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1話 母親は雪とともに

 大きなくしゃみをして、身を震わせる。目の前には鏡のように顔を映し出す店の看板。毎日磨いているとはいえ、いよいよ年末だと思うと布を握る手にも自然と力が入る。


「そういえばうちの屋号紋も風切り羽だな……。リリアナさんの兜やミーナさんの鎧もそうだったし、百年前の流行りだったのかな?」


 防具を専門に扱う工房は、鎧や盾、そして金槌や金床を屋号紋にすることが多い。百年前といえばモルガン戦争が起きた頃だ。当時の職人たちの苦労を思うと、こうして安穏な日々を過ごせる幸運に感謝しかない。クリフだって戦後すぐの生まれだ。この工房を立ち上げるまでに、どれだけの苦労があっただろう。


 ふうと息を吐くと、白い塊が空に昇っていった。まるで体から抜け出た魂みたいだ。それをぼんやりと見上げていると、ふいに鼻に冷たいものが当たった。


 寒いと思ったら雪が散らついている。思わず歓声を上げそうになったが、周りに誰もいないので止めた。


 それもそうだ。闘技祭が終わってもう十日も経っている。あと三日もすれば年越しだ。あの派手派手しい喧騒もすでに落ち着き、周囲はしっとりとした静けさに包まれている。年末ギリギリまで仕事しているワーカーホリックな工房はここぐらいなものだ。


「あー……体冷えてきた。これぐらいで大丈夫かな」


 ぴかぴかになった看板をチェックして脚立を降りる。そのまま近所の工房の壁にこっそりと立て掛けたところで、店の前に佇む小柄な女性に気づいた。


 いつの間に現れたのだろう。


 女性は見事な赤猪レッドボア製のコートを羽織り、ぼんやりと玄関のドアを眺めていた。もしかすると、お客さまかもしれない。驚かせないようゆっくりと近づくうちに、女性の容姿が明らかになった。


 濃いブラウンの髪と瞳。そして、少しずんぐりした体型――ドワーフの女性だ。その横顔は、どことなく誰かに似ているような気がする。


「あの、うちの店に何か御用でしょうか」


 驚かせないように気をつけたつもりだったのに、女性は肩を大きくすくめてアルティから後ずさった。その瞳には怯えの色が見える。見知らぬ人間への――いや、男への怯えかもしれない。


「すみません、驚かせて。俺はこの店の主人であるクリフ・シュトライザーの弟子、アルティと申します。お仕事のご依頼でしたら中でお受けいたしますが」

「クリフの……? あなたが……?」


 女性の瞳から怯えの色が消えた。直後に浮かんだのは必死さだ。女性はアルティの両手をがしっと掴むと、目尻に涙を溜めて追い縋ってきた。


「お願い、教えて。クリフ、クリフは今も元気で――」


 その続きは聞けなかった。女性が膝からくずおれたからだ。抱き止めた体がやけに熱い。熱があるのかもしれない。ミーナのときと同じだ。必死に声を張り上げる。


「師匠! 師匠、来てください! 早く!」

「何じゃ、騒々しい。もう年末じゃぞ。ちっとは静かに……」


 クリフの目が大きく見開かれる。そして、医者を要請するアルティの言葉を遮るように、震える声で言った。


「おふくろ……」






 穏やかな魔石灯の明かりが照らす中、そっとコーヒーを差し出す。来客用のものだが、今日ぐらいはいいだろう。


 キッチンの椅子に力無く腰掛けているクリフの対面に座り、寝室へと続くドアを見つめる。あの向こうにはハイリケの診察を終えたクリフの母親が眠っている。


 高熱が出ていたものの、見立てではただの風邪とのことだった。着の身着のままの姿を見るに、遠い北方の果てから、ろくに休まずにここにやって来たのだろう。


 クリフはずっと黙り込んだままだ。


 七年間お世話になっているといえども、アルティはクリフの事情をほとんど知らない。クリフは自分のことをべらべらと喋る性分ではなかったし、長く生きている分だけ、言いたくないことも山ほどあるだろうと思っていたから、あえて聞きもしなかった。


 だから今、どう話を切り出していいのかわからない。アルティにできることは、いつになく元気のないクリフのそばにただ寄り添っていることだけだ。


「すまなかったな。世話をかけて」


 机の上に置いたコーヒーがそろそろ冷め出した頃、クリフがぽつりと呟いた。


 その目はアルティを向いてはいない。膝の上に置いた自分の両手のひらを、ただじっと見つめている。まるでその向こうに望む情景が広がっているかのように。


「いいえ。弟子ですから。師匠の世話を焼くのは俺の仕事です」


 あえて明るく言うと、クリフの口元がふっと緩んだ。そのまま手のひらから視線を外し、コーヒーを口に含む。甘党のクリフに合わせてミルクを多めにした成果か、クリフはほうっと弛緩したようにため息をつくと、ぐしぐしと目を擦った。


「お前も気づいとるかもしれんが、おふくろは純血のドワーフじゃ。今年で確か……百十五歳だったと思うが、ワシよりも遥かに若い見た目をしとったろう」


 黙って頷く。ドワーフの寿命は三百年。ハーフドワーフの寿命は百五十年。寿命が半分だから「ハーフ」なのだ。つまりは同じ年を重ねても、老化速度には格段の違いが出てくる。


 故にハーフの子供は純血の親よりも早く老けるし、この世を去ることになる。これはヒト種をはじめとした短命の種族には見られない傾向だから、長寿の種族特有の悩みだと言える。


 クリフも九十六歳の割には元気溌剌としているが、それでも見た目は老人そのものだ。髪と髭は真っ白だし、最近ではこっそり腰に湿布を貼っているのも知っている。寿命は百五十年あるといえども、あくまでそこが限界というだけで、マックスまで辿り着けるものは極稀なのである。


 逆にクリフの母親は百十五歳だが、まだ三十代くらいの見た目だ。クリフと並べばどちらが親かわからなくなる。


「おふくろの……ワシの故郷は、ウィンストンから馬車で三日ほど離れたセルビナ領ケルミット山中にあった。お前も知っとるじゃろ? ドワーフの横穴じゃ」


 ドワーフの横穴とは、簡単に言うと鉱山の中や地下に築いたドワーフたちの街だ。縦横無尽に伸びた横穴が独特の景観を生むため、自然とそう言われるようになったという。


「おふくろがワシを宿したのは、戦後から三年ほど経った頃じゃった。ラグドールの魔王のせいで北方はほぼ壊滅状態。今とは比べようもないくらい悪い治安の中、おふくろは一族の総領娘として復興に励んでおった。そして父親は、どこの馬の骨とも知れぬヒト種の傭兵じゃった」


 息が詰まった。治安が悪いということは、あらゆる犯罪が日常的に起こるということだ。特に女性には男性よりもはるかに多くの危険がつきまとう。クリフの母親もその犠牲になったのだ。


「意味はわかるな? ワシは望まれない子供じゃった。だから……」


 そこで言葉を詰まらせ、クリフはコーヒーを飲み干した。まるで自分の中の澱を飲み干すように。


 コーヒーのお代わりを入れ、もう一度クリフに向き合う。今度は待たなかった。いつもの力強い光が消えてしまった瞳をじっと見つめ、つっかえながらゆっくりと口を開く。


「あの……。もし、よかったら……なんですけど、俺に話してもらえませんか。師匠が今までどうやって生きてきて、どんな気持ちでこの工房を開いたのか」


 弟子の込めた想いに気づいたのかどうか。クリフはアルティの瞳をじっと見つめ返すと、やがて自分に言い聞かせるように言った。


「そうじゃな……。ちびすけだったお前も、もう成人したことじゃしな……」


 ちびすけ。それはアルティがここに来たばかりのときの呼び名だ。


 いつしか――確か二年ほど経ったあたりから名前で呼ばれるようになった気がするが、何しろ毎日クリフについていくので精一杯だったのであまり覚えていない。


「長い話になる。あのデュラハンのお嬢さんが持ってきたチョコでも摘もう。お前は酒でも飲んどりゃええ。つまみは老人のくだらない思い出話じゃがな」


 そう前置きして、クリフは静かに自分の過去を語り始めた。

次回、クリフの一人称となります。

シリアスな始まりですが、6話以降は賑やかな日常に戻ります。

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