3.逃れられぬ誘惑
王都の入り口は無人だった。
リーゼロッテは懐中時計を取り出して確認する――午後二時に近い。
昼飯時など、とうに終わっている時間だ。
「どういうことかしら。
警備に割くだけの人手も足りないという事?」
「それもあると思いますが……人間の手が足りなければ魔族の門兵が居たはずです」
リーゼロッテたちが門を通り過ぎても、誰かが慌てて近寄ってくる、なんて気配もない。
「どうする? ヴィクター。
多分王宮に執政官が居ると思うんだけど」
「……少し、街の様子を探って参ります。
少々お時間をください」
言うが早いか、ヴィクターの姿が瞬く間に空気に溶けるように掻き消えていった。
リーゼロッテは足元に鞄を置き、暢気に辺りを見回している。
だが陰鬱な空気が漂う王都――その悪臭に、密かに辟易していた。
負の感情を嫌う彼女にとって、とても居心地が悪い場所だ。
そんなリーゼロッテの様子を、遠くから観察していた、一人の人間が居た。
臙脂色の長衣を着込んだ、魔導士風の少女だ。
長く赤い髪を持ち、愛嬌がありながら気の強そうな顔をした、中々魅力的な少女と言える。
年の頃は十五歳前後。
身長は百六十センチ足らず。リーゼロッテより頭半分大きいくらいだろう。
警戒するように長杖を前に構え、慎重にリーゼロッテに近付いて行った。
魔導士風の少女が、透き通った可愛らしい声で尋ねる。
「……あなた、人間なの?」
リーゼロッテはクスリと笑って応える。
「あなたこそ、人間なのかしら?
ここは王都よね?
何故こんなに人気がないの?
少し様子がおかしいと思わない?」
「……瘴気は感じないわね。
逆に神気を感じる。
ということはあなたは人間ね。
どうして顔を隠しているの?
顔を見せてもらえる?」
「後悔しないと誓えるなら、見せてあげてもいいわよ?」
「……それはどういう意味かしら。
顔に醜い傷跡でもあるの?」
リーゼロッテがもう一度、クスリと笑った。
「そんなものはないわ。
でもあなたは後悔する。
『ああ、あの時に顔を見なければ』って。
そしてそれ以上に悦びを知ることになるわ」
魔導士風の少女はリーゼロッテの発言の意図が掴めず、眉をひそめ、警戒心をあらわにした。
リーゼロッテは楽しそうに言葉を続ける。
「あなたには自分の運命を選ばせてあげる。
自分の運命が怖くないのであれば、あなたの手でフードを下ろしてみたらいいんじゃない?
私は抵抗しないわよ?」
リーゼロッテは両手を後ろに回し、無防備にフードを被った頭を前に出した。
魔導士風の少女が固唾を飲み、恐る恐る彼女に近づいて行く。
『怖いもの見たさ』というものだろう。
リーゼロッテの仕掛けるこの誘惑に勝てた人間は、それほど多くはなかった。
魔導士風の少女の手がとうとうリーゼロッテのフードにかかり、ゆっくりと下ろしていった。
そして少女の瞳がリーゼロッテの美貌を認めた瞬間、彼女の心が囚われた。
リーゼロッテが優しく微笑みながら少女に尋ねる。
「あなたの名前を教えてくれるかしら」
「……ラフィーネよ。
あなたの名前はなんていうの?」
「そうね――リズ、とでも呼んで頂戴。
ラフィーネは可愛いわね」
ラフィーネの頬が朱に染まる。
だがその視線はリーゼロッテの顔から逸らすことが出来ないでいる。
恋慕の感情はどんどん香りを増し、リーゼロッテの食欲を強く刺激していた。
リーゼロッテがラフィーネの頬を両手で優しく包み込み、その瞳を見つめながらゆっくりと感情を貪っていく。
恋慕が愛と歓喜に代わり、その殆どを貪られていった。
「この味わい……あなた、初恋だったのね。
初恋が愛に代わっていくこのコクは、いつ食べても美味しいものね」
困惑するラフィーネが小さく呟く。
「これはなに?
私は今、何をされているの?」
「あなたが愛する思いを強くすればするほど、あなたは生きる悦びを感じることが出来るだけよ。
貴方は私に囚われた――その事実を知ってしまった今、あなたは何を思うのかしら?
教えてもらえる?」
「怖い!
何故私は女同士のあなたを恋しいと、愛おしいと思ってしまうの?!
こんな私は知らない!
こんなの変よ! もうやめて!
これ以上私にあなたを愛させないで!」
「もう手遅れよ?
私の顔に見惚れてしまった時点で、逃れられた者は居ないわ。
ここで止めてあげてもいいけど、もう私を愛し求める心は止まらないわよ?」
「それでもいいからもうやめて!
これ以上自分が知らない自分になりたくないの!」
錯乱したラフィーネが、リーゼロッテから解放されて弾けるように離れた。
そのまま慌てて長杖を拾い上げ、リーゼロッテに向けて掲げた。
息を荒げながらラフィーネがリーゼロッテに尋ねる。
「あなたは何者?!
私に何をしたの!」
「私の事なんてどうでもいいじゃない――私があなたに何かをした訳じゃないわ。
だから忠告したじゃない?
『必ず後悔する』と言ったはずよ?」
リーゼロッテは微笑みを湛えたまま、再びフードを目深に被った。
ラフィーネが眉をひそめて、泣きそうな顔で尋ねる。
「私はこの後、どうなってしまうの?!
どうして顔を隠したあなたを残念に思ってしまうの?」
「もうあなたの心は私に囚われてしまった。
手遅れよ――
でも、ひとつだけ救われる道もあるの」
ラフィーネが恐る恐る尋ねる。
「……それは、どんな道なの?」
「あなたが自分から『愛を捧げてさせてほしい』と私に願えば、私はその愛を受け止めてあげる――
ああ、自分で命を絶つという道も、一応残されてはいるわね」
ラフィーネが悔しそうに顔を歪め、リーゼロッテの顔を睨み付けた。
「――?!
あなた、魔族ね?!
人間の心を惑わし、感情を食べる卑しい種族!
私の心に何かしたのね!」
リーゼロッテは小さくため息をついた。
「私に憎しみの感情を向けるのは、くさいから止めてもらえる?
――そしてもう一度言うけれど、私に心を囚われたのはあなたの選択よ?
私は何もしていないし、忠告もしたわ。
これは魔導術式でも魔法でも呪いでもないわ。
もうあなたの心を元に戻す方法なんてないの」
ラフィーネは困惑と悲嘆で混乱していた。
リーゼロッテの言う事を全て理解していた。
だというのに、同時に抑えきれない愛を持て余している。
それは一秒ごとに増大しているようだった。
「私はどうしたらいいの?!
どうして全てがわかっているのに、あなたを愛しいと思ってしまうの?!
ねぇお願い、私を助けて!
元の私に戻して!」
「言ったはずよ?
元に戻す方法なんて、私が知りたいくらいよ。
あなたが救われる道は一つ。
心のまま素直に、私に懇願するだけでいいわ――
それが嫌なら、今すぐ自分で命を絶つしかないの」
戸惑うラフィーネを、リーゼロッテは見守った。
何とかリーゼロッテから逃れようと、何度もこの場から離れようとする素振りがあった。
けれどもラフィーネの足は、彼女の意志を無視するかのようにその場から離れようとしない。
「初めて知った恋、初めて知った愛なのでしょう?
そのあまりの心地よさが想像以上に魅力的だったのでしょう?
あとは素直になるだけでいいのよ?」
ラフィーネの足が、ゆっくりとリーゼロッテに近づいてくる。
「いい子ね。
そろそろ素直になれる頃かしら?
――どうかしら?
言える? それとも、言えない?」
ラフィーネが眉をひそめ、泣きそうになりながら、ゆっくりと口を開く。
「リズ……
お願い、私のこの愛を、あなたに捧げさせて。
あなたが愛しくて苦しいの」
リーゼロッテはゆっくりとフードを下ろして優しく微笑んだ。
「さぁ、私の目の前にいらっしゃい。
あなたから私に抱き着くといいわ。
抱きしめ返してあげる」
ラフィーネは言われた通りにリーゼロッテの目の前まできて、彼女に身体を預けた。
リーゼロッテはその身体を優しく抱きとめた後、ラフィーネの感情を全力で貪り始めた。
瞬く間にラフィーネの魂から生命力が貪られていった。
ラフィーネは言葉を発する余力すら余さず貪り尽くされ、限界を超えた感情を覚えたあと、身を震わせて失神した。
失神したラフィーネを優しく抱き留めたまま、リーゼロッテはその頭を撫でてやる。
「本当にとても美味しい愛だったわ。
ラフィーネはしばらく連れ歩くことにしましょう。
この愛を熟成させていったらどれほどの味わいになるか、興味が湧いてきたわ」
「ラフィーネを離してもらおうか」
物陰から数人の男性が現れ、リーゼロッテから離れた位置で長杖や長剣を構えていた。
彼らは殺気と憎悪、そして嫌悪と悲しみを迸らせている。
年齢は二十代から三十代。
リーゼロッテの食欲を刺激するには年齢が高すぎた。
リーゼロッテは片手でフードを被り直し、ラフィーネの身体から顔を出して微笑んで見せる。
「あら、さっきから見ていたのでしょう?
彼女は自分から私の元へやってきて、私に身を預けたの。
もう彼女の心は私のものよ?」
魔導士風の男性が厳しい表情でリーゼロッテに尋ねてくる。
「貴様、何者だ。
何をしにここへ来た?」
「私は魔王の娘。
リズとでも呼んで頂戴。
私は大陸南西部を治める魔族の執政官を粛清に来たの。
少なくとも、あなたたちの敵ではないつもりよ」
リーゼロッテの目的は大陸南西部にある人間国家再建だ。
その目的については、人間とリーゼロッテは手を取り合えるはずだと伝えた。
「……ラフィーネに何をした?」
「彼女にも説明したけれど、私は特に何もしてないわよ?
彼女が勝手に私に囚われ、思慕を抱き、愛を止められなくなっただけ」
「魔王の娘というに、嘘はないのか」
「私は人間に嘘を告げないわ。
私を信じられないのは、あなたたちの心が歪んでいるだけ。
あなたたちが偏見を持ち続けている限り、私がどれほど言葉を尽くしても無意味よ」
魔導士風の男性が、逡巡するように間を置いてからまた尋ねる。
「……人間の国家を立て直すと言ったな?
魔王がそう命じたのか?」
「そうよ?
この大陸南西部の魔族を壊滅させても構わないとも言われているわ。
私は争いごとが嫌いだけれど、必要ならそれに手を貸してあげてもいい」
「……何故、剣を突き付けられている状態で、そこまで余裕を見せて笑っていられる?」
リーゼロッテがクスリを笑う。
「見たところ、あなたたちでは私に傷を付けるどころか、指一本触れることもできないわ。
そんな相手を恐れる必要があると思う?」
「……ラフィーネを返してもらおう。
敵意がないのなら、応じられるはずだ」
「ラフィーネが嫌がるわよ?
彼女は私の傍に居たがるわ。
ラフィーネはもう、私に愛を捧げなくては生きていけない人間となってしまったの」
「それでも、返してもらおう。
貴様の施した呪いを解呪せねばならん」
リーゼロッテは大きくため息をついて応える。
「あなたの耳は飾りなのかしら?
私は何もしていないと告げたわ。
呪いも術式も魔法も使っていない」
リーゼロッテは魔導の類を一切使っていなかった。
それは魔導士なら理解できたはずだ。
リーゼロッテがやや軽蔑を込めた眼差しで、魔導士風の男性を眺める。
「私は名乗ったのにあなたは名乗らないのね。
人間の礼儀はその程度なの?
私たち魔族が真似してきた人間の文化と、随分違う文化を持ってるみたいね」
魔導士風の男性が顔をしかめた。
「……俺はガートナーだ。
だがリズ、貴様の名前とて本名ではあるまい?」
リーゼロッテが呆れるように応える。
「高位魔族の名前を並の人間が知れば、どういう結果が待っているのか知らないの?」
名前を知るだけで、魂が一瞬で堕落して畜生未満の魂の出来上がりだ。
理性を欠片も持たない、害悪しか蒔き散らかさない存在に、一瞬で堕落してしまう。
魔王の娘などという最高位の魔族であれば、並の人間が耐えるのは不可能だ。
リーゼロッテは、丁寧にその説明をした。
「それでも知りたいというのであれば教えてあげてもいいけど、あなたたち程度の精神で耐えることはできないと思うわよ?」
ガートナーは混乱していた。
困惑という負の感情がリーゼロッテに届いていた。
リーゼロッテが一切、嘘を告げていない事を確信してしまったのだろう。
「リズ、貴様本当に魔族なのか?
瘴気を感じず、逆に神気を感じる。
人間を気遣い、どうやら嘘も口にしていないらしい。
貴様の存在が信じられん」
常識を覆す存在。
今のリーゼロッテを見て魔族と判断できる人間は、おそらく居ないだろう。
「瘴気は人間に害悪だから仕舞っているだけよ。
今、瘴気なんて出したら、ラフィーネが死んでしまうしね」
リーゼロッテは心に愛を持ち、神気を纏って生まれてきた魔族の異端。
彼女は同族に侮蔑されて生きてきた。
リーゼロッテは『本当に腹の立つ連中だけどね』と悔しそうに吐き捨てた。
「……何故、フードを被り直した?
俺たちにもお前の呪いをかければ、こんな問答をする必要もないだろうに」
「呪いじゃないと言ってるのに――
あなたたちの愛は美味しくなさそうだし、誰でも見境なく私の虜にする気がないだけよ」
リーゼロッテが何かをしている訳ではない。
彼女自身にもどうにもできない『現象』なのだ。
人間がリーゼロッテの姿を見て、勝手に心が囚われるだけの『現象』だ。
「ではなぜラフィーネに貴様の素顔を見せた?」
「彼女が自分で知りたがったのよ――
そろそろ、話しができるくらいは回復してるはずよ。
起こしてみたら?」
ガートナーが覚醒術式をラフィーネに施すと、わずかに身体が跳ねてラフィーネの目が開いた。
「……リズ」
「おはようラフィーネ。
まだ身体が重たいでしょう?
そのまま体を預けていていいわよ?
ガートナーさんがあなたに聞きたいことがあるみたいなの」
ラフィーネが気怠そうに振り返り、ガートナーを見据える。
「ガートナーさん……
聞きたい事って何かしら」
厳しい表情でガートナーが告げる。
「リズから離れろ。
そいつは危険だ」
「まだ身体を巧く動かせないし、私はリズの傍にいたいわ。
こうして身体を預けていられるのが堪らなく幸せなの。
ごめんなさい」
「その呪いを俺がなんとしてでも解呪してやる。
お前を救い出してやる。
だからこちらへ戻って来い」
ラフィーネはすぐに、ゆっくりと首を横に振った。
「私は自分が生まれてきた意味を、自分が生きる意味を知ったの。
私の人生はリズに愛を捧げるためにあったのよ。
リズの傍で、私は彼女に愛を捧げ続けるわ。
もう反魔族同盟には戻れない」
「それは呪いだ!
解呪すれば元に戻るはずだ!」
「リズの愛を知って全てを理解したの。
もう私はリズの愛を知る前の私には戻れない。
例えこれが呪いだったとしても、私は構わないわ」
「そんなもの!
魔族がお前の感情を食った結果だろう!
お前はただ命を吸われただけだ!」
ラフィーネは不思議そうに小首を傾げる。
「そんな事、命を吸われた本人が一番理解してるわよ?
あれはリズの愛。
リズの愛は神の愛よ。
その愛を得るためなら、私はガートナーさんだって殺してみせるわ」
リーゼロッテは苦笑を浮かべてラフィーネを窘める。
「ラフィーネ、私はそんな事を望んでなど居ないわ。
争いや諍いなんて私が最も嫌う事よ?
どうしても避けられないもの以外は極力慎んで頂戴」
ラフィーネがリーゼロッテの瞳を見つめながら、渋々頷いた。
「リズがそう言うなら、そうするわ」
ガートナーが渋い顔でラフィーネの様子を見ていた。
「心が囚われる、というのはこういう事か。
ラフィーネは貴様の忠実な下僕と化したわけだ。
魔族の貴様が人間を支配するのは心地良いか?
どんな気分だ?」
「そうね、結果としてはそうなるけれど、私が望んでそうしたわけじゃないわ。
全てこの子が自分で選んだ運命よ――
そうよね? ラフィーネ。
今もあなたは後悔をしているかしら?」
「きちんとリズの愛を知った今は欠片も後悔してないわ。
リズの言う通り、これは私が自分で招いた結果。
でもその選択を間違っていたとは今は全く思わない」
「でもガートナーさんは、魔族の私からラフィーネを奪還したいと思ってるみたいなの。
少しの間、ガートナーさんに付き合ってあげて」
ラフィーネはとても悲しい目でリーゼロッテを見た後、ゆっくりと頷き、気怠そうに身体を離した。
ラフィーネがゆっくりとガートナーに近づいていくと、男たちがラフィーネを守るように取り囲んだ。
「今解呪してやる!
少し待っていろ!」
リーゼロッテは暢気に後ろ手に組み、その様子を眺めた。
何度も神の奇跡を祈っているらしいガートナーの表情が、どんどんと険しくなっていった。
ラフィーネも、胡乱気にガートナーの様子を瞳に納めていた。
「どうしたの?
解呪するんじゃなかったの?
ラフィーネの様子は、一向に変化がないけれど……」
「うるせぇ!
今試しているところだ!」
リーゼロッテは小さくため息をついた。
「あまりラフィーネに無理をさせないでよ?
まだそこまで体力が回復してないわ――喫茶店があるわね。
あそこに入りましょうか。
続きはそこで椅子に座りながらやるといいわ」
リーゼロッテは一人で鞄を手に持って喫茶店に向かっていく。
その後に続くように、ガートナーたちもラフィーネを庇いながら店の扉をくぐっていった。




