3話 クリフの過去②
「師匠……?」
「そうじゃ。つまり、お前の大師匠……マリウスにとっては、お前は孫弟子になるのう」
ずず、とコーヒーを啜るクリフをアルティは複雑な気持ちで見つめていた。師匠の師匠――そんな存在がいるとは、今まで思ったこともなかったからだ。
クリフの腕がすごいのは、生まれつき手先が器用なドワーフだからだと思っていた。だからヒト種のアルティではなかなか到達できないのも仕方ないと。
馬鹿な考えだ。たとえドワーフでも始まりはみんな一緒。今、アルティがそうであるように、誰しも歯を食いしばって金槌を振るった経験があるとわかるはずなのに。
ゆっくりと息を吸って、しっかりと目の前の相手を見つめる。
髪も髭も真っ白な偏屈な老人。毎日金槌を振るい続ける両腕はアルティの太ももより太い。
仕事は「目で盗んで覚えろ」なタイプで、ほとんど口では教えてくれないし、ケチな割には気に入った仕事は利益を度外視して、いつもアルティを困らせる。客も選り好みするからいつも喧嘩ばっかりだ。
それでいて、胸にものづくりへの情熱を抱き続ける職人。
右も左もわからないアルティを受け入れて、手荒な愛情を注いでくれる師匠。
ドワーフだとか、ヒト種だとか、そういう上辺だけのものを全て取り払うと、クリフという人間が急に等身大になったような、そんな気がした。
「あの……。それで、そのマリウスって人は……」
「焦るな。ここからが本番じゃぞ。そいつと出会ってどれだけワシが――」
そのとき、クリフの母親が眠る部屋で物音がした。もしかしたら目を覚ましたのかもしれない。
「……ちょっくら見てくるわ」
立ち上がったクリフが寝室に向かう。その背中は少し緊張している。それもそうだろう。八十年以上会っていないのだ。向こうも来るのは相当の勇気と覚悟が必要だったに違いない。
「家族か……」
故郷にいる家族たちの顔を思い浮かべる。アルティとて、七年間手紙すら書かなかった。あのミーナの一件がなかったら、まだ誤解したままだっただろう。妹たちを食べさせるために家を出されたのだと。
ずず、とコーヒーを啜る。クリフと違ってブラックである。酒を飲んでいいと言われたが、さすがに飲む気にはなれない。
しばしそのままぼんやりしていると、苦笑を浮かべたクリフが戻ってきた。
「どうでした?」
「ただ寝返りを打っただけだったわ。おふくろのやつ、昔と変わらず寝相が悪い」
ぼやくような言葉に反して、その声色はとても優しかった。
「さて……。どこまで話したっけな」
「マリウスさん……。俺の大師匠と出会ったところですよ」
「そうじゃった、そうじゃった。マリウスな。そいつと出会ってワシは――」
最初より若干明るくなった顔で、クリフは再び語り出した。
マリウス。そいつと出会ってワシはもう本っ当に苦労した。
何しろ破天荒でな。あっちへ行ったかと思えばこっち、こっちに行ったかと思えばあっち。ずーっと落ち着きなくフラフラしとった。二、三日姿をくらますこともザラじゃったし、その上、頭から靴まで全身真っ黒。夜になるとよく見失ったものじゃ。
烏の濡れ羽色っていうんじゃろうかの。肩ぐらいまでの長さの、見事な黒髪をした男じゃった。瞳も宵闇のような濃紺で、歳の頃はたぶん四十代ぐらいじゃったと思う。笑うと目尻に皺ができとったし――何しろヒト種の歳はようわからんでの。
で、さっきも言ったが、とにかく落ち着きがない。まるで子供がそのまま図体だけでっかくなったような男じゃった。何度、首輪をつけてやろうかと思ったぐらいじゃ。
……なんじゃその顔は。言っとくがワシはあいつよりはマシじゃからな。
まあ、とにかくじゃ。
マリウスに拾われたワシは、その日から行動を共にするようになった。とはいっても、最初は特にやることもなかったな。どんなに破天荒な男でも、さすがに死にかけの子供をこき使う気にならんかったのかもしれん。
ところどころ意識が飛んどるんであまり覚えてないが、最初の一カ月はアクシス領のど田舎の村で静養しとった。確かルビ村とか言う――え? お前の故郷? そうじゃったか? すごい偶然じゃな。お前を受け入れると決めたときには、すっかり忘れとったよ。
で、だ。そこでマリウスは路銀を稼ぐために鍋やら包丁やらを作っては売り捌いておった。
どうも、元々職人仕事を生業にしておったらしいな。屋号紋を持っておらんかったから、今までどのぐらい作品を世に送り出したのかは知らんが、ものを作る手つきは明らかに素人のものじゃなかった。だからワシの作った武具にも興味を示したんじゃろ。
それ以外はまったく経歴不明の男じゃったが、武具と違って生活用品を求める客には、そんなことはなんの関係もない。長く使えさえすればそれでいいんじゃからの。
もちろん村人相手だから単価は安いが、これがまあ売れるんじゃ。口コミというのか、評判が評判を呼んで村外から客が訪れることもよくあった。
武具しか作ったことのないワシには目から鱗じゃったよ。武具が売れなくなっても、人の営みがある限り生活用品は売れる。なんで気づかなかったんだと自分に腹が立ったな。
だからワシは、金槌を握れるまで回復したと同時にマリウスに頼んだんじゃ。
「俺に作り方を教えてくれ」って。
でもな、マリウスは半笑いを浮かべるだけで応とは言わなかった。まとわり付くワシをにやにや見ながら、ただ金槌を振るい続けたんじゃ。
まあ、腹が立ったな。子供がここまで頭を下げてるのになんで教えてくれないんだとも思った。でもな、ある日気づいたんじゃ。ワシがまとわりついている間、マリウスはいつもより丁寧にゆっくりと仕事をしていると。
これはもう「見て盗め」だと思ったワシは、その日から必死にマリウスの真似を始めた。素材の見極め方。金槌の振るい方。磨くときの手つき。染料をどう組み合わせるか。細かいことを言い出すとキリがない。一挙一動見逃さない構えじゃった。
結果として、マリウスは今まで出会ってきたどんな職人よりも優れた腕を持っていることがわかった。何しろ全てが繊細で丁寧なんじゃ。それに、道具を使う客のことをよく考えておった。
たとえば、小柄な女性客には持ち手が短くて軽いフライパンを。魚を捌く料理人には切れ味の鋭い細身の包丁を。万事が万事そんな調子じゃった。
一度言ったことがあるんじゃ。
「なんで、そんなに効率の悪いやり方をするんだ」って。
生意気極まりないな。正直ワシの黒歴史じゃよ。
マリウスはじっとワシの顔を見つめて――そしてこう言った。
「客がいてこその職人だろ?」って。
恥ずかしかった。ワシは心の底で客のことを「作品を売ってあげている」と見下していたのだと気づかされた。「客が買ってくれる」から職人は職人足り得るんじゃ。そんな当たり前のことも見失っていたんじゃな。
ワシはその日から一層マリウスに学ぶようになった。だが、どれだけ努力してもマリウスの腕には到底及ばなかった。
なんと言うのかな。作っているのはなんの変哲もない生活用品なのに、目を奪われるというか……。本当に腕のいい職人が作ったものには、見るだけで心を動かす何かがあるんじゃよ。
アルティ、お前もそういう作品に出会ったことがあるか? 何? 風切り羽の職人? おい、そこはワシじゃと言うところじゃろ。
……まあ、いいわ。とにかく、いつしかワシはマリウスを師匠と呼ぶようになり、共に金槌を振るうようになった。
そのときはワシもまだ黒髪じゃったから、たまに親子に見られたりしてな。父親というものを知らんワシにとっては嬉しい誤解じゃった。向こうはワシのことを名前じゃなく「ちびすけ」と呼んでたから、どう思ってたのかはわからんが。
二人で色んな土地を回ったよ。リヒトシュタイン領とワシの故郷のセルビナ領――あと、当時はリッカ領だったシエラ・シエル以外は行ったんじゃないか。
その間にワシの腕も徐々に上がっていっての。気づけばマリウスと同じぐらい稼げるようになっとったわい。
でも、そんな生活は長く続かなかった。ワシがグリムバルドに根を下ろすきっかけになったのは、マリウスと出会ってから二年後の――ある夏の日のことじゃ。
次回でクリフの独白は終わりです。




