鎧を浄化してください! 魔属性に聖属性以外は通用しません! 全部飲み込まれてしまう!」
「エミィ! エミィ! しっかりして!」
「アルティ! 目を開けてよ!」
『おいおい。デュラハンが人前で鎧を脱ぐのかよ。恥じらいってやつはどうした?』
混乱の声が飛び交う中、鎧がゆらりと立ち上がった。本来頭があるべきところには、赤黒いもやだけが漂っている。
「なんだ、あいつ……」
動かないエスメラルダを抱きしめたラドクリフが呟く。部屋の外のハンスや騎士たちも驚愕の表情を浮かべている。
リリアナは知っている。その下の鎧の中にも赤黒いもやが漂っていることを。
男の体は闇と魔の魔力で構成されているのだ。
どうして肉体がないのかはわからない。けれど、確かに男は意思を持ち、リリアナを支配した。神殿の地下に潜ったあの日から。
『知ってるか? 魔法紋って一部でも欠けたら機能しねぇんだぜ』
轟音と共に足元が激しく揺れた。今までに経験したことのない揺れだ。とても立っていられず、トリスタンと抱き合ったまま床にうずくまる。
部屋のテーブルと椅子がおもちゃのように飛び跳ねる中、リリアナは壁や床に無数のヒビが走っていく様を、ただ呆然と見ているしかできなかった。
「部屋の結界が……!」
魔法士の一人が悲痛な声を上げ、アルティの上に覆い被さっていたレイがハッと顔を上げた。
「違う! あいつの目的は……!」
レイの声を掻き消すように、男が吼えた。とても人の身では出せない、形容しがたい獣の声だ。それに呼応して、遠くから地響きが近づいてくる。地震でも、人でもない。群れを成した何かの足音が。
その正体に気づいた長寿の種族たちが一斉に顔色を変える。
「魔物だ……」
「百年前と同じだ……」
「魔物が来る! 魔王が蘇ったんだ!」
その場は恐慌と悲鳴に支配された。
逃げ出すもの、その場にへたり込むもの、男を睨みつけるもの――反応は様々だが、このままでは被害が拡大してしまう。ここはすでに前線なのだ。リリアナから手を放し、立ち上がったトリスタンが叫ぶ。
「落ち着け! お前ら、それでも国を守る立場か! 軍と連携して一刻も早く市民を避難させろ! 騎士たちは職員と国王を守れ! 魔法士たちは聖女の結界を修復するんだ!」
その一喝で、騎士と魔法士たちは我に返った。公務員としての矜持が彼らを立ち直らせたのだ。
騎士は剣を手に、魔法士は杖を手にめいめい廊下を駆けて行く。数人はここで戦うことを決意したようだ。さっきは越えられなかったドアを越え、男に対峙する。
彼らの目には赤々と燃える炎が揺らめいていた。男の魔力の影響を受けながらも、彼らは己が守るべきもののために、支配に抵抗しているのだ。
「騎士たちは俺に続け! あいつをここから一歩も出すな!」
「風魔法使いたちはセレネス鋼製の武器を飛ばして援護! 聖魔法使いたちは僕に魔力を貸して! 魔法紋で収束して聖魔法を放つよ!」
「クリフさん! 周りの人と今すぐ逃げてください! 早く!」
トリスタンが男に向かって駆け、レイが魔法紋を展開し、ハンスが通信機に向かって叫ぶ。
誰もが必死の形相で抗う中、男は腹を抱えて笑っていた。肩を揺らしながらトリスタンと騎士たちの剣戟をいなし、レイと魔法士たちの魔法を受け流す。
その様子は、まるで大人が子供を軽くあしらっているようで、床にうずくまるリリアナに、男とトリスタンたちの力の差を歴然と見せつけていた。
『ははっ。はははっ。涙ぐましいねえ。そんなことしても、寿命がほんのちょっぴり伸びるだけだぜ? 結界だって修復できねぇよ。維持ならともかく、あれは聖女レベルの魔力がなきゃ、起動しねぇからなあ!』
「なんなんだ……」
短剣を握る左手が震える。今まで生きてきて、こんなに怒りを覚えたことはない。
「なんなんだお前は!」
「やめろ、リリアナ!」
トリスタンの叫びを無視し、男の前に躍り出て短剣を振り下ろす。しかし、男はこともなげにリリアナの手首を掴むと、力も込めずにけらけらと笑った。
『勇ましいなぁ。さすがリヒトシュタインと言ったところか。百年経とうが、その気質は変わらねぇんだな』
「今さら、どうして現れた! 百年前の復讐か!」
『そんなことどうでもいい。俺はただ全部ぶっ壊したいだけだ。俺からあいつを奪った世界も、あいつの犠牲の上で成り立つお前らの幸せも』
急に視界がぶれ、身体中に激痛が走った。壁に放り投げられたと気づいたときには、顔の闇の中から血を吐き出していた。
「リリアナ!」
「リリィ!」
トリスタンたちの声がやけに遠く聞こえる。霞む視界の先で、男は床から拾い上げた兜をゆっくりと被った。
『これが報いってやつだ。違うか?』
赤黒いもやの中に光が灯る。兜の下の目は、爛々と赤く輝いていた。
「連隊長! 退いて! ここは僕らが食い止めるから!」
「リリアナ! アルティを連れてアルフォンス・ヒュージャーのところに行け! ラドクリフ! ワーグナー! お前たちもだ! エスメラルダを死なせるな!」
「リリィ、行くよ! ハンス君、アルティ君拾って!」
「はい!」
「待って! 待ってくれラッド!」
ラドクリフに片手で引きずり上げられ、無理やり部屋の外に連れ出される。どれだけもがいても、傷ついた体は言うことを聞いてくれない。
「お父さま! お父さま―っ!」
濃いグリーンの鎧に包まれた大きな背中が遠ざかっていく。
伸ばしたその手は、トリスタンには届かなかった。
次回、アルティ視点に戻ります。




