21.月の神の洗礼
ミネルヴァが向かった先は森に浸食された小さな廃村。
その上空でミネルヴァは停止し、リーゼロッテたちは辺りの様子を伺う。
「……辺りは魔物の巣窟ね。
これでは確かに、人は近寄ってこれないわ」
人が居なくなった場所では魔族も生きられない。当然、魔族の姿もない。
ガートナーがある小さな広場を指さした。
中央に人の背の高さぐらいの石碑が立っている。
「あれが月の神の礼拝所だ。
あの周囲に結界を張れるか?」
「任せておいて!」
リーゼロッテはその石碑を取り囲むように防御結界を張り、ついでとばかりに中に取り残されていた魔物を素早く矢で打ち抜いた。
それと同時にミネルヴァがその石碑の前にふわりと降り立つ。
今は特に、神の気配が漂っている感じはしない。
ガートナーが祈りを捧げると同時に、石碑が白銀に淡く輝いた。
途端に石碑からうっすらとミネルヴァの持つ神気に似た気配が漂い始める。
ガートナーが額の汗を拭って一息つく。
「――ふぅ。
大奇跡の後に機能回復の奇跡だ。
少し俺はここで休息しておく。
お前は石碑に触れて、月の神に話しかけてみるといい」
そう言って傍の石作りの椅子に腰かけた。
リーゼロッテは彼に頷いた後、ゆっくりと石碑に近づいて手を触れた。
(……これでいいのかな?)
『そうよ?
それで伝わってるわ』
あの夜聞いた女性の声が、リーゼロッテの頭の中に響いてきた。
(あなた、本当に月の神だったの?!)
『そう名乗ったはずだけど?
私の言葉が信じられなかったの?
寵児の癖に、信心が足りないわね』
信心も何も、リーゼロッテは信徒になった覚えはない。
何より彼女は魔族、神と敵対する存在だ。
魔族に信仰心を求められても困るというものだ。
(あなたの気配というのは、この石碑の持つ気配という事でいいのかしら。
ミネルヴァの持つ神気とは結構違うのね)
『純粋な神の気配を知るのに祭壇で洗礼を受ける理由がそれよ。
信徒の持つ気配は、どうしても混じり物が多くなるからね』
(これで私はあなたの気配を知ることができた、という事で良いの?)
『そうよ?
魔法の使い方はさっきガートナーが告げていたでしょう?
今のあなたなら、魔力を大して消耗せずに防雨結界を願う事もできるわよ?
私は海の神でもある。
水に関する魔法は相性が良いの』
――もしかして私のやる事、全部見られてるのかしら……。
『あなたの滑稽な姿、ずっと見てるわよ?
神は寵愛を与えた存在を常に見守っているわ。
それはどの神も同じよ』
相変わらず性格の悪い事をさらっと言ってのける神だ。
ならば先ほどガートナーとしていた会話も理解しているだろう。
(月の神の魔法で、ヴィクターにかかった不老の呪いを完全に取り去る事はできる?
今ラフィーネにかかっているものと同じ呪いのはずなんだけど)
『確かに同じ呪いがヴィクターにかかっているみたいだし、それを除去する事も、あなたが願うなら可能だと思うわよ?
あなたの知る術式を打ち消せばいいのでしょう?』
つまり、その呪いからヴィクターを解放することが可能、という事だ。
それならヴィクターを魔王の忠実な犬から、リーゼロッテの忠実な副官に戻す事も可能だろう。
囚われた心を元に戻す事は不可能でも、それくらいはできるはずだ。
『そうね。
その見込みはあると思うわ。
やってみる?
失敗すれば、魔王にあなたが魔法を使えるようになった事がばれるわよ?
そのリスクを負ってでも、あの男を味方に引き入れるの?』
確かに、そのリスクはあった。
魔王とヴィクターが顔を合わせれば、呪いが解呪されている事にも気付く。
解呪するとしても、慎重に機会を見定めた方がいいのかと、リーゼロッテは頭を悩ませた。
どちらにしても、あれ程有能なヴィクターを敵に回し続けるよりは、完全に味方に引き入れてしまう方がずっと有益に思えた。
いつまでも彼から隠れて活動を続けるのも限界があるだろう。
月の神の失笑が頭の中に響いた。
(なによ?!
何がおかしいのよ!)
『あなたは神の奇跡を侮り過ぎね。
彼の呪いの形を維持したまま、効力だけ無効化する奇跡ぐらいはみせてあげるわ。
そうすれば魔王に感づかれる事もない。
あなたが真に願うなら、それぐらいの力は貸してあげる』
(……願うわ。
その奇跡、ちゃんと叶えてくれるのであればいくらでも)
『じゃあヴィクターの動きを封じた後、奇跡を願いなさい。
聞き届けてあげる。
くれぐれも動ける状態で魔法をかけない事ね。
彼を侮っては駄目よ。
抵抗できない状態にしてから動くことを忘れないで』
(愛を捧げた直後なら、抵抗する活力は残っていないわ。
それでいい?)
『ええ、それで構わないわ。
でも彼に信頼を置くのはまだ早い。
例え呪いを解いた後でも、彼を信頼しすぎない様にね』
――意味がわからないけど、ヴィクターの解呪は同意が取れたという事で良いのかな。
(ねぇ月の神。
祭壇以外であなたと会話することはできないの?
私には神に関する知識が足りない。
こうして相談する手段が欲しいわ)
『寵愛を与えた存在にのみ許された行為だけど、私の気配を手繰り寄せる事で会話をする事が可能よ。
今後は場所を選ばないわ――
そろそろ天候が変わる。
戻ってあげた方が良いわよ?』
リーゼロッテはそっと石碑から手を離して、ガートナーに振り返った。
ガートナーがニヤリと笑う。
「どうやら、無事に話ができたみたいだな」
「ええ、相変わらず、ろくな性格をしていないわね――
天候がそろそろ変わると告げられたわ。
急いで戻らないと」
リーゼロッテたちは再びミネルヴァの背に乗り、移住する民衆の元へ戻っていった。
****
民衆の元に白銀の流星が降り立ち、リーゼロッテは急いでミネルヴァの背から飛び降りた。
ラフィーネが空を見て不安気に眉をひそめる。
「もうそろそろ一雨来るわね。
急いで結界を張らないと」
既に黒い雲が上空に広がっていて、いつ雨が降ってもおかしくない。
リーゼロッテは頷いてから、ゆっくりと周囲に漂う魔力の残滓から月の神の気配を探り、手繰り寄せていく。
初めての経験なので、何度か失敗しつつ、手間取りながら探っていく――これか!
その気配に向かって防雨結界を願う。範囲は民衆を完全に覆う広さ。
たちまち民衆の頭上十メートル上空に白銀の幕が広がっていく。
リーゼロッテは初めて使った魔法の威力に、ただ目を丸くして驚いていた。
「嘘……
この広さの防雨結界よ?!
何故この程度の魔力消費で済むの?!」
ガートナーがニヤリと笑う。
「魔法の魔力は、そのほとんどを神が担う。
術者が負担するのは、起動する時に呼び水とする魔力だけだ。
維持も同じく神が担うから、術者は意識を魔法に向けておくだけで、ほとんど魔力を消費しない――
どうだ? 神の奇跡ってのは凄いものだろう?」
リーゼロッテも『これなら人間でも遥かに強大な力を持つ魔族に対抗し得る力になる』と確信した。
それほどの威力が魔法にはあった。
人間と魔族の魔力差を簡単にひっくり返すポテンシャルを感じていた。
直に雨が降り出し始めた。
本格的な雨に変わっていく。
だけど、その雨の全てを防雨結界は吸収していった。
「……ねぇ、防雨結界に吸収された水はどこにいくのかしら。
水を弾く術式とはまるで別の理論みたいだけど」
「魔法に理屈は存在しないからな。
月の神は海の神だ。
多分、近くの海にでも流れ込んでるんじゃないか?」
理屈を超えて現象だけが現れるという魔法。
リーゼロッテは自分で魔法を使ってみて、改めてその意味を痛感していた。
――私が願った『雨を凌ぐ結界』がこんな形で姿を現すのか。
リーゼロッテたちは民衆と共に街道を進んでいく。
雨の準備がない民衆が足元のぬかるみで転ばないよう、前方にも防雨結界を施して街道から水を押しのけていった。
民衆たちが歩くのは、すっかり水気が抜けた乾いた街道だ。
結構な本降りが続く。ラフィーネが「この季節に珍しいわね」と呟いた。
雨で視界が悪く、雨音で周囲の気配も辿りにくい。
探査術式を撃ち、ちいさくため息をついた。
「こんな雨の中で身を潜めている野盗が居るわね。
どうやら襲ってくる気があるみたい。
こんな大規模結界を張る集団を襲うだなんて、なんて頭が悪いのかしら」
ガートナーが苦笑する。
「それだけ連中も切羽詰まってるんだろう。
襲撃しようにも、ろくに人の行き来がない。
奴らも野生の獣を狩って日々を何とか凌いでいるはずだ。
だが、それにも限界があるからな」
「こんな時代に人を襲ったとしても、得られる物なんてほとんど無いと思うんだけど?」
「……余り気持ちのいい話ではないが、人を襲えば人の肉が得られるからな。
そういう飢えの凌ぎ方もある」
リーゼロッテは顔をしかめて応える。
「確かに、気持ちのいい話ではないわね。
魔族よりずっと悍ましいじゃない――
でも、そうしなければ生きていけない時代なのね」
そんな時代にしてしまったのは、魔族であり、そんな魔族に敗北した人間たちだ。
ある意味自業自得という話だが、外道に堕ちてしまった彼らを改心させることはもうできないだろう。
その魂は魔族よりも卑しいものになり果てているはずだ。
一部の低級眷属が敵意に反応して動き出した。
既に戦闘が始まったみたいだ。
――集団の後方、ここからだと人間が走っても間に合わないな。
「ヴィルケ王子!
近衛騎士を借りるわ!
――騎士たち、ミネルヴァの背中に乗って頂戴!」
リーゼロッテは騎士たちを連れて、ミネルヴァで襲われている地点に移動し、その場で追加の眷属を呼び出した。
騎士たちには低級眷属を抜けてきた野盗の相手をしてもらい、リーゼロッテ自身は野盗を気絶させる術式で無力化していく。
すぐに野盗たちは諦め、退散していった。
騎士たちが気絶している野盗に止めを刺していく。
リーゼロッテはその光景から目を逸らし、処置が終わるのを待った。
「リズ殿下、終わりました」
「そう、ありがとう――
先頭に戻るわね」
周囲の民衆から歓声を浴びつつ、リーゼロッテは先頭を歩くヴィルケ王子の元へ戻っていった。
****
力を貸してくれた騎士たちにお礼を言って、リーゼロッテはヴィルケ王子の隣に戻った。
「騎士たちを貸してくれてありがとう。
悪いわね、あなたの側近を借りてしまって」
「構いませんよ。
騎士たちもあなたの力になれることを喜んでいます。
こんなことでしか、私たちは力を貸すことはできませんから」
「野盗への対処が終わった後、何故か民衆から歓声が上がったのだけれど何故かしら?
私が魔族という事は伝えてあるんでしょう?」
あの声は騎士たちを褒め称える声ではなく、明らかにリーゼロッテに感情が向かっていた声だった。
その理由がわからず、リーゼロッテはさっきからモヤモヤしていた。
「野盗の脅威は民衆たちも充分恐れていた事です。
それを眷属たちを使って見事に追い払って見せていたのではないですか?
白銀の眷属質が街を守り続ける姿も、民衆はずっと見てきました。
街をずっと守り続けていた存在を理解して、その事に感謝でも覚えたのでしょう」
――そんなものなのかなぁ?
リーゼロッテは納得できないようで、なんども首を傾げていた。
次第に雨足が弱まり、雲の切れ間から日が差し込み始めた。
雨が上がると同時に、上空の結界を解除した。
前方の結界はぬかるみを抜けるまで維持を続けていた。
ガートナーが懐中時計を確認した。
「ぼちぼち日が暮れる時間だな。
この人数が眠れる場所を、そろそろ見繕っておかんとな」
確かに、四千人では街道沿いの休憩所に収まりきらないのは明らかだ。
リーゼロッテは街道脇の平原を見渡した。
「この辺なら間に合うんじゃない?」
ガートナーが頷いた。
「ああ、これなら問題ないだろう。
リズ、水気を弾いておいてくれ」
リーゼロッテは頷いて、広大な空間に対して水気を弾く奇跡を願い、地面から水気を取り除いていった。
辺り一面が白銀の光に包まれたまま、民衆たちに休憩する範囲を示し続けていた。
「……やっぱり魔法って反則よね。
なんなのこれ。
術式を使うのが馬鹿らしくなるわ」
「こんな力でもなきゃ、人間が魔族に対抗するのは不可能だからな。
神の奇跡だ、なんでもありってことさ」
その日の晩は淡く白銀に輝く地帯に四千人が横たわった。
その周囲を千体の眷属が守り、野盗を牽制し続けている。
リーゼロッテは撥水魔法と同じ範囲に保温の奇跡を願い、民衆が凍えないように魔法を施した。
重ねて活力回復を願うと、やや躊躇いがちな気配と共に民衆に魔法が施された。
「……何故、月の神は活力回復の奇跡を嫌がったのかしら。
そんな気配がしたわ」
「月の神はそれほど強い生命力の権能を持たない。
だからか、あまり生命力に関する奇跡を叶えようとはしないんだ。
それだけ力を消耗するんだろう。
寵愛を与えられた存在であるリズの願いだから聞き入れたんだ」
――そんなものなのか。願えば必ず叶えるという訳でもない、ということなのね。難解だわ。
あんな性格で、リーゼロッテの事を『滑稽な存在』と笑いながら、それでもその願いだけは無理を通して聞き届けるらしい。
神と言う存在に、リーゼロッテは首を傾げていた。
ガートナーが懐中時計を見る。
「ぼちぼち九時か。
そろそろ俺たちもこの時間を有効活用するとしようか」
会議を始める、という宣言だろう。
リーゼロッテはヴィルケ王子とラフィーネを手招きして傍に寄せた。
「この四人で話しましょう。今後についてね」
ガートナーが頷き、四人を囲うように遮音の結界を展開した。




