「無題」
遠くで誰かに呼ばれた気がして振り返った。懐かしい渾名を聞いた気がした。
が、振り返った先、視線の先には誰の姿も認められない。
「……気の所為か」
敢えて口に出し、元来た道に背を向ける。歩みを再開した頃には、先の違和感は嘘のように消えていた。アスファルト舗装の道が無音と極小音の二音でテンポを刻む。偶の鼻息がアクセントになって、……これに鼻歌でも乗せれば、さぞふうな音楽になることだろう。そしてそれは、きっと今の心境を上手く表現しているに違いない。
が、結局メロディが乗ることはなかった。変化の乏しい単調作業を続ける内に、まるで――、と邪念が浮かんできた為だった。
――まるで、秒針だけがから回る時計みたいだ。
自虐を多分に含んだ皮肉だった。それらしい表現をして、悦に浸って、で、酔うことが出来ていたら。
ふいに、胸の内にある心の臓が、その存在を声高に主張し始めた。肉体が出すサインを意識的に無視して歩を進めながら、さらに思考は発展する。
――それが出来ていたら、今頃こんな所歩いてねぇよ。
誰も幸せにならない本音は、誰の耳にも入らないまま溶け消える。既に過去のものだった。
終電に追い立てられるようにしてたどり着いた街もまた、嫌に静かだった。夜の帳が降りきった街で、他者を拒絶するかのような冷たさと重苦しい沈黙が支配する街で、歩いているのは一人だけだった。
等間隔に立ち並ぶ街灯の寒色が滲んでボケて、心を浸食せんとにじり寄ってくる。払い除けようと振るった腕は想像より数段緩慢な動きで虚しく空を切った後、その流れのままだらりと力が抜けた。固結びのようにきつく握っていたはずの拳も、今や指先の一端にさえ力が入らない有様で、これじゃ何も掴めない。
ねえ、と今度は実音を伴う声が聞こえた。恐らくは声変わり前、第二次性徴も迎えていないくらいの、子供特有の甲高い声。どこか聞き覚えがあると感じるのは気の所為か。反射的に周囲を見回そうにも余裕は無く、視認出来る前方向には誰の姿も視認できない。いや、此処には誰の姿も無い。
幻聴だ。
ねえ、と再度呼びかけられる。此方の反応を待つ間も無く言葉が紡がれていく。
ねえ、どうしてそんなに必死に歩いているの?
途端、言葉はバラバラに砕けて分かれて、二十六文字の音として頭を巡り始める。問いの意図を理解することが出来なかった。まるで意味がわからなかった。逃げるように歩を早める。誤魔化すことは叶わなくとも、時間稼ぎにはなるはずだ。
そういうものだから、と答える事は容易だ。大人になったらわかる事だと、切り捨てることも容易い。冷静に考えればそう答えるのは簡単な事のように思えてきた。答えようとして、しかし口からは浅い呼吸音が漏れるのみ。
辛いならやめちゃえばいいのに。休めばいいのに。無理してまで頑張る必要は無いはずなのに。
沈黙の間にも、無知ゆえの無邪気な声が重ねられていく。返す言葉がなかった。道理だと認めてしまえればどれ程楽だろう、と出来もしないことに意識が飛ぶ。よっぽど適当に答えて楽になりたかったが、不誠実な答えは何にもならない事もまた、よく知っていた。
「その理由を探す為に歩いているんだ」
長い時間が経って、ようやく答えられた。コワレモノを置くかのような、細心の注意を払って呟かれた答えは、それがその場しのぎの中身の無いものにもかかわらず、存外らしいものだった。ホッと胸を撫で下ろす姿を幻視する。胸のつかえが取れた錯覚。幻聴はとうの昔に聞こえなくなっていた。
気付けば光の届かないところを歩いていた。両の足を交互に出し続けてきて、もうどれ程歩いてきたかもわからない。でも、なんとなく終着点は近い気がしていた。
道があるかもわからない闇の中を、ただ無心で進む。迷いはなかった。たどり着きさえすれば、全てが変わるだろうことを信じて疑っていない。蓋をされていた感情が呼び起こされ、根拠のない自信と共に小さな灯火となって、胸中を照らしている。
遠くで、ずっと昔に呼ばれていた呼び名を掛けてきた気がした。あまりにも昔過ぎて、それが己を指すものだと理解するのに時間がかかった。いつかどこかと同じように振り返ろうとして、
足が止まっていることに気が付く。
意識した途端、巨大な寒気が大口を開けて襲いかかってきた。ゾッとした、という表現がこれ程マッチする状況は初めてだ。歩かなきゃ、と強く思った。歩かなきゃ、歩いて、答えを見つけなくちゃ。でなきゃ、きっと意味が無くなってしまう。
石像のように、まるではじめからそうであったかのように、微動だにせず、意思に反して不動を貫く肉体。それと対比するかの如くネガティブ方向に高速回転する思考。
そんな両者の隙を縫うように、懐かしい匂いのする一陣の風が優しくなぜた。
ネエ、ドウシテソンナニヒッシニアルイテイルノ?
いつかどこかで聞かれた問いに対して、納得の伴う答えは、ついぞ用意することが出来なかった。こんなはずじゃなかった。後悔の猛毒は、いつの間にか全身にまわっていた。
一筋の光が流れた。
嗚呼、ずっと宇宙と向き合っていたんだなと、頭の片隅でそう思った。