1話 気づけばそこはトルスキン
目が覚めると、ドラゴンが顔を覗き込んでいた。
本当に驚いたときは声なんて出ない。咄嗟にその場に跳ね起きる。
どうやらベッドに寝かされていたらしい。腰の下でスプリングが軋み、弾みでドラゴンが胸から転げ落ちていく。
その先には幾何学模様の刺繍が施された掛け布団。部屋のあちこちには、どこか異国情緒を感じさせる調度品。どこをどう見ても自室ではない。
呆気に取られていると、ドラゴンがよじよじと這い登ってきた。子猫ぐらいの大きさにつぶらな黒い瞳。妖精竜だ。風属性なのか、鱗が薄い緑色をしている。
「なんでこんなところにドラゴンが……っていうか、ここはどこ……?」
しがみついてくるドラゴンを抱き上げて絨毯に足を下ろす。何度見渡しても、そこは不思議な空間だった。
壁には色鮮やかな布が幾重にも貼られ、天井からは金魚鉢を逆さまにした形のガラス照明がいくつもぶら下がっている。壁際に置かれたソファの上のクッションもやたらカラフルだ。どこかで何か焚いているのだろうか。微かに白檀らしき匂いも漂ってくる。
戸惑いつつベッド脇の窓から外を眺めたとき、部屋のドアが開いた。
「お、目が覚めたか」
にっと少年みたいな笑みを浮かべて中に入ってきたのは、二十代前半ぐらいの若い男だった。よく鍛えられた体に、布団と同じ幾何学模様が刺繍された前開きの長衣をまとっている。
褐色の肌に映える金目の中の瞳孔は猫のように細い。何より、緑色の髪の毛の隙間から伸びる二本の巻き角と、己の吐き出す火炎に耐えるための真っ黒な歯と爪は、間違うことなきドラゴニュートの証だった。
「心配したぜ。ちょっと速度上げただけで気絶すんだから。ヒト種って本当に柔いよな」
余計なお世話である。どうも目の前の男に連れてこられたようだが記憶がない。
「あなたは?」
できる限りの敵外心を込めて睨むと、何故か男は胸を張った。
「俺はバルバトス・エクテス。このエクテス領の領主バネッサの一人息子で、トルスキン方面軍第三旅団の飛兵中隊長だ」
「エクテス領……⁉︎」
エクテス領とは、東方に広がるトルスキン領と首都の間にある領地である。
ここを起点として隣国のアッカム王国の文化が入りまじってくるので、ひっくるめてトルスキン方面と言われている。面積はそう広くないが、豊富な水をたたえるオアシスと、東方一の高さを誇るイルギス火山から採れるイフリート鉱石に恵まれた豊かな土地だ。
何故そんなところに連れてこられたのかわからない。それも跡取り息子とやらに。
「あんたの噂は聞いてるぜ、アルティ。リヒトシュタイン嬢の兜やマルグリテ家の子供の鎧兜一式、それに猫の獣人の鎧を作ってやったんだってな」
正確にはミーナの鎧は直しただけだが、それを親切に教えてやるほどこちらは馬鹿ではない。黙り込むアルティに、バルバトスは拝むように両手を合わせた。
「そんな顔すんなって。あんたのお師匠さんには許可を得てんだぜ。時間がないからちょっと手荒になっちまったけど、どうしても頼みたいことがあるんだ。あんたもいいって言ったじゃねぇか」
「言ってませんよ! なんのことだか……」
ふと、風に翻る赤いマントを思い出した。
「あんたがアルティ・ジャーノだな」
それは木枯らしの吹く夕暮れ時だった。ついに開催までひと月を切った闘技祭の打ち合わせのために、職人組合に顔を出した帰りのことだ。
目の前の男は深くフードを被り、アルティの進路を塞ぐように立っている。体にまとった赤いマントが、夕焼けとの相乗効果でやけに鮮やかに見えた。
「……どちらさまですか?」
そっとあたりを見渡すが誰もいない。近道をしようと路地裏を通ったのが間違いだった。
男はアルティが警戒心を抱いたことに気付いたのだろう。大きな体躯に似合わぬ素早い動きで眼前まで距離を詰めると、毛糸の手袋に包まれたアルティの両手を掴んだ。
「逃げないでくれよ。あんたの力を借りたいんだ。どうか助けると思って。頼む」
ギリギリと力を込められ、骨が軋む。今にも握り潰されそうだ。このままではハイリケに怪我を治してもらったのが無駄になってしまう。
「わかりました! わかりましたって! 手を離してください! とりあえずお話を聞きますから、店に……」
「そうか! ありがとな!」
引き受けたわけじゃないと言い返す間もなく、体が浮き上がった。冬の冷たい風が頬を刺すと同時に、ぐるぐると視界が回って状況が把握できない。
男の腕の中に抱き抱えられて空を飛んでいると気づいたのは、首都を囲む城壁が積み木のように小さくなってからだった。
「な、な、なんですかこれっ! ちょっと離してください! 人攫いー!」
「人聞き悪ぃこと言うなよ。飛ばすから口閉じな。舌噛むぜ!」
ぐん、と周りの景色がものすごい速さで後ろに流れていく。前方から容赦なく顔を叩く風で息ができない。
前に病院で遭遇した、顔を水の膜で覆われて地面に転がった男たちの姿が脳裏に浮かぶ。
これが窒息ってやつなんだなあと思った瞬間、意識が闇に落ちた。
「……思い出しました」
ぽつりと呟くと、バルバトスは顔を輝かせた。嬉しそうに「よかったぜ。それでさ……」と続けようとしたところを遮って叫ぶ。
「思い出しましたけど、引き受けた覚えはありません! 今すぐ店に帰してください!」
「ええ、そんなこと言うなよ。ちゃんと金は払うから……」
そのとき、部屋の外から激しい爆発音がして床が揺れた。絹を裂くような女性の悲鳴と、野太い男の悲鳴が入りまじり、一瞬で有事が起こったのだと悟る。時折聞こえる鈴のような音色は、間違いなくあの人の声だろう。
エクテス領にとっては災厄だが、アルティにとってはまさしく天の助けだ。早くも冷静さを取り戻しつつあるこちらとは真逆に、大きく顔色を変えたバルバトスが窓に駆け寄った。
「げ! あいつらもう来やがった! まだ半日しか経ってねぇぞ!」
ら、ということは複数で来ているらしい。飛び出していったバルバトスの後に続いて外に出ると、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっていた。
アルティがいた部屋は大きなお屋敷の一部分だったようだ。呆れるほど広い玄関先の庭では、屋敷の使用人や、警備員と思われる傭兵たちが右往左往している。
さすがに加減しているのか怪我人はいないようだが、地面のそこらじゅうには氷柱が突き刺さり、その隙間を縫って飛ぶ火の玉が、空を焦がすように激しく燃え盛っていた。
混乱する現場の中心で巧みに魔法を操っているのは、コバルトブルーの鎧兜を着たデュラハンと、ルビーみたいに真っ赤な鎧兜をきたデュラハンだ。バルバトスは必死に応戦しているものの、二人の魔力に押され気味のようだった。
庭の隅の魔法が届かない安地には、ドラゴニュートに手綱を引かれた飛竜の姿が見える。どうやら飛竜便をチャーターしてきたらしい。
「無事かアルティ! 助けに来たぞ!」
「ごめんねアルティ君。馬鹿が面倒をかけたね」
まさかラドクリフが来ているとは思わなかったが、たまたま顔を合わせたか何かでリリアナに連れてこられたのだろう。
「リリアナさーん! ラドクリフさま―! はるばるありがとうございまーす!」
大きく手を振ると、リリアナは張り切って氷柱の数を増やした。それに気付いたバルバトスが、ラドクリフの炎を受け流しながら「煽るのやめろよ!」と叫ぶ。
そうしている間も、使用人や傭兵が、一人、また一人とその場から逃げ出していく。さすが幼馴染だ。見事なコンビネーションを見せる二人に、バルバトスがため息をつく。
「別に俺、悪役じゃねぇんだけどなぁ」
段々と可哀想になってきたが、無理やり連れてこられているのだ。擁護するつもりは欠片もない。大人気なくそっぽを向いたとき、胸の中で何かがもぞもぞと動いた。妖精竜だ。そういえば抱いたままだった。
妖精竜はアルティの腕から抜け出すと、氷や炎が飛び交う中をとてとてと駆けていった。
「あっ、ちょっと待って!」
「おい、危ねえぞ!」
つい飛び出したアルティにバルバトスが叫ぶ。そこは戦場だと気付いたときにはもう遅かった。
「よ、避けてくれアルティー!」
「あ」
目の前には拳大の氷礫。がつん、と鈍い音がして意識がふっと遠のく。
昨日に続き、二度目のブラックアウトだった。
バルバトスは1部1話の冒頭にもいましたね。
この世界のドラゴニュートは、見た目が特異ですが魔物ではありません。




