10話 今年もよろしくお願いします
「い、いいんですか。リリアナさん。こんなところで……」
「大丈夫さ。誰も来ないよ」
月明かりだけが差し込む部屋の中には、二人の囁き声だけが響いている。背徳感に戸惑うアルティを勇気づけるように、リリアナが、する、とコートを脱いだ。
「さあ、飲もう!」
どん、と音を立てて机に置かれたのは、レストランの帰りに調達した「聖女の祝福」だった。ルクセン帝国の名産品で、ラスタでは珍しい、ライスから作った清酒だ。初代聖女さまの故郷で作られていたという謂れがあるからか、年末年始や祝日にはよく教会で振る舞われる。
ただ、首都にはエルネア教会がない。だから、これは行きつけの酒場の主人がルクセンから仕入れたものを、リリアナが常連客の権力を振り翳して、半ば奪い取るように買い取ってきたものだ。
「本当にいいのかなあ……。王城に忍び込んで酒盛りするなんて」
「王城といっても、外苑寄りの事務室だからな。この部屋の主人は私だ。つまり、私が許可を出せば何の問題もない」
たとえ責任者だろうとも職場を私事に使うのはアウトな気がするが、これ以上言っても仕方がないので大人しく従うことにする。
ここは王城内にある治安維持連隊の本部だ。中央街の本所とは違って、最低限の設備と広さしかない。中にはいわゆる事務机が五台、コの字を左に九十度傾けた配置で並べられていた。
一番奥の一際立派な机がリリアナの席だろう。休み前に片付かなかったのか、決裁待ちの書類が山積みになっている。
「すまんな、埃っぽくて。日中は本所に詰めているから、ここは退勤間際にしか使わないんだよ。特に今は休み中だし」
「大丈夫ですよ。おつまみ、どこに置きます?」
「そこのハンスの席に置いてくれ。あいつ、几帳面だから机の上綺麗なんだ」
指で指し示された先には、文房具以外何もない机があった。隣のリリアナの席が散らかっているので対比がすごい。
心の中でハンスに礼を言い、ありがたく麻袋の中身を広げる。おつまみは商店街で買い込んできた干物だ。酒場の主人のおすすめである。
「さっきのレストラン、すごくお洒落だったし、酒も料理も美味しかったけど、いかんせん肩が凝ったよな。二次会は気楽にやろう」
それぞれ椅子に腰掛け、小声で乾杯したあと、紙コップになみなみと注がれた酒を口に含む。すっきりとした味わいなので、干物やするめがよく合う。ただ度数が十三度から十五度とやや高いので、飲み過ぎは厳禁である。
「あーうまい。ライスの酒は初めてだけど、なかなかいけるな」
「本当によかったんですか、誕生日なのにお金出してもらって。さっきのレストランの支払いだって……」
費用は折半――どころかリリアナが大半出してくれた。こういうとき、甲斐性のない自分が情けなくなる。つまらない男のプライドだと言われればそれまでだが、アルティにだって意地はあるのだ。
「いいって、いいって。こういうときしか使わないんだから。アルティには色々と世話になってるしな」
「でも……」
「じゃあ、また何か作ってくれよ。指輪とかさ」
「えっ」
「え?」
思わずコップを取り落としそうになったアルティに、リリアナが首を傾げる。
ヒト種にとっては指輪を贈るのは求婚の意味合いである。それを説明すると、リリアナは照れくさそうに頭を掻いた。
「悪い悪い。他種族の慣習には疎くてさ。言われてみれば、父上も母上に指輪を贈ってたよ。お互い、それを首飾りにして下げてたな。アルティのご両親やルフトさんたちは指に嵌めてたけど」
「ヒト種は指に嵌めることが多いですね。お医者さまとか、人に触れる職業の人は首に下げる人もいますよ。ルフト兄のお嫁さんも服裁師なので、仕事中は外しているそうです。布に引っ掛けるといけないから」
「お嫁さんか……。みんな賑やかだったなあ……」
「……その節はご迷惑を」
しみじみと呟くリリアナにいたたまれない気持ちになる。
彼女が言っているのは、ミーナの一件で村に立ち寄ったときの話ではない。実は田舎から出てきた家族たちが、年越しキャンプを終えて戻ってきたアルティを待ち構えていたのだ。それも嫁や甥っ子たちまで引き連れて。
総勢十四人の大所帯である。ちゃんとホテルを取っていたのだけは幸いだったが、今まで会わなかった期間を埋めるように、丸二日間、首都中を連れ回された。
挙句にヨハンナみたいに「お世話になっている人たちにご挨拶したい」と言い出したから大変だ。「みんな予定があるから!」となんとか阻止したのはいいものの、休みにかかわらずに工房に顔を出したリリアナだけは捕まってしまった。
「楽しかったよ。話してみたらお姉さんたちともお嫁さんたちとも歳が近かったし、同性と買い物に行くのは初めてだったから。ティーディーちゃんたちは相変わらず元気で可愛いかったしさ。私は一人っ子だから新鮮だった」
「そう言っていただけると、救われます……」
「よかったじゃないか。あの家にアルティの居場所はちゃんとあるよ」
窓から月を眺めるリリアナの横顔に思わず目を奪われる。そのとき、脇に置いた紙袋が腕に触れた。レストランでは渡せる空気ではなかったのだ。
「あの、リリアナさんに渡したいものがあるんですけど……」
「私に? あ、ひょっとして……誕生日プレゼントか? いいのか?」
目を輝かせるリリアナに紙袋を差し出す。中には赤いリボンをかけた長方形の箱が入っている。梱包も箱の中身も、クリフへのプレゼントより気合を入れた。仕事以外で女性に何かを贈ることなんて初めてだから。
紙コップを机の上に置いたリリアナがゆっくりと箱を開ける。淡いアイスブルーの台座に固定されたそれは、何度も試行錯誤を繰り返し、ようやく完成した一振りの短剣だった。
恐る恐る掲げられた白銀色の剣身が、窓から差し込む月明かりを反射して美しく光る。リリアナはその輝きに目を奪われているようだった。
「これ……セレネス鋼じゃないか。どうやって許可取ったんだ? 鎧に使うのは却下されたのに」
「リヒトシュタイン侯爵にお願いしました」
「は? え? 父上に?」
よほどの衝撃だったのだろう。声がひっくり返っている。それもそうだ。アルティもいまだに信じられない気持ちなのだから。
闘技祭が終わったあとすぐに、ラドクリフの兄のルイを頼って仲立ちしてもらい、トリスタンから一生分の嫌味と罵声を浴びせかけられた上で手に入れた許可である。
正直に言うと駄目元だったのだが、まさかうまくいくとは。去り際の殺意のこもった目はしばらく忘れられそうにないが。
アクセサリーではなく短剣にしたのは、リリアナがバルバトスの短剣を――風切り羽の職人の作品をほしがっていたのが悔しかったからだ。
つまり、これは職人として意地を張り通した結果の産物なのである。
「なんで、そこまでして……」
「気に入ってもらえましたか?」
あえて問いには答えずに聞き返す。リリアナの反応で全てわかっているが、彼女の口から聞きたかった。
「嬉しい。本当に嬉しいよ。この美しい剣身も、柄頭の可愛らしい装飾も……。なあ、これ、エミィだろ? 熊騎士シリーズの」
ご明察の通りである。多少大人向けに変えてあるが、柄頭に彫り込んだイラストは以前リリアナに借りた絵本を参考にした。変に気取ったものよりも、喜んでくれると思ったからだ。
リリアナは感嘆の吐息を漏らすと、丁寧な手つきで剣を鞘に納め、胸にかき抱いた。
「ありがとう、アルティ。こんな素敵なプレゼントをもらえるなんて思ってなかったよ。最高の誕生日だ」
その一言だけで、アルティはどこまでも前に進んでいける。
この胸に沸いた感情が何なのか、今はまだわからない。
けれど、決して消したくはない。
「リリアナさん……」
そっとリリアナに手を伸ばす。顔の闇に触れるか触れないかというところで、外で何かが弾ける音がした。
ここからは見えないが、花火が打ち上がっているのだろう。花火に始まり、花火に終わるのがラスタ王国の年末年始である。
「いよいよ新年祭も終わりか。去年は色々なことがあったな」
「……そうですね。まさかウルカナやトルスキンに行って専門外の仕事をするとは思いませんでした。おかげで経験は積めましたけど」
「じゃあ、今年はリッカやウィンストン方面に足を伸ばすかもな。リヒトシュタイン領にもぜひ来てくれよ」
「ええ……。国一周しちゃうじゃないですか……。どうせ回るなら、もっとゆっくり回りたいですよ。弾丸ツアーではなく」
どちらともなく笑い声がこぼれる。どこに行こうとも、きっとリリアナはついてくるのだろう。またハンスに怒られてしまう。
そして困ったことに、アルティ自身もそれを望んでいるのだ。
「今年もよろしくお願いします、リリアナさん」
「うん。こちらこそ、よろしくな」
この場の雰囲気に飲まれたのか、それとも酒が回ってきたのか、リリアナが手袋を脱いで手を差し出してきた。
デュラハンが伴侶以外に素手を晒すとは前代未聞である。咄嗟に隠そうと思ったが、どうせ誰も見ていない。
誘われるように、白くて小さな手に自分の手を絡める。
ただ満月だけが、二人を照らしていた。
何かが芽生えはじめたアルティです。
これにて5部は完結です。閑話を挟んで6部に移ります。
6部では職人につきものの難敵が立ち塞がります。
引き続きよろしくお願いします。




