74.月夜に笑う
リーゼロッテたちがラスタベルトの自宅に帰りついた頃、夕日が空を染めていた。
「今日は充実した一日だったわね!
明日からやる事がたくさんできて腕がなるわ!」
アロイスが苦笑してリーゼロッテに告げる。
「あんたは働き過ぎないように注意しときな。
子供たちにまた叱られちまうよ?」
ガートナーやゲルドシュタート侯爵、ヴェーゼブル伯爵とも別れ、リーゼロッテたちは家の中に入っていった。
「ヴィクターがこの時間に帰宅するだなんて、珍しいわね?」
「今日の仕事は既に部下に任せてあります。
私は部屋で今日の事を書類にまとめておきますよ」
――ヴィクターも書類仕事を忘れないわよね。
リーゼロッテが半ば呆れていた。
話声を聞きつけて、ラフィーネとイェルクが部屋から顔を出してきた。
「ただいま二人とも!」
「おかえりリズ!」
リーゼロッテはそのままリビングに向かい、夕食の時間までのんびり過ごしていた。
****
子供たちやラフィーネたちの愛を受け取り終わり、リーゼロッテはリビングでぼんやりと窓の外を見ていた。
空には満月がぽっかりと浮かんでいた。
リーゼロッテは『ただなんとなく』ミネルヴァを呼び、夜空を駆けて王宮に向かった。
ミネルヴァが降り立ったのは、昨日と違う部屋のテラスだ。
そこには何故か、ヴィルケ王の姿があった。
「……なんで居るのよ」
『なんとなく』寝顔を見に来ていた。
まさか、起きているとは思わなかったのだ。
驚いているリーゼロッテに、ヴィルケ王が微笑んで応える。
「それはこちらのセリフですよ。
突然やってこられて、驚いているのは私の方です――
ふと目が覚めて、月を眺めていました」
リーゼロッテが背後を振り返る――満月の光がリーゼロッテたちに降り注いでいる。
「なんだか、あの日を思い出す満月ね」
月の神が、リーゼロッテに会いに来た夜。
あの日もこんな満月だった。
二人きりで、焚き火の傍で話をしたあの晩だ。
「今夜もまた、ふらりと月の神が現れるかもしれませんね」
リーゼロッテは『あの日』としか告げていない。
なのにヴィルケ王は同じ日の事を思っていた。
そのことで、リーゼロッテは嬉しさで胸が弾んだ。
ヴィルケ王に笑顔で振り返って宣言する。
「そうしたら今度は拳で殴ってやるわ」
ぐっと拳を握ったリーゼロッテを、ヴィルケ王は微笑んで見つめていた。
「確か、彼女は『影だ』と言いませんでしたか?
影は恐らく殴れませんよ?」
――月光の中、私は烈しく熱い想いを全身に浴びていた。
ただ心地よかった。
リーゼロッテは感じたことがないほどの充実感を得ていた。
その心地よさの中で、リーゼロッテは月の神の気配を手繰り寄せ、彼女に語りかける。
(あなたは『私の愛の渇望は死ぬまで満たされることがない』と言った。
では、この胸を満たす想いは何なのかしら。
これは愛ではないという事なの?)
『それを他者に聞いてしまうの?
それはとっても退屈な結果を生むわよ?』
ラフィーネが『自分で気付かなければ意味がない』とリーゼロッテに告げた事を思い出した。
それはもしかして、月の神が言ったのと同じ事なのだろうか、と考えていた。
(もし愛だとしたら、この満たされた私は何なのかしら。
今の私は渇望を感じていないわ。
あなたは嘘を告げたの?)
『神は嘘を告げないわ。
あの時点で、あなたに愛の渇望を満たす未来は存在しなかったもの』
(その言い方……
今はそんな未来が存在しているとでも言うの?)
『さあ、どうかしら?
それを教えるのは、あなたが魔王を倒した後のご褒美だもの。
今教える訳にはいかないの』
(……言い直すわね。
あの時点で存在しなかった未来が、新たに生まれる事はあるの?)
『ないとは言わないわ。
それ以上は教えてあげない』
本当に意地の悪い神だ。
リーゼロッテはそっと月の神の気配を手放した。
「月の神と話をしていたんですか?」
ヴィルケ王の言葉にリーゼロッテが驚いた。
その目をじっと見つめている。
「何故……わかったのかしら」
「なんとなく、そんな気がしたので」
静かな夜、心地よい熱気に包まれたリーゼロッテは、フードを下ろしたい衝動を感じていた。
――確かめてみたい。
だが、この渇望を満たしてくれる熱気を失う恐怖に打ち克てない。
気が付くと、両手はフードにかかっていた。
震える手は、それ以上言う事を聞いてくれなかった。
リーゼロッテにはフードを下げる事も、手を離す事もできずに固まっていた。
ヴィルケ王が微笑みながら言葉を告げる。
「無理をする必要はありませんよ。
私はまだ待てます。
あなたが納得してフードを下ろせる日を、ずっと待ちます」
リーゼロッテは自分の意気地の無さに落胆した。
『ここまで来て決心が付かないのか』と。
でもきっと、この熱気を失ってしまったら、自分は魔王を滅ぼす決意などできないとも思った。
数秒ほど、間が空いた。
次の瞬間ミネルヴァは、リーゼロッテを乗せて王都郊外の空へ向かい、流星となって流れていった。
リーゼロッテが一人になって、空の上でフードを下ろした。
――何故、こんな簡単な事が、あの人の前ではできなくなるのだろう。
久々にフードを下ろした解放感で、しばらく身体を夜風にさらしていた。
見上げた夜空に浮かぶ満月に、リーゼロッテが突然、魔力の矢を放っていた。
満月の中に、リーゼロッテを嘲笑う月の神の顔が見えていた。
リーゼロッテも、思わず笑っていた。
『何と滑稽な生き物だろう』とただ笑った。
心の底から求めていた愛を全身に浴び、ほとんど確信に近い、その心に湧く想いを感じてさえ、リーゼロッテはフードを下ろす勇気を持てずに逃げ出した。
渇望しているものを目前にして、リーゼロッテは逃亡したのだ。
挙句の果てに、神に向かって無意味な八つ当たり。
あの場面でフードを下ろせなかった事に、神は一切関係がない。
この呪いのような祝福が神の与えたものだったとしても、あの時のリーゼロッテは、ただ恐れただけだ
自分に向けられる愛を失いたくないという思いに縛られた――それだけだと理解していた。
愛を失う恐怖に打ち克てない、心の弱い自分が居ただけだった。
ひとしきり笑った後、リーゼロッテはフードを被り直し、自宅へと戻っていった。
****
翌朝、リーゼロッテは朝食の後にユーディトの様子を見に行った。
愛おしそうにお腹を撫で、胎児に声をかけるユーディトの姿を目に焼き付けるように見つめていた。
「どうしたの? リズ。
悩みがあるなら聞くわよ?」
慈愛に満ちた眼差しがリーゼロッテに目を移した。
その瞳は、今も変わらず強い意志が灯っている。
必ずこの子供を無事に生んで見せるという強い決意が、そこにはあった。
「……なんでもないの。
私にも、あなたのような強さがあればと思っただけよ」
ユーディトはクスリと笑った。
「変な事を言うのね。
あなたは既に持っているわよ?
ただ、自分で気が付いていないだけ」
――私にも、ユーディトのような強さがあるのかな。
リーゼロッテ自身には実感が湧かず、判断が付かなかった。
ユーディトの手がリーゼロッテの右手を掴み、そのお腹の上に乗せた。
「あなたの子供よ?
あなたが愛しいと思う、私たちの子。
その想いは決して私と変わりはしないはず。
ならば同じ強さを、あなたは必ず持っているわ」
リーゼロッテは手のひらに伝わる温かさ、この向こう側に息づく新しい命を見つめた。
この子を守りたいと強く願っている――そんな自分には気が付く事が出来た。
リーゼロッテの瞳には、この子を必ず守って見せるという強い決意が灯っていた。
「……ほらね?
今のあなたは、きっと私と同じ目をしているわよ?
とても強い意志を湛えた瞳。
その瞳を、この子は受け継いでいる。
そう思うと私は、さらに愛しさを感じずにはいられないわ」
「ユーディトは妊娠している間、一度も『愛を捧げさせて欲しい』と言わないわよね。
平気なの?」
「だって、あなたに愛を捧げたくなったら、その分だけこの子に愛を注げばいいだけだもの。
この子を愛することは、あなたを愛する事よ」
「……この子供に術式を施したことを、後悔はしていない?
あの時と今では、状況がすっかり変わってしまった。
もう急いで子供を成育する必要なんてないのよ?
ゆっくりと時間をかけて育てる余地が生まれつつあるわ」
「王都の子供が著しく少ないのは確かだもの。
その子供たちが増えなければ、次を担う世代も多くは生まれない。
他の集落は、今のままでは衰退を免れない。
何十年かすれば、統廃合が行われるわ。
そうしてラスタベルトの国民が減っていくの。
でもこの子たちは、それを支えることが出来る子たちよ?」
どこの集落も、子供の数が少ないのは間違いがなかった。
今の既婚者たちが、二人以上子供を産むのが当たり前――そんな時代にでもならなければ、国民は減っていく。
でもきっとそんな時代はまだ来ない。
少なくとも、魔王が君臨する限りやっては来ないだろう。
人口が減り、国力が落ちる逆境を乗り越える為の世代。
それがリーゼロッテの子供たちだった。
でもそれは、時代の犠牲者。
とても悲しい存在だ。
リーゼロッテの落ち込む顔を見たユーディトが告げる。
「大丈夫よ。
この子は私が愛し愛された記憶、全てを引き継いでほしいと願った子。
私が持つ愛の記憶全てを受け継ぐの。
だから心配する必要はないわよ?」
「ユーディト、それって……」
リーゼロッテに心囚われた記憶も受け継ぐ事になりはしないのか。
この子は、生まれながらにリーゼロッテの魔性に堕ちた子として生を受ける可能性があった。
「どうなるかは、この子が教えてくれる。
その生まれを呪うのか、喜ぶのか、その姿を見て判断してあげて。
私は何一つ後悔しないと確信しているけれどね」
「でもそれじゃあ、私以外を愛せないのよ?!」
「そうなるのかどうかも含めて、この子はラスタベルトの未来を占う子になるわ。
この国がどんな姿になるかを教えてくれる子になる。
でも決して不幸な存在ではないはずよ?」
「でも!」
「私はあなたを愛したことも、慈しまれた事も後悔していないわよ?
答え合わせは三年後――
この子が大人になった時に教えてくれるわ」
生まれ落ちたときに背負わされた運命を呪い続けているリーゼロッテに、その判断は付かなかった。
こんな運命など、背負わずに済むなら背負いたくなど無かった。
リーゼロッテは、我が子に同じ目にあわせてしまっていないかと苦悩した。
ユーディトがリーゼロッテの手を強く握った。
「あなたが心配するような事には決してならないと、私は確信してるわよ?
生まれてきた子の姿を見れば、きっとあなたも理解できるわ」
****
リーゼロッテが自宅に帰り、リビングのソファに腰を下ろした。
自分には判断が付かなかった。
でも一か月もしないうちに、あの子が生まれ、最初の結果が出る。
思い悩んでいると、玄関の扉が叩かれた。
外には魔族が五十人弱。
おそらくヴェーゼブル伯爵だ。
――心を乱されている場合じゃない、私には今、やるべきことが目の前にある!
リーゼロッテは両手で自分の頬を叩いて気合を入れ、玄関に向かっていった。
複数回に渡りミネルヴァでヴェーゼブル伯爵一派をリーベルト公爵の元へ運んだ。
「じゃあヴェーゼブル伯爵、リーベルト公爵を、この大陸北部を任せるわよ!」
「はい、畏まりました。
必ずやご期待に沿ってご覧に入れましょう」
リーゼロッテはヴェーゼブル伯爵に手を振り、ミネルヴァに乗りこんでヴェローナへ向かった。
****
ヴェローナの王都で国王に会い、リーゼロッテは北部への食材輸出を検閲で止めて欲しいと告げた。
「食糧供給が安定するまでの間で構わないの。
一年から二年。
多分そのくらいの期間、国が運ぶ物資以外を北部に送らないように差し止めておいて欲しいのよ」
ヴェローナ国王が微笑んで頷いた。
「お安い御用です。
各港に兵士を置き、積み荷を検めて行きましょう」
「それと北部へ物資を輸送する大型の船舶はあるかしら?」
ヴェローナ国王がニヤリと笑った。
「すでに準備中です。
半年以内には間に合わせましょう。
既存の船を修理した物ですが、ヴァレンとの往復ぐらいなら充分耐えられます」
さすが海の国の王、海路で物資を輸送することは想定済みのようだ。
「ヴェローナから北部へ輸出できる食材ってあるのかしら?」
「南部の海でしか獲れない海産物の加工品ですね。
ですが現在も引き続き、ラスタベルトの需要を埋めるほどの供給ができてるとは言い難い。
海産物の供給量も漁師の数に依存します。
労働人口が衰えた今のヴェローナでは、北部の配給へ回せばラスタベルトへの供給を減らさざるを得ません。
必然的に、海産物が値上がりしますよ?」
――ここでもかー!
どこもかしこも、労働人口不足で悩んでいるようだ。
庶民の生活を犠牲に北部へ手を差し伸べるか否か。
リーゼロッテが悩んでいると、ヴェローナ国王が笑って言葉を告げた。
「価値の高い物の値段が上がる――当然の事です。
後は商人たちに任せるしかないでしょう。
国家はそれが目に余る時に手を差し伸べる。
そうでなければ、利益を享受できる機会を得られた者と、国家にそれを奪われた者が出てくる。
産業に格差が生まれるのは必然です。
ですがそれが人為的だと、民衆から要らぬ恨みを買います。
困窮期ならともかく、今はそれも脱しました。
ある程度は目を瞑った方が健全というものです」
目が利く人が利益を得て、鈍い人がそれを逃す。
個体の資質と努力が結果に結びつく社会の仕組み。
ヴェローナ王国はそういう国のようだ。
ラスタベルト王国は大穀倉地帯を抱えているからか、公益を重んじる傾向がある。
これも、国家の個性だろう。
「じゃあ、海路の防衛力はどうなってるのかしら。
海賊を忘れるなという忠告をもらったんだけど」
「そちらも哨戒艇を既に運用していますよ。
放置すると漁船が狙われますからね」
――頼もしい! さすがは海の国の王!
「じゃあヴェローナ周辺は心配いらないわね!
――ヴァレン周辺はどうなるかしら?」
「ロシュトック王国には、まだその余裕がないでしょう。
あそこが立ち直るまでは、ヴェローナから哨戒艇を派遣するしかないでしょうね。
船は足りますが、人が足りません。
カリアンの戦士たちは、ほとんどがラスタベルトに行っていますし、戦える人間が欲しい所ではあります」
「……北部は精強な兵士や騎士が多いらしいけど、それについてはどう思う?」
「傭兵として雇って哨戒艇に乗せる、というのは有りでしょうな。
北部で募集をかけてみてください。
ヴァレンが回復しているなら、そろそろ海賊が出始める頃のはずです」
ラスタベルトの治安は、魔族が裏社会で暗躍するようになって劇的に改善を始めていた。
もう野盗らしい野盗はほとんど報告がない。
ラスタベルトに来ているカリアン人を哨戒艇に乗せるは可能だろう。
北部の人材も活用しつつ、哨戒艇を拡大していくことになりそうだ。
カリアン人は本来、冶金と鍛冶の民。
いつかは北部の人材と完全に入れ替えることになるだろう。
「わかったわ、それは検討してみるわね!」
****
リーゼロッテは港町ヴァレンを抱えるロシュトック王国の王宮を訪ねた。
未だ魔族に支配される国、リーベルト公爵の統治とはいえ、人間たちには魔族に対する怯えがある。
謁見の間に行くと、玉座には人間が座っていた。
彼が国王だろう。
「何用ですかな?
魔族の方とお伺いしましたが」
「私はお父様――魔王から、大陸全体の統括管理を任されているリズよ。
まずは今後の事をかいつまんで説明するわね」
リーゼロッテは遮音結界の術式を自分と国王の周囲に張った。
今後、リーゼロッテが人間社会の復興を目指している事。
じきに魔族は表社会から姿を消す予定である事。
半年後を目安に、港町ヴァレンにラスタベルトからの支援が届き始める見込み。
その辺りを伝えた。
ロシュトック国王は目を見開いて驚いていた。
「……信じ難い話ですね。
それは本当の事なのですか?」
「ヴァレンの海が回復したのは聞いてる?
今後、少しずつ回復する港を増やしていくつもりよ」
リーゼロッテは『でも物資はヴァレンに輸送するわ』とも告げた。
「ヴァレンの執政官から報告と陳情が届いています。
海賊対策の人材を用意して欲しいと」
「人材だけ?
船はあるの?」
「ええ、空いている漁船を使いますから。
今は漁師たちがそうやって自衛しています」
――なるほど……海の男たちは逞しいわね。
「ヴェローナの国王から、哨戒艇を派遣する事が可能らしいんだけど、戦闘員が足りないそうなの。
その事はどう思う?」
「国内の人材だけでは回らないかもしれません。
どこかのタイミングで周辺国家からも人材を募る必要があるでしょう」
概ね、リーゼロッテの想定通りだろう。
「事情は分かったわ。
国内外で戦闘要員の募集をしておいて。
お願いね」




