16.月は無慈悲な夜の女王
リーゼロッテは低級眷属を呼び出して野営の周囲を哨戒させていた。
静かに新しい薪を火にくべ、火が絶えて人間が凍える事のないようにしていた。
リーゼロッテは焚火を眺めながら、人間の貧弱で不便な身体を嘆いていた。
睡眠を必要とし、寒さで凍えれば体調を崩す。
――本当に、なんでこんなひ弱な存在が魔族と渡り合えたんだろう?
リーゼロッテは周囲で眠る人間たちを見渡した。
リーゼロッテの『安心して寝ていろ』という言葉に素直に従ったのか、ほとんど全員熟睡しているようだった。
そんな彼らを気遣い、低級眷属をあらかじめ作り出し、野盗へのけん制に周囲を哨戒させていた。
『戦闘になれば物音で目を覚ます』という配慮から、戦闘を避ける手を打ったのだ。
本人は『人間たちの体力を温存する最善手だ』と自分を納得させていた。
リーゼロッテは、近衛騎士全員が熟睡しているという事実に違和感を感じていないようだった。
いくらなんでも王子の護衛。戦闘職だ。
リーゼロッテをどれほど信頼していようが、熟睡する訳が無かった。
その異変に、リーゼロッテは気が付いていない。
リーゼロッテは焚火を再び眺めながら、『今日はなんだか調子の狂う一日だったなぁ』と疲れを感じていた。
横目で、傍で眠るヴィルケ王子を見る。
――この平和ボケした王子に、良いように弄ばれた気がする。本当に生意気だ。
最後には同行している人間たち全員から甘い香りと優しい視線まで浴びていた事に、静かに憤っていた。
――魔王の娘に対して失礼じゃないかな?! もっと恐れて敬いなさいよ!
リーゼロッテが小さくため息をついた。
貧弱な人間風情にまで侮られていると感じ、己の不甲斐なさに遣る瀬無い思いを募らせていた。
魔王の娘らしい威厳が欲しいと切に願った。
この卑しく悍ましい性質に相応しい、見るだけで嫌悪を抱き、近寄るだけで吐き気を催す邪悪さが欲しかった。
そうすれば、人間はリーゼロッテに近づこうなんて考えない。
フードを目深に被り続ける必要もなくなる。
――そんな事を考えていた。
このフードはリーゼロッテも鬱陶しく邪魔に感じているが、人間の傍で下ろすわけにもいかなかった。
寝ているからと油断して下ろしていて、ふと目が覚めた人間がリーゼロッテを見てしまったら、もうそれだけで手遅れなのだ。
こんな場所で油断など、一瞬も出来やしなかった。
しばらく焚火を眺め、時刻も深夜になった。
空には満月が浮かび、月光がリーゼロッテを照らし出している。
不意にリーゼロッテが、遠くから近寄ってくる足音を聞き取った。
低級眷属が反応しないから、敵意を持った存在ではないらしい。
黙ってそちらに目を向ける。
月光に照らし出されたその姿は、背の高い白銀髪の若い女性だった。
その瞳も白銀で、着ている服も白銀の、おそらく上質の絹のワンピース。そして何より、驚くほどの完成された美貌だった。
欠けているものが何一つなく、余ったものも一つたりとてない。あるべきものが全て完璧に調和して収まった顔立ちだ。
人間の美醜に心動かされる事のない、魔族の感性を持つリーゼロッテですら感動を覚える。それほどの美がそこにあった。
その女性は静かに焚火に近づいてきて、リーゼロッテの傍に腰を下ろした。
「……誰よ、あなた」
リーゼロッテが誰何しても、女性は何も応えない。
気配を探ったが、魔力も瘴気も神気も感じない。
術式にまるで手応えが無い。
魔力のない幻影を相手にしている気分だった。
人間たちも、彼女の気配に気づいた様子はない。
だが彼女は確かに目の前で、腰を下ろしてリーゼロッテを見つめていた。
ようやく彼女が口を開く。
「地上で合うのは初めてね」
――意味がわからない言葉だ。
「まるで『地上ではないところでなら出会ったことがある』みたいな言い方をするのね、あなた。
――何者なの?」
「私は月の神。
あなたの魂に寵愛を与えた者よ」
「月の神……?
神の気配なんて、ないじゃない」
月の神と名乗る女性が微笑む。
「それはそうよ。これは影だもの。
私という存在を、月明かりで投影しているだけ。
気配までは持ってこれないわ」
「そう……とりあえず、あなたが頭のおかしい人間ではないという事『だけ』は信じてあげる。
人間の気配すらしないものね。
……意味がわからないわ」
幻影の魔導術式を最初に疑ったけど、その形跡はない。
どんな術式で調べてみても、結果は『その空間には何もない』というものだった。
ならば目に見えるはずもなかった。
だというのに、リーゼロッテの目は確かにこの女性を映している。
さらに会話までしているのだから、更に意味がわからなかった。
「神の奇跡に理屈は存在しないわ。
神がそう願えば、それがそこに現象として存在するの。
誰かから魔法の事を教わらなかった?」
理屈が存在しない現象――魔法と同じ物だ。
だから理論で構築された魔導術式で解析しようとするだけ無駄なのだ。
月の神が微笑んで頷いた。
「そういう事よ。理解が早くて助かるわ」
「……魔族の心まで読めるというの?
お父様以外にこの防御結界を破れる存在が居るとは思わなかったわ」
「魔族風情が、神の力に逆らえると本気で思ったの?
たかが地上の生き物が、遥か高次の存在である神に?
随分と思い上がった個体ね」
月の神の微笑みが冷たいものに感じた。
この神から慈愛の類、温かい感情の気配を欠片も感じられなかった。
「感じなくて当然よ?
私の中には愛も慈悲も存在しないの。
人間は私の事を『愛と美の神』だと言うけれど、それはあくまでもそれに関連した権能を持っているというだけ。
私の心の機能に、そんなものはないの」
「……その無慈悲な神様が、『たかが』魔族の子娘に何の用かしら」
「どうやら、あなたが思い悩んでいるみたいだったから、機会を見つけて話しかけてあげようかと思ってね。
あなたにはきちんと魔王を倒してもらわないといけないの。
それがあなたに与えた運命、神の試練よ」
「……さすが無慈悲な神よね。
そんな運命を魔王の娘に授けたというの?
私は生まれ落ちたときから父親殺しを運命づけられていたと、そういう事なの?」
「ええ、その通りよ? そうしないと人間が滅んでしまうの」
とても優しい微笑みで月の神が頷いた。
優しいと感じるのに温度を全く感じる事が出来ない、酷薄な笑みだ。
「その寵愛を、神魔大戦の時に人間には与えられなかったの?
あなたたち神の力が足りなかったから、人間が敗れたんじゃないの?
人間が滅んだとしたら、神のせいじゃない。
何故私がその尻拭いをさせられる訳?
納得がいかないわ」
「そこは認識が違うわね。
足りなかったのは神の力じゃなくて、人間の力よ。
神は可能な限り手を差し伸べたけど、人間たちに与えられる力はそれほど多くはなかった。
その上、人間たちは神魔大戦中ですらお互いの足を引っ張り合い、いがみ合った。
人間が滅ぶとしたら人間の自業自得、というのなら正しいわ」
「……じゃあ言い直すわね。
その人間の尻拭いを、何故私がやらなければならないのかしら」
「言ったでしょう? それがあなたの運命だからよ。
あなたが望もうと望むまいと、逃れられない道よ。
別に私は放置しても良かったんだけど、創世の神がどうしても助けてやってくれってしつこく頼んできたの。
だから、たまたま私と相性が良かったあなたの魂に寵愛を授けたの。
そしたらその魂が、魔王の子供に宿るんですもの。
私はおかしくて三日三晩笑い転げてたわ」
リーゼロッテの運命を嘆くのでなく、三日三晩笑い倒したと言い切った。
――なんて腹の立つ神だろう。
「だから言ったじゃない。
私には愛も慈悲もないの。
私にはあなたの人生が喜劇にしか見えないわ。
愛を渇望し必死に愛を与え愛を求めるのに、あなたの心には何一つ届くことがない。
こんなに滑稽な存在、どの世界を探しても居ないわ。
あなたはどれほど周囲に思いやられようと、それを感じることが出来ない。
それゆえに絶望するほど深い愛の渇望で満ちている。
その渇望は死ぬまで満たされることがないから、諦めておくことね」
「……ご親切にどうも。
つまり、私はもう世を儚んで命を絶った方が幸せになれると、神直々にそう突き付けられたのね。
なんだか思い切りがつきそうよ」
月の神がさらに酷薄に嗤う。
「あら? あなたが死ねばラフィーネがどうなるか、理解しているでしょう?
あなたの愛を渇望したまま、あの若さで一瞬で醜く老いさらばえ、それで全てを理解して絶望に浸ったまま一年もせずに死ぬわ。
あなたにそんな酷いことなどできはしない。
あなたは私と正反対。
心の中が愛で満ちた個体だもの」
リーゼロッテの一番弱い箇所を攻める言葉だった。
激高しそうになる自分を必死に抑えながら、リーゼロッテはあくまでも冷静に対処する。
「それが事実だと仮定してよ?
心の中が愛で満ちているという私が、何故心に一切愛を持たないあなたと相性が良かったのか。
説明して貰ってもいいかしら」
「それは単純な話よ。
私は愛と美の神。
あの時点で最も美しく愛に溢れた魂、それがあなただった。
私の権能とあなたの魂の相性が良かったというだけ。
そこに私の心は関係ないわ」
「じゃあ、なぜそんな魔族に最も相応しくない魂が魔族に宿ったのか。
理由を教えてくれない?
そこはどう考えても納得ができないわ」
「それは創世の神にでも聞いて頂戴。
その魂が次にどんな人生を歩むのか、それを決めるのは創世の神だもの。
私が知るところではないわ。
――でもそうね、憶測でいいなら教えてあげる。
多分あなたは、前世で相当酷い業を背負ったのよ。
深い愛を持つ美しい魂でありながら、人間ではなく魔族に生まれ落ちなければならないほどの深い罪を背負ったのね」
生まれ変わりを知らないリーゼロッテには、何一つ理解できない概念だった。
理由を求めたら意味の分からない言葉を並べられ、さらに苛ついていた。
「理解したところであなたの運命は何一つ変わらないし変えられない。
つまり理解する意味も必要もない事よ。
だからこそ教えられたの。
自己満足に浸りたかったら、教えた言葉の意味を調べて回れば、いつかは答えに辿り着けるわ。
何百年かすればね」
月の神が獲物をなぶるように嗤った。
――くっそ!
こんな神に寵愛を受けていると、私は愛されてると、そういう訳?!
納得できないわ!
愛なんて微塵も感じない!
月の神がさらに愉しそうに嗤う。
「それ、それよ!
これだけ言っているのに私にまだ愛を期待しているの?
愚かな子ね――そんな滑稽なあなたを、私はこの世で一番気に入ってるの。
あなたのお願いなら、できるだけ聞いてあげるわ。
でも私に愛を期待するのは無意味よ?
私の心はその機能を有していないんだもの」
『愛』を持たない『愛と美の神』の『寵愛』。
愛の概念が行方不明にも程がある。
矛盾だらけで滑稽だ。
だがそんな矛盾した『寵愛』は、矛盾の塊のような自分にこそ相応しいだろう。
リーゼロッテは自嘲の笑みを浮かべていた。
普段は決して浮かべる事のない、残酷な魔族の笑みだ。
こんな酷薄な愛の神に愛される自分が卑しくて悍ましいのも当然な気すらしていた。
月の神はそんなリーゼロッテの笑みを愛おしそうに微笑んで見つめた。
「あら、素敵な笑顔を持っているじゃない――
今日あなたに会いに来た用件は二つ。
あなたに自分の運命を悟らせる事と、きちんとガートナーの協力を得て私の気配を知りなさいと伝える事よ。
サービスで、あなたが知りたいことがあればもう少し応えてあげてもいいわよ?
応えられる事なら教えてあげる」
「……ガートナーさんの協力があれば、あなたの気配を知ることが出来ると、今言ったの?」
「ええそうよ?
――もしかして、ヴィクターの言う事を全て信用しているの?
彼はあなたの味方じゃないわ。
彼の心は魔族の犬。魔王に隷属する忠実な番犬。
あなたが人間の増産と出荷を適切に行えるようにあなたの意識を誘導するのが、彼に与えられた魔王からの命令よ。
彼は今、それに逆らうことはできないの。
あなたに囚われているからね」
それはヴィクターを警戒しろ、という忠告だった。
リーゼロッテはその言葉に納得はいかなかったが、彼の言動を棚卸する必要があるように思えた。
「……この、私を見るだけで人間が心を囚われてしまう呪いを解呪する方法はない訳?」
「解呪は無理ね。
それは愛と美の神の祝福よ。
祝福を跳ね返すには、それ以上の神の力が必要なの。
だけど、今の時代にあなたより強い寵愛を受けた人間はいないわ」
「なんでそんな厄介な祝福を私に与えたのよ?!」
「私の寵愛の副次効果みたいなものね。
愛と美の神の寵愛を受けた以上、その美貌に心打たれ愛さずに居られなくなってしまうというだけなの。
だから私も、滅多なことでは寵愛を与えないわ。
恨むなら、無理を頼み込んだ創世の神を恨んで頂戴――
その寵愛の副次効果が、心に愛を持った魔族というあなたの特性に、がっちり適合してしまったのよ。
これを喜劇と言わずになんというのかしら?
でも、空腹とは無縁の人生と考えれば、とても恵まれた運命よ?」
「……じゃあ、この祝福はどうしようもないのかしら。
フードを目深に被る生活には飽き飽きしてるんだけど」
月の神が妖艶に笑った。
「本音を言葉にしてもいいのよ?
いくら隠しても神相手に隠し事なんてできないんだから――
あなたが知りたいのは、その祝福に囚われずに愛を通じ合わせる存在を作れるかどうか。
そうでしょう?」
――わかってるならさっさと応えろ!
リーゼロッテはさらに苛立ちを刺激され、必死に自制していた。
だが月の神は先ほど『決して満たせない渇望』と告げた。
ならばこの質問の答えは自明だろうとリーゼロッテには思えた。
愛を通じ合わせることができない存在なのだろうと諦めた。
「そんなことはないわよ?
あなたの渇望を埋める事はできないけれど、その祝福に囚われない人間が存在する可能性はあるわ。
その祝福に囚われる前に、愛を通じ合わせる事が出来れば祝福は効果を発揮しないの。
そんな相手になら、あなたは素顔を安心して見せる事もできるわよ?
尤も、あなたの心が愛を感じることが出来れば、だけどね。
それこそ神の奇跡が必要じゃないかしら?」
――へぇ……神の奇跡でもなければ、私は愛を感じることもできない程どうしようもないのか。
リーゼロッテはいよいよ自分という存在に対して、絶望が深くなっていった。
自分は愛の渇望を抱えたまま、死ぬに死ねず見苦しく愛と歓喜を貪り続け、長い年月を絶望に身を浸しながら滅んでいく存在なのだろうと悟った。
――もう人間なんてどうでもいいじゃないか……
人間が居なくなれば、貪る愛も歓喜も生まれない。
私は選択の余地なく滅んでいくのだから。
「あらあら、そんな自棄にならないで頂戴。
寵愛を与えるのも、神は大きく力を消耗するの。
折角与えたんだから、きちんと使命を果たしてくれないと困るわ」
「絶望の底に叩き落とした張本人が、よくも抜け抜けと……?!」
「しょうがない子ねぇ……
これは本当にサービスよ?
もうその奇跡は与えてあるの。
あなたがその感覚に戸惑って気付けていないだけよ。
本当なら使命を全うした後の報酬だったんだけど、このままじゃ自棄になって終わってしまったから、今の時点で少しだけ希望を与えてあげる」
リーゼロッテの心が激しく動揺した。
意味の分からない言葉の羅列に混乱しつつ、その中で、確かに『自分を救う奇跡が与えられている』と告げられた。
この救いのない人生に光明があるのかと、わずかな希望が見えた気がした。
月の神が優しく微笑んだ。
「――少しだけ、絶望から戻ってこれたわね。
人間だけじゃなく、魔族も希望がなければ生きてはいけない、という事かしら。
それともこれは、あなたの特性?
どちらにせよ、あなたはやっぱり見ていて飽きない存在ね」
「それはどうも……言いたいことはそれだけ?!」
「そうよ、後は冷静に、油断せず行動しなさい。
ヴィクターは手強い相手、敵に回した時の恐ろしさは、誰よりもガートナーが知ってるわ。
頼るならガートナーとドミニクを頼りなさい。
彼らは信頼に値する人間よ。
なんとしても彼らの協力を取り付けるの。
ヴィクターに気付かれない様にね」
「そこまで忠告を重ねるほどヴィクターは信用できないというの?!
彼は私の忠実な副官よ?!」
「いいえ?
さっきも言った通り、忠実な魔王の犬よ。
魔王を倒す上で、最も障害となる存在が彼。
こんな場所でもなければ、あなたに忠告もできないほど油断ができない相手よ。
王都で安心できる場所はないと知りなさい」
急に強い風が吹き、強風が雲を流して月を覆い隠していった。
月明かりが消えると同時に、月の神の姿も空気に溶けて掻き消えていく。
「――ちょっと! まだ聞きたい事が!」
リーゼロッテの手は、真っ暗な夜闇に伸ばされたまま、虚しく宙を掻いていた。
****
リーゼロッテの手が、虚空から降ろされた。
彼女は小さくため息をつくと、浮かせた腰を地面に降ろし、再び焚火を見つめ始める。
黙って様子を見ていたヴィルケ王子は困惑していた。
――彼女は、誰と話をしていたんだ?!
不寝番をする彼女を、薄目を空けて様子を伺っていた。
悪態をつきながらも、人間たちの体調を慮り、火を見張り、魔力を消耗して眷属を哨戒させ、野盗を追い払っていた。
『野盗が襲って来れば叩き潰す』と言い放ちながら、未だにその姿を見せていない。
そんな心遣いに、温かな気持ちを押し隠しながら、その乳白色の旅装をずっと眺めていたのだ。
だが彼女が突然何かに反応し、誰かと話し始めた。
相手の声は聞こえたが、その姿はまるで見えなかった。
彼女たちの会話の意味は全く分からなかったが、何かとても重要な事を話していたのは理解していた。
『生まれながらに父親殺しを運命づけられた』と彼女は嘆いてた。
それが事実だとしたら、やはり神に慈悲はないらしい。
だがそれは同時に、彼女が魔王を倒す運命を持ち、それを成す為に今もこうしている事を意味していた。
――彼女を助けなければならない。
そんな決意を、心の奥で固くしていた。
「起きてるんでしょう?
魔族の嗅覚を舐めない方が良いわよ?」
リーゼロッテの声に、ヴィルケ王子は戸惑った。
起きるべきか、寝たふりを続けるべきか。
自分以外、近衛騎士の誰かが起きている事に気が付いたのかもしれない。
一瞬大きく戸惑い、身体が硬直した。
「名前を告げた方が良いかしら?
ヴィルケ王子。
感情が漏れているわ」
諦めたヴィルケ王子が小さくため息をつき、上体を起こした。
「……いつから気が付いていたんですか」
「まさか、気が付かれてないとでも思っていたの?
魔族がこの距離で人間の感情に気が付かない訳がないでしょう?
平和ボケは大概にしておかないと、いつか命を落とすわよ?」
ヴィルケ王子が乾いた笑いを浮かべる。
どうやら狸寝入りが一切通用していなかったようだと悟り、自嘲を込めて笑っていた。
「最初から、ということですか。これは手厳しい」
「あなたが寝不足でフラフラだろうと、街に着いたらきっちり王侯貴族の責務とやらを果たしてもらうだけ。
あなたが寝不足だろうとそれは自業自得。
自分の選択で後悔などしていたら、眷属に殴らせて目を覚まさせようかと思っていた程度よ」
これも彼女なりの精一杯の悪態だ。
街についてもヴィルケ王子の仕事なんてたかが知れている。
街中を走り回って民衆を説得するのは兵士や役人の仕事だ。
ヴィルケ王子は精々、広場に人を集めて何度か声を張り上げる程度で良い。
民衆が移送の準備を終えるまで、恐らく一晩かかる。出発は翌朝だろう。
わずかな説得の時間が終わった後に王子が起きていようが、結局やる事など無い。
その後に寝ていようが、何も変わりはしない。
それを理解していて、寝不足だろうと構わないとリーゼロッテは判断しているのだろう。
その事を自覚しているかどうかは分からない――いや、おそらく無自覚だ。その姿に可愛らしさを覚えた。
「誰と話していたんですか。姿までは、私には見えませんでした」
「……彼女は『愛と美の神』と名乗ったわ」
「月の神と話していたと、あなたはそう言うんですか?!」
「ああ、やっぱり人間の間ではそれで通じるのね。
そう、彼女は『これは影だから、神の気配まではもってこれない』と言っていたわ。
なんとかして彼女の気配を私は知らなければならない――
ヴィクターに知られないようにね」
――何度か彼女たちが口にしていた名前だ。
確か、彼女の副官の名前だったはず。
頼りにならない国王の代わりに現場で統治の采配の辣腕を振るう、有能な男だと聞いた。
だが月の神の声は『決して油断するな』とも、『王都に安心できる場所はない』とも言っていなかったか。
「あの男に悟られないように――
それが可能だと思いますか?」
「彼は隠遁の魔法が得意技よ。
知られる事なくどこかに潜んで話を聞いている。
確か、盗聴の魔法も得意だと前に言っていたわ。
おそらく、王都中に盗聴魔法を仕掛けているのでしょうね。
苦しい相手よ」
絶望的に近いだろう。
当然、王宮内など網羅されているはずだ。
彼女の住む区画も、全て網羅されていると考えて言い。
「……ヴィクターは、今朝はどうしていたんですか?」
「昨晩、二年半ぶりに念入りに感情を搾り取ったわ。
だからなのか、起きては来なかった。
彼が扉を叩く音に反応しないのだから間違いなく寝ていたと思うし、付いてきても居ないはずよ。
だからこそ月の神が私の前に姿を現したのでしょうね――
あなたも今夜の事は、決して迂闊に口にしないで。
どこから漏れるか分からないわ」
ヴィルケ王子が神妙な顔で頷いた。
「ええわかっています。
ですが強敵です。
どう対応するんですか?」
「北の街で移送が始まるまで、私にやることはないわ。
急に出てきてしまって子供たちも心配しているはずだし、明るくなったら一度王都に戻ってから、アンミッシュの森で食材を調達してくるわ。
その時にドミニクさんを連れて行って、なんとかガートナーさんに繋いで貰おうかと思うの。
アンミッシュの森なら、盗聴される心配もないはずよ――
あなたたちは先に移送準備を進めておいて。
明日の朝までには戻るわ」
「……わかりました。
こちらも明朝までに移送準備を整えておきます」
リーゼロッテが頷いた。
「それでお願い。
もうすぐ夜明けね……
それにしても、まさかヴィクターが敵だったとは思わなかったわ」
「それだけ魔王が恐ろしい相手という事でしょう。
あなたは、自分が魔王を倒す決意ができると思えますか?」
「……難しい所ね。
その決断を、私はまだすることが出来ないでいる。
でも倒さなければ人間が滅ぶとも言われてしまった。
きっと、増産と出荷の計画のどこかに穴があるんでしょうね。
その道では人間が滅んでしまうと言われたのよ。
だから私は、例え難しくても魔王打倒の運命に従わねばならないわ。
抗えるものなら抗いたいけれどね」
リーゼロッテの顔が苦悩で歪んでいた。
それほど愛する父親だという事だと、ヴィルケ王子は理解した。
父親を内心で軽蔑しているヴィルケ王子には理解できない心境に、どこか羨ましさすら感じるくらいだった。
「殺さずに済む道が、見つかるといいですね」
リーゼロッテが寂し気な笑い浮かべる。
「そんな道があれば、あの神が提示してきているわ。
お父様を滅ぼさねば人間が滅ぶ。
これはおそらく確定事項よ。
だから私は人間を救いたければ、父親殺しを成し遂げなければならないの――
いいのよ。
私の手はとうの昔に同族の血で真っ赤に染まっている。
今更そこに父親の血が混じったところで、手の色が変わりはしないわ」
己の手を見つめるリーゼロッテの顔に諦観と哀愁が漂う。
彼女は静かに自嘲の笑みを浮かべていた。
ヴィルケ王子は、神の無慈悲さを心底呪った。
何故ここまで美しい魂を持った少女が、これほど血塗られた道を歩まねばならなかったのか。
生まれてから二十年間、同族を殺し続けてきたと自嘲気味に語っていた。
とどめが他種族を生かす為に、愛する父親まで手にかけろと命じられたのだ。
その後の人生を、彼女は重い罪と後悔を背負ったまま生き続けなければならない。
――せめて、自分がその重荷を少しでも分かち合えたならば。
叶わぬ願いだと思いつつも、ヴィルケ王子は強く願っていた。
二人が沈黙したまま、その日の夜が明けていった。