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10話 残されたぬくもりに触れて

 朝起きて、身支度をして、仕事をして、帰宅する。百年前からずっと変わらない日常に、正直飽き飽きしている。フェリクスとエドウィンという希望を失ったその日から、ミルディアは自分の足で一歩も進めなくなった。


 夫の忘れ形見は戸棚の奥に閉まったまま。友人が残した離れは封印したまま。変わっていくのは己の容姿だけ。そんな現実に耐えられなくて、二人のあとを追おうと思ったことは一度や二度ではない。


 それなのに何故、未だ生活費を稼いで食事をしているのか――矛盾に直面するたびに思い出す。在りし日の二人の言葉を。


 あれは、ミルディアが魔法学校の教師の職を得た日だった。頬を紅潮させて教員免許と内定証書を手に帰ってきたミルディアに、フェリクスとエドウィンはテーブルいっぱいに乗ったご馳走の前で、それぞれ異なった反応を示した。


「すごいね! ずっと頑張ってたもんね。十八歳で、あの魔法学校の教師になれるなんて史上初だよ。それも、新設された魔法紋学科。さすが僕のミルディア!」

「食い扶持が確保できたのはいいけどよお。魔法紋の教師って一体何すんの?」


 逞しい両腕で抱きしめてくれるフェリクスに対し、エドウィンはピンとこない様子で黒髪を掻いていた。


 学校に行ったことがないのだから、わからないのも当たり前だ。魔法紋はまだ新しい技術のため、知っている人間も少ない。生徒を相手にするように噛み砕いて説明するミルディアに、エドウィンはふんふんと興味深げに頷いていた。


「へー。教師って職人と変わんねぇんだな。まだケツの青いひよっこたちに、今までの経験や技術を叩き込んでいくわけだろ? 俺たち職人はものを作るけど、ミルディアは人を作るってわけだ。将来的に、ミルディアの教え子たちと組んで仕事するかもしれねぇんだよな? しっかり教えてやってくれよ。生半可な腕じゃ、俺はお断りだぜ」

「ええ……。エドのお眼鏡にかなう子なんて、いつ現れるやら……。でも、僕も見てみたいな。ミルディア、それまで頑張って続けてね」


 教師を目指したのは、ひとえに生活の基盤を得るためだった。シエラ・シエルでフェリクスたちと生きていけるなら、本当はなんだってよかったのだ。


 二人の言葉があったからこそ教師という職が好きになり、どんなに辛いときでも教壇に立つ原動力になった。そして、ミルディア自身も、いつしか教師が性に合っていると肌で感じるようになっていた。


 人に教えるというのは難しいものだ。当然だが、人にはそれぞれ個性がある。今まで生きてきた環境も違うし、これから目指す世界も違う。教師は彼ら一人一人の特性を把握して、うまく導いてやらなければならない。まるで羊の群れを先導する牧童のように。


 中には途中で諦めて去っていく教え子もいたが、その度にフェリクスとエドウィンが励ましてくれた。


「人は変わっていくものだから仕方ないよ。別れだって、これから数えきれないほどある。ミルディアとは違う道に進んだけど、新しい世界でうまくやっていくことを祈ろう」

「そうそう。案外しれーっと戻ってくるかもしれねぇしさ。それまで、ミルディアが覚えててやりゃいいじゃないか。なんせ、千年生きるエルフなんだから」


 べたべたに甘やかしてくれる夫と、こちらの落ち込みなど大したことないと笑い飛ばす友人を見て、ようやく肩の力が抜けたものだ。この二人がいれば、自分はどこまでも歩いていける。そう思っていたのに。


 それがまさか、永遠に失われるとは思わなかった。いつかは別れが来るとわかっていたけれど、あんなに早く訪れるなんて。


 あの戦争が奪ったものは、両手では数えきれないほど多い。


 可愛い教え子たちが何人も犠牲になり、魔法学校は一時期休校の憂き目にあった。ミルディアと同じく家族や友人を亡くし、もう耐えられないと先に去っていった同僚もいる。


 混沌。そう。あの時代をたとえるのはその言葉以外にない。先が見えない荒れ狂う海の中で、ただ教壇にしがみつくことだけが、唯一ミルディアに残されたものだった。


 凪はまだ一度も訪れていない。


 空虚な心と徐々に老いていく体を抱え、百年間ずっと考えていた。エドウィンが兜を置いていったのは、もうフェリクスを待つ必要はないと言いたかったからではないか。死んだ夫のことなど忘れて新しい人生を歩き出せと、そういうことなのではないかと。


 だけど、二人には身寄りがない。フェリクスの弟も、あの戦争で魔王と相打ちしたと聞いている。ミルディアが忘れたら、二人を覚えている人はいなくなってしまう。それがどうしても怖かった。だから思い切れず、中途半端なままずるずると生きてきたのだ。本当はこのままではいけないとわかっていたのに。


 そんなとき現れたのが、フェリクスによく似た目を持つデュラハンの女性と、エドウィンによく似た目の輝きを持つヒト種の青年だった。


 いや、目だけではない。二人は不思議なほどフェリクスたちに雰囲気が似ていた。特にアルティと名乗った青年は、見た目も性格も全然違うのに、まるでエドウィンがそこに立っているかのようだった。


 たとえて言うなら、炎だ。炉に灯った炎。離れで金槌の音が響くたび、エドウィンの傍らには常に煌々と燃える炎があった。その熱を感じたのだ。


 アルティたちに弱音を吐いてしまったのは、それが理由かもしれない。落ち込んだときは、いつもフェリクスたちに聞いてもらっていたから。


 二人を忘れる必要はないと、そう言ってもらえて本当に嬉しかった。今までの生き方を肯定された気がした。でも、それと同時に、このままでは思い出と共に儚く消えていくだろうともわかっていた。


 死ぬ前に綺麗になった兜を見たかった。アルティの申し出を受けたのは、ただ、そんな後ろ向きな気持ちだったのだ。


 国一番の腕を持つクリフの弟子だというのは本当に驚いたが、エドウィンみたいには綺麗に直せないだろうとは思っていた。だから進捗も確認しなかった。記憶の中にある兜と変わってしまうのが怖くて。


 けれど……ときには顔を真っ黒にして、両手のひらを傷だらけにして、「今日もいい仕事をした!」と声も出さずに告げてくるアルティを見るたび、胸の中に育っていくものを感じていた。


 希望という花の蕾が。


 それが伝わるのか、いつもは遠巻きにしてくる生徒たちも「今日はなんだか楽しそうですね」と言ってくるのがおかしかった。同時に、まだ笑える自分にも驚いたものだ。


 もしかしたら、これを機に歩き出せるかもしれない。でも、二人がいない世界を受け入れるのも怖い。さんざん悩んだ挙句、一週間かけて直してくれた兜にミルディアは手を伸ばせなかった。


 アルティはそんなミルディアを最初から予期していたのかもしれない。


 差し出された金槌を見て息が止まりそうになった。こんな偶然あるものだろうか。たまたま修理を引き受けてくれた青年が友人の孫弟子だったなんて。


 あいにくエドウィンのその後はわからないままだったが、彼の技術が確かに受け継がれているという事実だけで救われた気がした。レイという教え子が、魔法紋師として立派に生きている上に、あれだけ避けていたヒト種の友人を得たことも知れた。


 これで思い残すことはない。


 正直なところ、最初に思ったのはそんな言葉だった。しかし、アルティはミルディアを許さなかった。萎み始めた蕾に容赦なく水を注ぎ込んだのだ。弟子が必ず会いに行く。エドウィンの技術が未来まで受け継がれているか確認してくれと。


「どうしてエドウィンさんがこの兜を届けにきたのか、本当はわかっているんでしょう?」


 まっすぐな目で射抜かれた瞬間、胸の中の蕾が花開いた音がした。


 ようやく気づいたのだ。エドウィンは、最初からフェリクスを忘れさせないために兜を置いていったのだと。


(そうよね、エド。あなた、いつだってフェルのことしか考えてなかったものね。忘れて生きろなんて、そんな優しいこと言うわけないわ)


 剥ぎ取った布の下から現れた兜は、記憶の中の兜よりも鮮やかに見えた。






「ただいま、フェル」


 キッチンの一番日当たりのいい場所に、夫が座っている。頭だけになってしまったが、それでもミルディアの愛しい人だ。


 すっかり綺麗になった兜を抱え上げ、テーブルの上に乗せる。面頬の奥に青白い光が宿ることは二度とないけれど――残されたぬくもりは決して消えやしない。


 エドウィンもきっと満足しているだろう。あんなに立派な孫弟子が後を継いでいるのだから。


「アルティさんたち、無事に帰って行ったわよ。相変わらず仲よさそうだったわ。次はいつ来てくれるかしら」


 未来を語れるようになるなんて、百年前は想像もできなかった。荒れ狂う海に凪が訪れ、もう一度フェリクスと向かい合う日が来ることも。


 きっと何十年、何百年経とうとも、この希望の花が枯れることはないだろう。


 ミルディアはずっとここで生きていく。朝起きて、身支度をして、仕事をして、帰宅して、フェリクスに一日の出来事を語って、たまには離れを掃除して、休みの日にはレモンタルトを焼く。そんな百年前と同じ毎日を繰り返しながら。


 そして、いずれ訪れる職人たちに、ドアを開けて言うのだ。


「いらっしゃい。待ってたわ」と。

次回、レイにお土産を持って行くアルティです。

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