閑話 綿の体に宿るもの
やあ! よい子のみんな! 元気にしているかな?
我が名はマーガレット。月の女神セレネスさまに命を与えられたさすらいの女騎士さ。
熊のぬいぐるみと侮るなかれ。たとえ手足は短くとも、綿の体に宿る勇気は誰にも負けやしない。相棒の剣と共に、今日も世界を巡るんだ!
――と、いうのが絵本での設定だ。
実際の私はベッドのヘッドボードに座り、月が出るのを今か今かと待っている。予報だと晴れだったのに、人間たちの言うことはまったく当てにならない。
魔石ランプの穏やかな明かりに照らされた寝室の窓の外には、黒々とした空間が広がっている。さっきまで雨が降っていたからか、いつもはうるさいぐらいに鳴り響く虫の声も何一つ聞こえない。
腹立たしいほどに静かな夜だった。
今日は諦めるべきだろうか。
苦々しい気持ちで窓の外を睨んだとき、ようやく待ち焦がれていた月明かりが差し込んだ。途端に力がみなぎる感覚がして、その場にぴょこんと立ち上がる。
人間たちは知らないかもしれないが、月光には聖の魔素が多く含まれている。その上、今日は満月だ。魔素量もいつもの倍になる。
聖の魔素が満ちた寝室の中で、大きく肩をぐるぐると回す。
うーん、体が軽い。
アルティとかいう職人に作ってもらったティアラのおかげだろうか。
聖属性を帯びたセレネス鉱石は聖の魔素を効率的に吸収できる。この分だと、月明かりがなくとも自由に動ける日も近いかもしれない。
さて、ここで、もう一度自己紹介をしておこう。
私の名はマーガレット・マルグリテ。昔はエミィと呼ばれていた。我が主君エスメラルダさまの魔力によって命を得た熊のぬいぐるみさ。
魔法に明るい諸氏には魔生物と言った方がピンとくるかもしれないな。古いダンジョンに潜ると、一体や二体は勝手に動く不気味な人形がいるだろう? あれだ。
人間たちは魔法の産物だと思っているようだが、実は違う。長い間、強力な聖や魔の魔素に晒されていると、私のように意思を持ち、動ける個体が生まれる。
つまり、ヒトかモノの違いはあれど、デュラハンみたいに魔素を取り込んで発生した種族だと言えるな。
私の場合は、強い聖属性持ちの主君の魔力を吸収して生まれた。かれこれ……四年と少し前ぐらいだろうか。通常、命を宿すのに百年単位でかかることを考えると、エスメラルダさまの魔力がどれだけ規格外かわかるだろう。
月の女神セレネスさまは、いわば聖女のメタファーなのさ。
エスメラルダさまは私が意思を持って動けるとは知らない。今後も知らせようとは思わない。騎士というものは主君の影となってお守りするものだからな。
それに……もし怖がられでもしたら、とても立ち直れない。綿の体に勇気を宿しているのはあくまで設定であって、実際の私はとても繊細なんだ。
一、二回屈伸して、ヘッドボードからマットレスの上に飛び降りる。
柔らかい綿の体だ。革鎧を着ているとはいえ、音もなく着地できた。ふわふわの羽枕の上では、我が主君がすやすやと安らかな寝息を立てている。
なんと可愛らしい寝顔なんだろう。ナイトキャップの下に広がるのは闇だけでも、私にはわかる。己の属性を自覚してからというもの、エスメラルダさまは見違えるように明るくなり、健康になられた。
魔素欠乏症にかかったときは、体中の糸が全て切れるような心地がしたものだ。
もうあんな思いはしたくない。
肉球がついた手のひらで頬の闇をそっと撫でる。夜の闇に溶けゆく輪郭にほのかな温もりを感じて、ほっと息をつく。
初めて意思を持った日も、今日みたいに冴え渡った満月が昇っていた。
エスメラルダさまはまだ赤ん坊だったな。ベビーベッドの中で真っ白なおくるみに包まれ、小さな指で私の腕をぎゅっと握っていた。
幸せそうに微笑む家族たちに見守られ、煌々と差し込む月明かりの中で輝く一対の青白い目が、とても眩しく見えたっけ。私の主君はこんなにも愛らしいお方なのかと、とても感動したものだよ。
できることなら、ずっとこの寝顔を見つめていたい。
しかし、エスメラルダさまにとって、私はただのぬいぐるみ。いずれ心も体も大きく成長すれば、こうして過ごした日々のことも記憶から薄れていくだろう。
とりわけ最近は、私を抱きしめるよりも好いた男を見つめるのに夢中だから。
壁にかけられた写真に視線を移す。愛しい家族たちの中心には、主君に腕を引かれて眉を下げる赤茶色の髪の男が写っている。
見るたびに腹立たしくなるが、命の恩人だからな。エスメラルダさまが悲しむ姿は見たくないし、腰の剣で刺すのはやめておいてやろう。
それに、そろそろ仕事の時間だ。
マットレスから飛び降り、ドアに向かって絨毯を駆ける。こういうとき、風の魔法が使えれば便利なのだが、あいにく私の体には綿と聖の魔力しかない。
少女の部屋らしい真っ白なドアは、まるで聳える雪山のごとしだ。助走をつけてドア脇の棚の取っ手に飛びつき、上へ上へと登って行く。
このときばかりは軽い体に感謝しなければな。
何度か繰り返して棚の一番上によじ登ったあと、ドアノブ目掛けてジャンプする。
日頃の訓練の成果だろう。鍵のかかっていないドアは微かに甲高い音を立てて、ゆっくりと内側に開いた。
深夜の廊下は雪に閉ざされた大地みたいに冷え冷えとしている。
音を立てないように気をつけながら、月明かりを頼りに進むと、目的のものはすぐに見つかった。
月明かりも、ほのかに灯る魔石灯の明かりも届かない暗がりで、まるで黒い毛玉のような小さな塊――魔の魔素の集合体が蠢いている。こいつらは基本的にどこにでも湧く雑魚どもだが、放っておくと家人の精神に悪影響をもたらすことがある。
塔の聖女が張った結界と、エスメラルダさまの魔力に守られているとはいえ、古い家には魔の魔素が溜まりやすい。
だから満月の夜が訪れるたび、こうして駆除して回っているのだ。
セレネス鉱石から作られた剣を掲げ、深く腰を落とす。それを見た途端、毛玉たちがきいきいと騒ぎ出した。魔素の厄介なところは、集合体になると意思を持ち始めるところだ。これは滅多に見られない特性なので、人間たちもまだ気づいていないだろう。
口々に耳障りな鳴き声を上げ、毛玉たちが一斉に飛びかかってくる。しかし、私は女騎士マーガレット。こんな雑魚どもなど敵ではない!
一瞬で蹴散らし、聖属性の力で片っ端から浄化する。セレネス鉱石製の剣で切られた毛玉どもは、断末魔の声をあげる間も無く、闇の中に消えていった。
ふふ、たわいもない。
己の戦果に満足して剣を鞘に収めたとき、ふと気配を感じて背後を振り返った。
一瞬にして、全身をぶわっと恐怖が走る。
廊下の先にいたのは、深夜だというのに真っ赤な鎧兜に身を包んだデュラハン――エスメラルダさまの叔父、ラドクリフ・マルグリテどのだった。今日は士官学校で当直だと言っていたのに、どうしてここにいるのだろうか。
咄嗟にころんと床に転がったものの、胸のどきどきが止まらない。心臓がないくせにとか言わないでくれ。もし私が動けるぬいぐるみだと知られたら、もう主君のそばにはいられないかもしれないじゃないか!
お願い、早く、早く行って。
月の女神セレネスさまに祈る。しかし、ラドクリフどのは無常にもこちらに近づくと、黙って私の体を見下ろした。
ああ、もう駄目だ。
覚悟を決めたとき、ふわりと体が浮き上がる感覚がして、思わずぎょっとした。すらりと伸びた逞しい両腕で優しく抱き抱えられている。はたから見れば、立派な成人男性がぬいぐるみを抱えて歩いている絵面だ。自宅とはいえ、どう考えてもやばい。
死んだふりも忘れてじたばたすると、「こら、暴れないの」と嗜められた。次いで「逃げたらエミィにちくるよ」と言われれば黙って従わざるを得ない。
「君の定位置はここでしょ。主人のそばを離れるなんて感心しないね」
そう言って、ラドクリフどのは私をエスメラルダさまの真横に寝かせた。
「エミィをよろしくね。可愛い女騎士さま」
主君とは違う大きくて暖かな感触に胸がどきりと高鳴った。この世に生を受けて四年と少し。男に頭を撫でられたのは初めてだ。
咄嗟に首を伸ばそうとしたが、見えたのは広い背中だけ。しかし、それもすぐにドアの向こうに消えていってしまった。
残った体温を振り払うように頭を横に振る。私は誇り高き女騎士。大事な主君を命をかけてお守りするのが私の仕事だ。寂しいなどと一瞬でも思ってはいけない。
けれど、恋をするならあんな男がいい。
綿しかないと思っていた体の中に、何かが宿った気がした。
ぬいぐるみにモテる男、ラドクリフです。
魔力には取り込んだ魔素が含まれていますので、強い魔力に晒されても魔生物は生まれます。その場合は魔力の持ち主の個性や嗜好が反映されますので、マーガレットは勇ましい女騎士なのです。




