15.慟哭2
リーゼロッテが慟哭する姿を、周囲はただ、戸惑いながら見つめていた。
余りにも哀れで、悲しい在り方だ。
どれほど愛を渇望しても、それが届かないと思い知らされるだけ――救いなど、どこにもない。
望まない道を強いられ、そこから逃れる道も、きっとないのだろうと周囲の男たちは理解していた。
どうにか声をかけたい、慰めたいと願っても、かける言葉を見つける事が出来ずに居た。
ただ彼女の慟哭を、見守り続けていた。
やがてリーゼロッテが疲れ果てるまで泣き尽くし、次第に嗚咽が収まっていった。
泣き止んだ彼女は戸惑うような態度を見せた後、周囲の男たちを見渡した。
「……なによ。
憐れな存在だとでも思ってるの?
人間に憐れに思われるほど、落ちぶれた覚えはないわよ。
私は魔王の娘。
このフードを下げるだけで、あなたたち人間は私に心囚われ、私への愛の下僕になり果てる忌まわしい存在よ。
そんな優しい目で見られる資格なんて、私は持ち合わせていないわ」
ヴィルケ王子が失笑していた。
彼女はその卑しい己の在り方が自分で許せないのだ。
彼女の本質は純朴な人。
心優しく、素直に人を慈しんでしまう人だ。
そんな本質が、卑しい自分を許せないで居る。
そしてその姿に、自分で気が付いていない。
彼女は『自分は真実、卑しく悍ましい存在だ』と、信じて疑っていない。
そんな幼さが可愛らしく思えて、思わず笑みがこぼれていた。
その魂に、清らかさを、そして無垢な姿を見出さずには居られなかった。
「この期に及んで『自分には資格がない』と言ってしまっている事に、あなたは自分で気づいてすらいない。
本当にあなたは清らかで無垢な人だ」
リーゼロッテがヴィルケ王子を悔しそうに睨み付けた。
彼女は言われた意味を理解していない。ただ、笑われた事に憤慨していた。
「……あなた、生意気ね。
国王との約束を破って、あなたを私への愛の下僕へと変えてしまおうかしら」
――まただ。できもしない事を悪態として口にする。
胸の内を全て吐き出しきったリーゼロッテが、再び『魔王の娘』の仮面を被り始めた事に周囲は気づいていた。
だがその仮面は、まだずれたままだ。素顔が半分覗いている。
その事にも、彼女は気が付いていないようだ。
ヴィルケ王子がおどけながら肩をすくめた。
「おお怖い。
フードを下ろされては堪りません――さぁ、日が暮れる前になるだけ先を急ぎましょう。
今夜は野宿になります。
なるだけ良い居場所を取りたいですが、そう言った場所は野盗も狙ってくるでしょう。
くれぐれも気を付けて」
心から彼女の身を案じた言葉だった。
そうなれば自分と近衛騎士が彼女を守らなければならない。
彼女は人間を直接殺せないだけではない。
人が傷付くのを見るのも嫌なはずだ。
そのたびに心を深く傷付けてしまう、そんな人だ。
そんな心優しい彼女に、野盗を追い払う役目など負わせる訳にはいかなかった。
リーゼロッテが目を逆立ててヴィルケ王子に反論する。
「今までの野盗にすら気が付けなかったあなたに、それを言う資格があるのかしら?!
それに私たち魔族は眠る必要はないわ。
不寝番はしておいてあげるから、あなたたち人間は安心してしっかり寝ておきなさい!」
ヴィルケ王子は再び失笑しそうになるのを、ぐっと耐えた。
どうしてこの人は、こうも自然と他者を慈しめるのだろうか。
そしてその事に無自覚で、自分が何を言っているのか理解していないようにも思える。
己の素直な慈しみを、慈しみとして理解していないようだ。
恐らく、この大陸で二番目に強い存在であるという自負が、『弱者を守るのが当然』と思わせているのだろう。
それすら、慈しみなのだという事に気付かないまま。
でも表情はだんだんといつもの元気が戻ってきた。
『魔王の娘』の仮面から覗いていた素顔が、少しずつ隠れて行くのを感じていた。
「ははは!
少しは調子が戻ってきましたか?
ですがまだ足が止まって居ますよ。
さぁ先を急ぎましょう」
ヴィルケ王子の手がリーゼロッテの背を押していく。
こうして無理にでも身体を動かしていれば、もっと早く元気な心を取り戻せるだろう。
「ちょっと!
私は歩幅が小さいんだからそんなにぐいぐい押さないで!
歩き辛いわ!」
リーゼロッテは転びかけながら、必死に足を前に出していた。
その様子がまた愛らしくて、ヴィルケ王子は楽し気に笑っていた。
後ろに続く男たちも、その様子を見て『もう大丈夫だろう』と密かに胸を撫で下ろしていた。
ヴィルケ王子と同様に、微笑ましくリーゼロッテが歩いて行く姿を見守りながら、後を付いて行った。
****
野営に選んだ場所は、街道脇の開けた場所。
近くから薪を拾い集め、火を起こして人間たちの食事の時間だ。
辺りはすっかり夕闇に染まっている。
リーゼロッテはヴィルケ王子たちの食事風景を静かに眺めていた。
近衛騎士が何かに気付き、剣を取ろうとしたのをリーゼロッテが手で制する。
「ミネルヴァ」
ミネルヴァは「ホー。」と一声鳴いて、木の上を白銀の流星が縫うようにして駆け抜けた。
一瞬でミネルヴァがリーゼロッテの肩に戻って来ると、どさどさと鈍い音があちこちから響いてくる。
それと共に、周囲から殺気がすっと消えて行った。
ヴィルケ王子が唖然とミネルヴァを見つめた後、リーゼロッテに尋ねた。
「何が起こったんですか?」
リーゼロッテはその問いにため息で応えた。
「ヴィルケ王子、あなたが野盗だったとして、どんな時の獲物を襲おうと思うのかしら」
「そうですね……やはり油断をしている時、でしょうか。
警戒している相手をわざわざ襲おうとは思いません」
「じゃあ、ほとんどの動物に共通する、一番油断するタイミングがあるのは知ってる?」
「寝てる時、でしょうか?」
「正解は食事中、よ。
手や口が塞がり、食事に意識が向かってしまう分、どうしても周囲への警戒心と対応力が落ちるのよ」
ヴィルケ王子がポンと手を打った。
「なるほど!
――ということは、今のは野盗だったんですか?」
リーゼロッテは再び深いため息で応えた。
「どうしてそこまで殺気に鈍感で居られるのかしら……
あなた、本当にこの荒廃した時代に生まれた人間なの?」
ヴィルケ王子がにこやかに微笑んで応える。
「私は正確には神魔大戦中に生まれています。
ですので、この荒廃した時代に生まれた人間ではない、とお応えさせて頂きます」
リーゼロッテは力が抜けて項垂れた。
つまり、この平和ボケした王子は、少なくとも二十歳以上ということだ。
リーゼロッテは十八前後と見ていたが、実年齢より幼く見えるタイプなのだろう。
こんな平和ボケじゃ、近衛騎士たちは気苦労を重ねてそうだと、密かに心配していた。
そんなリーゼロッテに、ヴィルケ王子が尋ねる。
「なぜ野盗を潰さなかったんですか?
襲われたら潰すんじゃなかったんですか?
今のは威嚇して追い払っただけですよね?」
リーゼロッテは白い目でヴィルケ王子の顔を見つめた。
「あのね……
食事中に血みどろの肉片を見て、美味しく感じながら食事を続けられると思ってるの?
もしかしてあなた、そういう怖い人間だったの?
人は見かけによらないわね」
ヴィルケ王子は楽しそうにリーゼロッテに応える。
「なるほど!
私たちの食事を気遣ってくれたんですね!
ありがとうございます!」
リーゼロッテの頬が紅潮した。
――またこのむず痒い感覚だ!
リーゼロッテは昼間みたいな醜態をさらすわけにはいかないと、なんとか自分を必死に立て直そうと努力していた。
「ちがっ!
そういう意味じゃなくて!
何を勝手に勘違いしてるのよ?!」
「じゃあ、どういう意味で言った言葉なんですか?」
きょとんとするヴィルケ王子の顔をみながら、リーゼロッテは絶句していた。
自然と口から出てきた言葉だった。
その理由を問われても、彼女には説明が付かなかった。
自分で自分がわからなくなり、困惑していた。
遂にリーゼロッテはヴィルケ王子の視線に耐えきれず、ふいっと横を向いて「知らない!」と叫んでいた。
周囲から失笑が漏れ、温かい空気が辺りを包む。
それと同時に、リーゼロッテは甘い香りまで感じ取っていた。
周囲から届けられる未知の感覚を胸に覚え、困惑をさらに深めていた。
どうにも居心地が悪くなったリーゼロッテは「ちょっと辺りを見回ってくるわ!」と叫んで立ち上がり、乱雑に歩き出した。
****
リーゼロッテが野営から離れていく後姿を、近衛騎士が微笑ましげに眺めながらヴィルケ王子に声をかける。
「彼女の後を付いていきましょうか?」
彼は王子の護衛。王子の許可なく傍を離れることはできない。
「いや、頼もしい護衛が既に居るようだ。
それに近づけばすぐに勘づかれる。
あれ以上へそを曲げられると、さすがに扱いに困るから止めておけ」
ヴィルケ王子の言う護衛――ミネルヴァだ。
一瞬で何人もの野盗を追い払って見せていた。
あれも手加減をしていた。襲撃されれば敵が迫るより前に、確実に相手の息の根を止めてみせるだろう。
兵士の一人が微笑みながら語る。
「あのお嬢ちゃん、精一杯悪ぶってますが、とても魔王の娘とは思えない少女ですね。
殿下が仰る通り、心優しい子だ」
少なくともこの兵士は、彼女が野盗を潰さなかった恩恵にあずかった一人だ。
肉塊になった野盗を見ながら食事を続ける自信は、彼にはない。
その心遣いに感謝を覚えていた。
また別の兵士が微笑みながら語った。
「生まれて初めて食べた蜂蜜のおかげで、今日は身も心も充実した一日だった。
あんな王族でも未だ食べられない貴重品を、こちらの体調を思いやって気前よく分けてくれる子だ。
優しくない訳が無い」
自分たちの疲れ具合に気付いて労ってくれる人間は、ヴィルケ王子を含めて王宮にはいなかった。
民衆を守りたいという義務感で必死に身体に鞭を入れていた兵士に取って、あの労いの言葉こそが蜂蜜よりも心に染み入っていた。
平民の兵士たちを労う習慣が、貴族階級の人間には存在しない。
『貴族とはそう在るものだ』という教育を受けている人間に、労いの言葉を期待するだけ無駄なのだ。
だというのに、人間の敵である魔族、それも魔王の娘が労ってくれたという事実に何よりも驚き、そして最も嬉しかった。
それはヴィルケ王子の前では決して口に出せない、兵士たち全員が感じている本音だった。
自分たちの努力を認めてくれる心のこもった言葉こそ、民衆の笑顔に並ぶ報酬なのだ。
彼女はそんな言葉を、いとも簡単に口から出してしまえる少女だと痛感した。
役人の一人が、彼女の去った暗闇を見て語った。
「彼女の言葉に、一時は『所詮魔族か』と憎しみすら感じたが、あの慟哭は紛れもない本物だった。
彼女自身が、彼女の在り方の一番の犠牲者なんだろう」
自分たちに『何故農作業に従事しないのか』と詰め寄った。
その事に苛立ちを感じもしたが、彼女自身が『毎日森に食材を調達に出ている』と告げた。
子供たちを養うだけなら、配給の食材だけでも十分な量が届いているはずだった。
既にそれだけの回復を農業では見せている。
市民たちの健康状態も日増しによくなってきている。
だというのに、それだけでは子供たちの栄養が足りないからと、この国――いや、この大陸南西部で最も権威ある執政官が、魔王の娘が自ら森に出向いているのだ。
貴族だからと王宮で暇を持て余していた自分たちが実に矮小に思え、恥ずかしく感じていた。
彼女はただ愛を求めている訳じゃない。
愛を捧げてくれる存在に、確かに慈しみを与えている存在だった。
それなのに『愛したいのに愛し方も分からない』と嘆いていた。
確かに愛しているというのに、それを自覚できていない。
先ほどの食事に対する気遣いもそうだった。彼女は己の慈愛を自覚できないのだ。
愛の報酬が全て彼女の食糧となって腹に収まり、心に届く事のない彼女は、己の慈愛を実感することができない体質なのだろう。
愛する事、愛される事にこの世で最も敏感で、最も鈍感な生物なのだと思い知った。
近衛騎士の一人が語る。
「我々の剣は、あのような慈愛に溢れる者を守る時こそ誉に感じる。
だが彼女は我々の中で最も強い存在だ。
それが口惜しい」
魔王の娘――この大陸で二番目に強い個体だ。
人間など、何万人居ても太刀打ちできない。それほど個の力に隔たりがある。
そんな存在を守るだなどと、烏滸がましくて口にも出せなかった。
この民衆移送の任務でも、彼女の力こそが最も頼りになる。
何百人、或いは何千人にも上るかもしれない人間を守り切るなど、この人数では不可能だった。
自分たちの役目は、魔族である彼女ではできない事――民衆を説得して回ることだけだ。
道中の民衆の安全は全て、魔王の娘である彼女が確実に守り切るだろう。
彼女は相手が襲い来る野盗だろうと、人間が傷付き、死んでいく事に心を痛める人だ。
そして同時に、どれほど己の心が傷付こうとも、決して民衆が傷付く事を許さない――そんな少女だ。
彼女の代わりに民衆を守る剣となる事が出来ない――そんな不甲斐ない己に、ただ唇を噛んだ。
ヴィルケ王子が苦笑を浮かべる。
「あれほど心が愛に溢れ、清らかで無垢な魂を持ち、それでいて最も卑しく悍ましい存在か。
神は何と罪な存在を地上に使わしたのか。
寵愛を与えた神に問い質したい気分だ」
彼女は『フードを下ろせば、人間などそれだけで虜に出来る』と断言した。
だが現実はどうだ。
フードを下ろさずとも、これだけの人間を魅了して見せた。
計算も自覚もなく、あるがままの彼女の姿を見ただけで、これだけの人間が彼女の心に惚れこんだ。
ああも慈愛に満ち溢れ、純朴な者を見たことがなかった。
その姿に清らかさと無垢さを感じずには居られなかった。
おそらく他の者たちも同じように思ったのだろう。
だが彼女は魔族、それも魔王の娘だ。
人間の感情、しかも愛と歓喜を好んで食べるという。
彼女を愛し、彼女の前で喜んで見せると、彼女はそれを嬉しいと思うよりも先に食欲が刺激されてしまい、心を満たす前に腹を満たしてしまう。
彼女は、決して心満たされる事のない存在として運命づけられて生まれてきたのだ。
あれほど周囲の心を満たしてくれる存在だというのに、その心は満たされる事がない。
なんと無慈悲な神だろうか。
そんな彼女に心が惹かれつつあることを自覚しているが、必死に自制して抑えていた。
一度心惹かれている事を気付かれれば、彼女は食欲が刺激され、自分の感情を貪らずにはいられないだろう。
そうなれば彼女は国王との約束を破る事になってしまうはずだ。
そんな不誠実な真似を、誠実さを尊ぶ彼女にさせるわけにはいかないのだから。
「彼女を救う方法があるとしたら、何があるだろうか。
今はただ、何よりもそれが知りたい気分だ」
ヴィルケ王子が独り言ちた。
周りの男たちも、静かに黙って同意していた。
丸い月が、そんな男たちを静かに照らし出していた。