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閑話 職人街のお医者さん

今回少し長めです。

 工房中に響き渡るほど、大きなくしゃみが出た。鼻を啜りながら手元の魔機のスイッチを切り、作業台のパイプ椅子の上で目を丸くしているリリアナに笑みを向ける。


「誰か噂してるんですかね?」

「何のんきなこと言ってるんだアルティ! 血! 血が出てる!」


 わなわなと震える指の先には、赤く染まる軍手があった。


 魔石グラインダーで鋼板を切っていたのだが、くしゃみをした弾みで左手にぶつけてしまったのだ。傷は結構深かったようで、こうしている間もダラダラと血が流れている。


「うるさいのう。血なんぞ戦場で慣れとるじゃろ。そんな騒がんでもよかろうに」

「弟子が怪我して、なんでそんなに冷静なんだよ!」


 いきり立つリリアナを「まあまあ」と宥め、軍手を外した手に布を巻きつける。とりあえずの応急処置だ。


「大丈夫ですよ。ちょっと深いですけど骨は出てませんし、血もすぐ止まると思います」

「そっちもなんでそんなに冷静なんだよ……」

「職人に怪我はつきものですからね。工具で指を飛ばす人もいますし」

「指……」


 顔があったらさあっと血の気が引いてそうな様子で、リリアナがパイプ椅子から立ち上がった。


「今すぐ病院に行こう! 王城にいい医者が……」

「待って待って! 落ち着いてください! 医者なら職人街にもいますから!」


 体を抱えて連れて行こうとするリリアナをなんとか落ち着かせ、アルティはズボンのポケットに財布を捩じ込んだ。


「師匠、ちょっと外しますね。あとよろしくお願いします」

「おう、行け行け。工具を扱っとるときにくしゃみする未熟者なんぞいても邪魔じゃ」


 相変わらずひどい。気力と根性で生理現象をコントロールできたらそれは人間ではない。


 店を出ると冷たい風が頬を刺した。すっかり冬の気配だ。道を行く職人たちも、自然と背中が丸まっている。


「その医者って……? 腕は確かなのか?」


 心配そうについてくるリリアナに、アルティはにっこりと微笑んだ。


「ええ、とびっきり腕のいいお医者さまですよ」






 蔦の絡まった壁の前に立ち、窓の中を覗き込む。珍しく患者はいないようだ。これならすぐに診てもらえるだろう。


 入口の脇に掲げられた看板には『ドクトール病院』と煤けた文字が書かれている。


 ここは職人街の中でも特に入り組んだ路地の中にある病院で、院長は単なる風邪から生死に関わる大怪我まで総合的に診てくれる、いわゆる「街のお医者さま」だ。周辺の雰囲気はあまりよろしくないが、どんな怪我も綺麗に治してくれるので、職人街以外からも足を運ぶ患者は多い。


 血がつかないよう、気をつけてドアに手をかける。隣にリリアナの姿はない。最後まで付き添うと言ってくれたのだが、昼休憩を過ぎても戻らない上司に激怒したハンスに呼び戻されたのだ。いつもは大人しい部下も、たまには反乱を起こすものである。


 苦笑しながらノブを引こうとしたとき、内側から大きく開いたドアに思いっきり顔を打ちつけた。


「あっ、悪い」


 中から出てきたのは、頬が痩せこけたヒト種の中年男性だった。全身を黒いマントで包み、ひどく薄汚れている。


「い、いえ、大丈夫です。ちょっとぶつけただけですから」

「でも、鼻が真っ赤になってるし……」


 男は申し訳なさそうな表情を浮かべているものの、長い前髪の下の目はギラギラとしていて、微かにマントから除いた両手首には、刺青がびっしりと彫り込まれていた。


「ザックさーん。お忘れ物ですよ」


 受付の中年女性が手に巾着を持って近づいてきた。エルゼという名の兎の獣人だ。


「もう〜。これがないと始まらないでしょ。心配しないで。大丈夫だから」


 ザックと呼ばれた男はエルゼから巾着を受け取ると、何度も頭を下げて去っていった。


「さっきの人は……?」

「ん〜? うふふ、患者さんよ」


 語尾にハートマークをつけ、さらりと流される。聞いてはいけないことなのだろう。ここには裏社会の人間もよく訪れるから。


 エルゼはそのまま外に出ると、エプロンのポケットから休診の札を取り出してドアノブにかけた。


「えっ、今日はもう終わりですか? これ、診てもらいたかったんですけど……」


 左手を掲げながら訴える。ここで帰されたら仕事の続きができない。


 エルゼは今気づいたというように目を瞬かせ、しばし考え込んだあと、「まあ、アルティくんなら大丈夫かな〜」と言って中に通してくれた。


 首を傾げつつ診察室に入る。広くはないが、よく整頓された部屋は埃一つなく拭き清められていて、微かに漂う消毒液の匂いが鼻をくすぐった。


 壁際のキャビネットの上には、可愛らしいぬいぐるみたちが飾られている。この前来たときより一体少なくなっているのは、子供の患者にあげたからだろうか。


 部屋の中央では、白衣を着た男が穏やかな笑みをたたえて丸椅子に座っていた。


「おやあ、アルティくん。この前ぶり。あのときの獣人の女の子は元気?」


 ハイリケ・ドクトール院長。昼も夜も明けず、十年以上ここで患者を診続けているヒト種だ。ミーナが倒れたときも来てもらった。


 歳の頃は三十を越えた頃だろうか。くすんだブラウンの髪と瞳で、細い銀縁のメガネの下にはいつも消えないクマがある。温和そうな顔つきだが、職人街の荒くれ者たちの手綱をしっかりと握っている。


「無事に村に戻って村長業を頑張ってますよ。近々、幼馴染と結婚するそうです」

「それはめでたいねえ。あやかりたいものだよ」

「まったくですね……」


 悲しいことに、お互い多忙すぎて色恋沙汰からは遠ざかっている。


 嘆きながらハイリケの前の椅子に座ったとき、いつもフォローしてくれる人がいないことに気づいた。


「あれ? アイナさんは?」

「中央街に用事があってね。ちょっと出掛けてるよ」


 アイナはこの病院の医療助手で、青い髪と肌をしたマーピープルの女性だ。槍が降ってこようが常にハイリケのそばにいるのに、珍しいこともあるものだ。


「それで、今日はどうしたの? その左手かな? 派手にやっちゃったみたいだねえ」

「グラインダーで切っちゃって。もう血は止まってるみたいなんですけど」


 左手に巻いた布を外して、ぱっくりと裂けた親指の付け根を見せる。ハイリケは生理食塩水で傷口の周りを洗うと、微かに眉を寄せた。


「ちょっと深いねえ。もうすぐ闘技祭でしょ。縫うより治療魔法で治しちゃった方がいいと思うよ」

「うーん……。でも、治療魔法って高いんですよね?」


 幸い、アルティ自身はまだお世話になったことがないが、使える人間が限られている分、費用も高額になると聞いている。


「大丈夫、大丈夫。最近保険適用になったから。いい時代になったねえ」


 保険とは、国に税金を払う代わりに医療費の負担を軽減する制度である。治療魔法は今まで適用外だったが、ラグドールとの戦争が終結したのを機に適用になったらしい。


「じゃあ、よろしくお願いします」

「うん。ちょっと熱いけど、すぐに終わるから心配しないでね」


 ハイリケは己の両手を消毒すると、アルティの左手を包むように握り、そっと目を閉じた。傷口に熱が集まる感覚がして、あっという間に傷が塞がる。少し疲れた気がするが、痛みも違和感もまったくない。


「うわ、すご……。本当に跡形も残らないんですね」


 しげしげと手を眺めるアルティにハイリケが笑う。


「治療魔法って、免疫力を高めて強制的に傷を塞ぐから体力を消耗するんだ。失われた血が戻るわけじゃないから、今日は肉をしっかり食べて、ゆっくり休んでね」

「はい、ありがとうございます。それじゃあ……」


 頭を下げて椅子から立ちあがろうとした瞬間、受付の方から甲高い声が聞こえた。


「なんですかあなたたち!」

「うるせえ! 院長を出せ!」


 受付の前には、いかにもガラが悪そうなヒト種の男たちがたむろしていた。刺青だらけの手には抜き身のナイフを持っている。外にも仲間がいるらしい。待合室の窓から派手なモヒカン頭が見えた。


「私が院長です。どうなさいましたか?」


 穏やかな笑顔で前に進み出るハイリケに男たちが吠える。


「しらばっくれんな! さっき、ここに黒いマントを羽織った男が来ただろう。そいつの持ってた巾着の中身をすり替えたのはお前だろうが!」


 入り口でぶつかった男の姿が脳裏をよぎり、心の中で「まさか」と叫ぶ。


 どうやらまた厄介ごとに巻き込まれてしまったようだ。こんなことならリリアナについてきてもらえばよかった。己の運の悪さが憎い。


「さて、なんのことでしょう? ここは病院です。医者はいても泥棒はいませんよ」

「抜かせ! さっさと返さねぇと、こいつがどうなってもしらねぇぞ!」


 いきり立った首領格の男が、受付に立つエルザに手を伸ばした。


「エルザさん!」


 咄嗟に駆け寄ろうとしたが、ハイリケに阻まれる。


「大丈夫だよ、アルティくん。エルザさんは首狩り兎ジャックラビットの獣人だからね」


 ハイリケが言い終わるや否や、カウンターの下から刺股を取り出したエルザが、首領格の男の横っつらを張り飛ばした。


 もろに食らった男が、待合室の椅子を薙ぎ倒して床に転がる。あたりどころが悪かったのか、ぴくりとも動かない。


「な、何だこいつ! 受付の強さじゃねぇぞ!」


 顔を青ざめた仲間たちが一目散に逃げ出そうとする。しかし、ドアを開けた先には、嫋やかに微笑むマーピープルの女性――ハイリケの助手のアイナが立ち塞がっていた。


「あらあら、いけない子たち。病院では騒がないようにって言われませんでした?」


 埃を払うようにアイナが右手を払う。決着は一瞬で着いた。声もなく倒れた男たちの顔には、分厚い水の膜がすっぽりと嵌っている。


 ドアを開ける前に仕留めたのだろう。よく見ると、外で見張っていたモヒカン男も頭に水をまとって地面に転がっていた。


「う、うわあ……」


 窒息狙いとはえげつない。ドン引くアルティを尻目に、エルザとハイリケがアイナに駆け寄る。


「お疲れ〜、アイナちゃん」

「うまくいきましたか?」

「ええ、ばっちり」


 ウインクするアイナの横から、「壮観ですねー」と青い鎧兜のデュラハンが顔を出した。ハンスだ。後ろに警備隊の面々を引き連れている。アイナに先導されてきたらしい。


「では皆さん、確保してくださーい。水責めに遭ってる人にはストロー差してあげてくださいねー。死んじゃうので」


 容赦なく引っ立てられていく男たちを見送り、目を細めたハンスがアルティに近寄ってきた。若干、笑いをこらえているような気配を感じる。


「災難でしたねー、アルティさん。相変わらず巻き込まれ体質のようで」

「残念ながら……。一体どういうことなんです?」


 我ながら情けない声を上げると、ハイリケが代表して経緯を説明してくれた。


 予想した通り、黒いマントを羽織った男は裏社会の人間だった。組織の命令で王城の研究室からセレネス鉱石を盗んだのはいいものの、罪の重さに怖くなり、ハイリケに助けを求めたという。自首して足を洗いたいが、娘を人質にされてできないと。


 そこでハイリケは診察室のぬいぐるみと鉱石を入れ替え、「病院ですり替えられた」と言えと助言した。その上でアイナに中央街にある警備隊の本所まで行かせ、組織の男たちが出払った隙に娘を救出し、さらにここで一網打尽にするよう仕向けたのだ。


 道理でハンスが怒るはずである。王城で起きた泥棒騒ぎに連隊長が不在でいいはずがない。


「だから休診の札を出そうとしたんですね……」

「ごめんね〜。でも、怪我がひどそうだったし、アルティくんなら肝が据わってるから大丈夫かと思って〜」


 茶目っ気たっぷりに微笑むエルザに何も言えなくなる。


「肝が据わってるといえば、先生もですよねー。僕、こっそり様子伺ってましたけど、よく真正面から向かっていけましたねー」


 感心するハンスにハイリケがいつもの笑みを向ける。


「ここにいると、そういう荒事には慣れるんですよ。それに……体だけでなく、心も治療するのが医者の役目ですから」


 白衣のポケットからセレネス鉱石を取り出したハイリケに、ハンスが「参りました」と頭を下げる。


「鉱石、確かに受け取りました。ご協力ありがとうございます。また後日、詳しいお話を聞かせてください。アルティさんも行きましょう。お仕事溜まってるんでしょ?」


 丁重にセレネス鉱石を腰のポーチにしまい、歩き出したハンスの横に並ぶ。


「リリアナさんは本所ですか?」

「そうです。さすがに事が事なんでねー。いやあ、引き止めるの大変でしたよ。連隊長からアルティさんが病院に行ったって聞いて、はらはらしました。無事で本当によかったです」


 しみじみと頷くハンスに申し訳ない気持ちになる。


「明日、リリアナさんにはこちらから顔を見せますね……」


 心配してくれるのは嬉しいが、部下たちの苦労をこれ以上増やしてはいけない。頭を下げるアルティに、ハンスは「ありがたいですー」と心底嬉しそうに笑った。


「それじゃあ、僕はこれで。アルティさん、また飲みに行きましょうね」


 店の前で別れ、恐る恐る玄関のドアを開ける。気づいたらすっかり夕方だ。「遅すぎる!」と雷が落ちるかもしれない。


「戻ったか、アルティ」


 カウンターに座って新聞を読んでいたクリフが顔を上げた。予想に反して、目に怒りの色は見えない。


「遅くなってすみません。すぐに夕飯作りますね」

「いや、今日はいい。ワシが作った」

「え?」


 ここに来て七年。クリフに料理を作ってもらった覚えなど数えるほどしかない。目を点にするアルティに、クリフが拗ねたように唇を尖らせる。


「なんじゃ、嫌か?」

「い、いえ! ありがとうございます。嬉しいです」


 クリフが満足そうに笑う。


 師匠の不器用な愛情に、アルティは声を出して笑った。

クリフのご飯は切る、煮る、焼くの男料理です。

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