58.不意を衝く一撃
――魔王城、粛清部隊執務室。
今日もアーグンスト公爵の仮面を被った魔王が、怒りを押し込めながら書類仕事を進めていた。
魔族の報告など、信用に値しない――それをこの数か月で、思い知らされていた。
遠隔術式による視察でも不十分だった。
距離がある分、どうしても精度が落ちる。
違和感を不審に思い、現地に直に赴けば、報告と著しく違う惨憺たる有様だった。
あと百年は生き延びると思われた各地方の人間たちも、半世紀ほどで息絶えかねない。
そんな状況だった。
やはり直接、この目で見る必要があると痛感したのだ。
魔王は計画を大きく変更し、改めて残った四魔公に指示を出した。
配下の魔族、二割の口減らしをしろという指示だ。
これで少しは絶滅を先延ばしにできるはずだが、これ以上は間引く事が難しい。
残った人間を支配し続けるには数の力が必要だ。
これ以上減らせば人間の反抗を許してしまう。
人間が減るにしたがって、更に段階的な口減らしも行う必要性も検討しなければならない。
それほどの危惧を魔王は抱き、焦っていた。
半世紀以内に増産と出荷の計画が成功しなければ、人間が滅び、次いで魔族も滅ぶ。
さらに懸念事項が増えた。
今回の指示で確実に四魔公に不信を与えた。
彼らの造反の可能性が上がったのだ。
彼らへの警戒が必要だった。
「宰相、何の用件か」
ウェレアムレイト公爵が執務室に姿を見せた。
同格の公爵同士、力の強さはウェレアムレイト公爵の方が上――建前ではそうなっている。
「陛下から御指名だ。
ウェレアムレイト公爵、貴公が次の四魔公となる。
貴公の務めはこの魔王城の防衛、つまり陛下の近衛だ」
ウェレアムレイト公爵がわずかに考え、言葉を告げる。
「栄誉な事だが……
それほど造反の目がある、という事か」
ウェレアムレイト公爵は頭が回る魔族の個体だ。
たった一言でここまで理解するのは、頭が切れすぎると言って良い。
少々危険な個体だが、同時に頼もしくもある。
この個体を出し抜ける魔族は多くはない。
「そこまでわかっているなら話は早い。
貴公は他の四魔公が魔王城を占拠せぬよう、守り切れ。
それが陛下の命だ」
再びウェレアムレイト公爵がわずかに考え、応える。
「――で、あれば。
ヴェーゼブル伯爵一派に更なる階級を与えてはもらえぬか、陛下に進言してくれ。
彼女たちは実に優秀だ。
私の命令を正しく理解し、遂行する能力もある。
四魔公の副官として立派に務めてくれるはずだ」
アーグンスト公爵が怪訝な視線をウェレアムレイト公爵に向けた。
「構わぬのか?
既存の副官が不服に思うだろうに」
「彼も納得した上で話を持ってきている。
彼女たちは信頼を実績で証明してみせたのだ」
この数か月、ウェレアムレイト公爵には粛清部隊として動いてもらっていた。
彼の配下でも弱小な伯爵級――そんな彼女が、粛清部隊として立派に働いてみせたという事らしい。
実際、今までリーゼロッテに任せていた任務全てを回していたが、彼らが仕損じたことはなかった。
決して容易なものばかりではない。
『返り討ちに遭っても構わない』と送り出したら、欠員一人出さずに生還された事も少なくない。
どうやら彼らの窮地を、ヴェーゼブル伯爵一派が何度も救って見せたということらしい。
査定してみたが、魔族としては珍しい、信頼と結束で結果を残す集団だ。
リーゼロッテが言い残したように、彼女は「部下が一人でも処分されるなら、自分たち全員を処分して欲しい。それを惜しいと思うならば、全員の命を保証して欲しい」とさえ言ってきた。
その言葉に期待をかけたが、その期待に見事に応えてみせたのだ。
「……いいだろう。
陛下に進言しておこう。
近いうちに貴公らに力が分け与えられる――
陛下がお認めになればな」
「話はそれだけか?」
「そうだ。
貴公らは今日付で粛清部隊から近衛に転属だ。
新設部隊となる。
規律は貴公の好きなように決めろ」
ウェレアムレイト公爵は頷いた後、身を翻して執務室を出ていった。
今まで、近衛など不要と用意していなかったが、四魔公に不信が高まった今、保険を打っておきたかった。
残った三名同時――つまり、魔王軍そのものに反抗されるのは、負けはしないが人間の反抗を許してしまう。
せっかく敷いた人間への支配体制の崩壊だ。
少なくとも魔王城にも軍が居るという事を、知らしめておく必要があった。
粛清部隊として実績を重ねた現在のウェレアムレイト公爵の一派が近衛として居るならば、魔王城へ容易に攻めてくる事はない。
これでも攻めてくるほど、愚かではないと思いたいところだ。
だがダグムロイト公爵という前例があった。
娘が呆れるほどの無能振りだったと聞いた。
その後の娘の軌道修正で大陸南西部は立て直し始めたようだが、増産と出荷計画を大きく変更せねばならないはずだ。
――いや、娘の報告。それすらも疑っておくべきかもしれない。
嘘をつけぬ個体だが、嘘を告げずとも真実を告げぬ方法などいくらでもある。
現時点で下見ぐらいはしておいてもよいだろう。
味見は無理でも、娘の報告との剥離の有無は確認できる。
当然、遠隔術式では心許ない。
自ら赴く必要があるだろう。
……戦力を連れて行くか否か。
娘には反抗心が見られない上に、力はこちらが上。負ける事はない。
それに、あれは以前『戦力を連れてくるな』と嫌がっていた。
ここで娘にまで反感を覚えさせるのは、この状況では巧くないだろう。
ヴィクターは忠実な犬。逆らう事はない。
魔族の掃討は終わっている。
人間どもは話にもならない。
つまり、脅威となり得る存在はなく、多数に囲まれる状況にもならない。
ならば自分が単身で動く方が早く動けるし、周囲にも気取られにくい。
その方が都合が良いだろう。
極力短時間で視察を済ませ、すぐに戻って来るとしよう。
アーグンスト公爵はペンを置き、席から立ち上がった。
****
朝の食卓。いつものように、子供たちの笑顔を見守りながら微笑み、紅茶の香りを鼻に届ける。
――いつの間にか、紅茶の香りを心地良いと感じられるようになってきていた。
その香りに、子供たちの幸福な笑顔の記憶が思い起こされるからだろう。
これはこれで、悪い気はしなかった。
リーゼロッテがそんな感慨に浸っていると、肩にとまっているミネルヴァが落ち着きなく周囲を見回し始めた。
すぐにある方向を見つめ、動きを止めた。
彼女から伝わってくるのは――緊張感。
こんな様子のミネルヴァを、かつて一度だけ見た事がある。
肩に乗せたまま魔王城謁見の間に行き、魔王と会った時だ。
魔王の瘴気に、ミネルヴァは興奮し、落ち着きがなくなった。
ミネルヴァが他の魔族に対して、こうした反応することはなかった。
リーゼロッテではわからないわずかな違い、それを感じ取って居るのかもしれない。
リーゼロッテは席から立ち上がり、「ちょっと用事を思い出したわ」と家屋を出た。
自宅前で小さく呟く。
「ヴィクター、お父様が来るわ。多分王宮よ」
そのままミネルヴァに乗り、王宮へ急いだ。
****
リーゼロッテは王宮の中庭で、ミネルヴァと共に魔王城の方角を見つめる。
空の遠くに黒点が見え、瞬く間に近づいてくる。
リーゼロッテの背後にヴィクターが控える頃、中庭の上空に黒い飛竜が姿を現した。
そのまま中庭で待っていると、リーゼロッテの目の前にアーグンスト公爵を乗せた飛竜が降りてきた。
その場で幻影の有無を調査していく。
――実体?!
用心深い魔王が、単身でここに来る事に驚いていた。
――想定外だ。何があったの?
無防備な魔王という、命を狙うには絶好の機会だ。
だというのに、こちらは何も準備ができていない。
慌てて動いても、仕損じたら全てが終わる。
こちらの意図を気取られる事もできない。
今回は動きたくても動けない。
内心で混乱しながらも、絶好の機会を逃すことに悔しがっていた。
アーグンスト公爵が優しい微笑みでリーゼロッテを見る。
「殿下、お元気でしたか?」
「いきなりどうしたの?
慌てなくても、もうじき私が魔王城に報告に行く時期よ?
何か緊急事態でもあったの?」
「いいえ、ただの抜き打ちの視察ですよ。
他の地方は終えたのですが、大陸南西部はまだ行っていないと気付きまして」
「宰相、まさかお父様の娘である私の目や言葉すら疑うと、そういう事かしら?」
アーグンスト公爵は優しくも酷薄な微笑みを崩さない。
――この笑顔、矛盾の塊である私の父親らしいな、と思ってしまう。
「殿下のみ特別待遇では、他の四魔公の不興を買います。
きちんと公正に視察を行うべきでしょう」
リーゼロッテは小さくため息をついた。
「あなたの言い分は理解したわ。
確かに、地方の執政官の仕事振りに身分は関係ないものね――
それで? これからどうするつもり?
「まずはラスタベルト王国、続いてヴェローナ王国、最後にカリアン王国を視察して魔王城に戻ろうかと思います」
リーゼロッテは落ち着きがなく、緊張しているミネルヴァを撫でて宥めながら頷いた。
「わかったわ。
ではまず、ラスタベルト王国の国王に会わせるわね」
その場の衛兵の一人に、ヴィルケ王へ軍議室に来るよう伝える。
別の衛兵には中庭に残された黒い飛竜に近づかないよう注意をした。
これは魔竜。
魔王の瘴気に汚染された飛竜だ。
「誰か、軍議室に案内して頂戴!」
****
軍議室で適当な席にリーゼロッテが腰を下ろすと、アーグンスト公爵が横の席に座った。
ヴィクターはリーゼロッテの背後で控え、佇んでいる。
扉は締め切られ、中に他の人間は居ない。
アーグンスト公爵が不思議そうな顔で尋ねる。
「殿下が王宮に住んでいないとは伺っていますが、何故軍議室なのですか?」
「国王が来る前に聞いておきたいことがあるのよ。
ヴェーゼブル伯爵やウェレアムレイト公爵はどうしてるのかしら」
「ああ、その事ですか――
ウェレアムレイト公爵は新しい四魔公に決まりました。
ヴェーゼブル伯爵は彼の副官となり、共に魔王城の防衛に務めています」
――大方が予想通り、だけど魔王城の防衛? この二十年間でそんな動きを見せたのは初めてだ。
「何があったの?
魔王城が攻められる可能性があるという事よね?」
「さて、それは私には何ともわかりかねます。
陛下に直接伺っては?」
――この場では言う気がない……ではないわね。私に伝える気がないのね。
ならば謁見の間で問い質しても、まともな答えは望めないだろう。
リーゼロッテが小さくため息をついて応える。
「用心深いお父様だもの。
懸念に対して先に手を打っただけかもしれない。
私も忙しいし、今は別に構わないわ。
次に魔王城に行った時に、ついでに聞くわよ――
ヴェーゼブル伯爵の部下も無事なの?」
「ええそれはもちろん。
彼女は徒党で効果を発揮する、殿下の仰る通りの個体、いえ群体ですね。
一人残らず組み込まれました」
「そう、ならいいわ。
彼女に告げた言葉が嘘にならなくて良かった」
保証こそしなかったけれど、彼女が部下と共に生き残る道を提示した。
その道が偽りの道でなかったことに、リーゼロッテは安堵した。
扉が叩かれ、ヴィルケ王が姿を現した。
背後には近衛騎士五名。フィリニスへ随行していた五人だ。
王宮内でリーゼロッテと会うにしては厳重な警護だ。
ヴィルケ王がリーゼロッテに微笑んだ。
「おはようございますリズ殿下。
それで、こちらの方は?」
「うちの宰相よ。
魔族だから迂闊に近寄ったらだめよ?
少し彼の話にでも付き合ってあげて頂戴」
ヴィルケ王が上座に腰を下ろした。
近衛騎士たちは緊張した面持ちを崩さない。
アーグンスト公爵が優しい微笑みで言葉を告げる。
「なるほど、彼が報告にあった若き王ですか。
強烈に不快な臭気が漂っている。
彼らとの関係が良好であると言うのは本当の様ですね――
だが、何故人間が椅子になど座っているのか、実に理解に苦しむ」
じわりとアーグンスト公爵から瘴気が漂い始めた。
「まちなさい宰相!
人間の傍で瘴気を出さないで頂戴!
彼は後々必要な存在なのよ!」
アーグンスト公爵の優しく酷薄な微笑みが彼に向けられている。
「ではその人間に命じてください。
己の取るべき態度を取れ、と」
――ああもう! こんなところで魔族の残虐性を出さないで欲しいわね!
「ヴィルケ王!
彼の前で跪いて!
私では瘴気を防ぐ防御結界は張れないのよ!」
この場でリーゼロッテが防御結界魔法を使う訳にはいかない。
今、魔王にリーゼロッテが魔法を使えることを知られてはならない。
ヴィルケ王は静かな表情でアーグンスト公爵の元へ近付き、その足元へ跪いた。
その背後へ、近衛騎士たちが続いて跪いていく。
六人の人間が跪いたところで、ようやくアーグンスト公爵が瘴気を引っ込めた。
「――そう、それでいい。
人間が魔族と対等である等と自惚れるな。
人間とは虐げられる家畜だ」
そう言いながら、靴先でヴィルケ王の王冠を蹴飛ばし、靴底で頭を踏みにじった。
ヴィルケ王から嫌悪と憎悪、屈辱の悪臭が漂ってくる。
アーグンスト公爵は満足そうに頷いた。
「素晴らしい。
悪臭から甘い芳香に代わっていく。
この落差、これこそが我々の求める成果。
殿下が育て、我らが搾り取る。
未来の姿、その先触れだ」
アーグンスト公爵の靴がヴィルケ王の頭を踏みにじるたびに、強くなる悪臭。
背後に控える近衛騎士たちからも、悪臭が臭いたち軍議室に立ち込める。
リーゼロッテが思わず顔をしかめて叫んだ。
「宰相!
私がその悪臭が嫌いだと知っての狼藉なのかしら?!
返答如何ではこの場で粛清するわよ?!」
アーグンスト公爵が肩をすくめた。
「おお、恐ろしい。
殿下に睨まれては、足を引っ込めざるを得ません」
ようやくアーグンスト公爵の足が降ろされた。
そうして立ち上がった公爵が軍議室の外に向かう。
「ご報告通り、殿下の采配は見事なもの。
王宮中に立ち込める悪臭が、その証でしょう――
少し街を見て回ってもよろしいですか?」
リーゼロッテはアーグンスト公爵を殺気を込めて睨み付け、大きく声を上げる。
「今のような狼藉を働く者を、私の統治する街に侵入させる気はないわ!
宰相、それが例えあなたであろうとね!」
アーグンスト公爵がリーゼロッテの顔を見つめ、優しく酷薄な微笑みを浮かべた。
「……いいでしょう。
ここは殿下が望む愛と平和で潤う世界になされば宜しい、そう申し上げたのも私。
では次は――」
「ヴェローナ王国も!
カリアン王国も!
私が統治する国よ!
今の狼藉を謝罪できないのであれば、魔王城に戻りなさい!」
リーゼロッテの本気の殺気を込めた眼差しを、アーグンスト公爵は微笑みで受け止め続けた。
そうしてニヤリと口角を上げて嗤った。
「素晴らしい。
それでこそ殿下です。
その反吐が出る慈愛こそ、全ての人間を堕落させずに居られない汚泥、その根源。
殿下は是非そのまま、家畜共に懐かれながら増産し続けてください。
視察はこれでもう充分。
私は魔王城に戻る事に致します。
その実った果実、収穫の日を楽しみにしていますよ」
軍議室の扉を開け、アーグンスト公爵が外に出た。
「ヴィクター、ヴィルケ王についていて!」
リーゼロッテが慌てて公爵の後を追う――居ない?!
そのまま中庭に走っていくと、黒い飛竜に乗ったアーグンスト公爵が空に浮き上がり、魔王城に向かって空を駆けていった。
リーゼロッテはそのまま、黒い飛竜が点となるまでその姿を見据えていた。
****
リーゼロッテが去った軍議室。
ヴィルケ王は近衛騎士から王冠を受け取り立ち上がった。
ヴィクターが浄化術式でヴィルケ王の頭を綺麗にしていく。
屈辱感で震える声で、ヴィルケ王が言葉を告げる。
「あれが宰相、我々が倒すべき敵か。
たった半年前の事だと言うのに、魔族の恐ろしさを忘れていた自分の愚かしさが憎いな」
ヴィクターが淡々と応える。
「宰相は理知的で暴力を好まない魔族だ。
あの姿で居る限り、人間を虐げたりなどしないさ」
その言葉に、ヴィクター以外の全員が戦慄した。
ヴィルケ王が代表して全員の気持ちを告げる。
「まさか、今のは虐げていないとでも言うのか?
尊厳を文字通り踏みにじり、嬲る行為を、暴力ではないと言うのか?」
「まさか貴様、あの程度で絶望を覚えたのか?
そうではあるまい?
奴ら普遍的な魔族の好みは絶望だ。
殿下が愛を好むのと同様に絶望を好む。
あんなもの、虐げた内に入らん。
本気であれば命を失う手前まで、貴様は心と五体を痛めつけられている――
魔王城に居る人間たちが、毎日そうであるようにな」
肉体的責め苦はあまり好まれない――家畜に与えた損傷を修復するのは、搾り取ったものの責任とされた。治癒術式を施すのが面倒なのだ。
なので五体を痛めつける場合は、痛覚を過度に鋭敏にして責め苦を与え、治癒してやる。こちらの方が損壊が少なくスマートだと好まれた。
よりスマートなのは精神的な責め苦だ。これは魔族の個体により手法は多岐に渡る。腕の見せ所、という奴だ。
そうして生命や精神の限界が見えるまで絶望を覚えさせられ、壊れる寸前でやっと解放してもらえる。
そんな責め苦を毎日受けるのが、魔王城で飼われる人間の召使いたちだ。
ヴィルケ王たちが更に深く戦慄した。
――そんな責め苦を、毎日受け続けている?
「そんな事をすれば、人間が耐え切れる訳などないだろう!」
「だが殿下に愛を捧げた個体は、ある程度耐えてみせる。
生きていればまた殿下に愛を捧げる事が出来ると言う、希望を胸に耐え忍ぶ」
もちろん限界はある。
およそ一か月程度で心が折れる。
そうなった個体の生み出す絶望は鮮度が落ちると普遍的魔族は語る。
リーゼロッテが三十代以上の感情を食べたがらないのと同じように、その絶望に興味を示さなくなる。
そうなった個体にはリーゼロッテに対して愛を捧げる機会を与えられ、再び虐げられる日々を送る事になる。
時には虐げられる中で、加減を間違えた魔族に命を奪われる人間も居る。
そうすると外部から新しい人間が補充され、リーゼロッテの魔性に堕とし、他の人間と同じ扱いを受けていく。
そして最後の限界もある。
何度も再生できるほど、人間の心は強くはない。
段々と力が衰えていき、いつしか愛を捧げた直後でも大して美味くない絶望しか覚えなくなる。
そうすると絶望の中で命を奪われ、そして新しい人間が補充される。
「この事は殿下には知られるなよ?
今すぐ魔王城に居る人間を救い出すと言いかねん。
だが覚悟もしておけ。
それが貴様たちが辿り得る未来だ」
ヴィルケ王には、あの男がリーゼロッテの父親だという事実が信じられなかった。
娘の慈愛を『全ての人間を堕落させずに居られない汚泥』とまで呼んだ。
あの邪悪な存在が、リーゼロッテが愛する父親――
「宰相の言った事は、ある意味正しい。
殿下の慈愛を見た心ある者は、その姿に心を奪われる。
殿下の為なら命を尽くしても構わないとさえ思うようになる。
それもまた、殿下の魔性に堕ちたと表現できる――
文字通り、人を堕落させる存在、汚泥の権化だろう。
心無い人間には、効果がないようだがな」
ヴィルケ王がヴィクターを険しい目で睨み付けた。
その目は、アーグンスト公爵の前に居た時よりも強い憎悪すら宿っていた。
「貴様、リズ殿下に感化された状態を堕落と、そう呼ぶのか?」
ヴィクターは淡々と応える。
「殿下が望めば、例えその望みが間違っていたとしても叶えようとしてしまう――
逆らうことが出来ん状態を、堕落と呼んでも差支えがないのではないか?
それが害悪になって居ないのは、単に殿下が道を誤って居ないからだ。
感化された人間は、殿下に依存した生き方しかできなくなる。
それを堕落と呼ばずに何と呼ぶ?」
ヴィルケ王の頭を、金槌で殴られたかのような衝撃が襲った。
返す言葉が、全く見つけられなかった。
リーゼロッテが道を間違えた世界――考えた事もなかった。
だが魔王が倒された後の社会を考えてみれば簡単な話だった。
道を間違えた彼女が、魔王に代わる次の標的を敵と定めた世界だ。
周りにいる人間が、彼女の手足となって標的の抹殺に手を貸すだろう。
『彼女の望みならば仕方がない』と、彼女の代わりにその手を血に染めるのだ。
彼女が口にしなくても、忖度するように彼女の敵を始末していくだろう。
彼女はそこに在るだけで周囲から愛される存在だ。
そして彼女を深く愛する者ほど逆らえない。
心の根底に『彼女の喜ぶ姿が見たい』という願いがある限り、逆らおうと思わなくなる。
そんな願いを植え付けてしまう性質こそが、リーゼロッテが持つ魔性の本質と言える。
『愛と平和で潤った世界』という理想郷を追いかけている今でも、これは変わらない真実だった。
『彼女の為に生きたい』と願う人間の集団――それは既に形成されていた。
それは彼女の存在に依存した集団だった。
全てが彼女の一存で決まる、不健全極まる世界。
もうこの国は『リーゼロッテという女王蜂に支配された世界』なのだ。
この国だけではない。大陸南西部がそうなっていた。
彼女が道を間違えていないから無害なだけの、危うい世界だった。
初めてリーゼロッテを恐ろしいと感じた瞬間だったが、それすら些末な事だと思えてしまう。
彼女と共に在れるなら、それが人として誤った道でも構わないとさえ思える。
既に自分が手遅れなほど、彼女の魔性に深く堕とされている事を、ヴィルケ王は自覚したのだ。




