1.0 端緒
不定期の投稿にはなりますが、楽しんでいただければ幸いです
半ばまで崩壊したとある廃墟。今にも崩れそうなその建物の部屋の一画で、私は壁に背中を預けて息を荒げていた。
「はぁ……はぁ……」
辺りに響くガスマスクの独特な呼吸音、体の芯まで揺らす心臓の鼓動、全てが私をパニックにさせる。
私は何とか頭を冷やそうとニ度、三度と息を吸っては吐き出す。私はとにかく『奴ら』に見つからないように気配を殺しながら、その動作だけを繰り返していた。
「痛っ……うっ、結構出血してた……」
ようやく落ち着いてきたところで、肩にずきりと走る痛みに顔をしかめる。見れば、右肩には服ごと裂かれた大きな切り傷があった。
きっと『奴ら』に襲われた時に付けられた傷だ。私はベルトポーチから応急手当用の包帯を取り出し、それを巻きつけて止血する。
しかし、その最中に被っているフードから出ている私の耳が、こちらに近づいてくる嫌な物音を聞きつけた。
「──っ!」
私は反射的に近くにあったボロボロのタンスの影に身を隠す。すると、すぐ頭の上にある窓の前を、何か大きなものが通り過ぎていった。
『奴ら』だ、あの化け物が私を探しているのだ。『奴ら』は魔法で生命の反応を感じとることができるという、ここにいても見つかるのは時間の問題だ。
さほど精度は優れてはないだろうから、すぐには見つからないかもしれない。でも、もう次はない。私は物音を立てないように、何とかこの場から離れようとする。
(まだ私の場所を明確に捉えてるわけじゃないみたい……今のうちに逃げなきゃ)
私は部屋の建て付けの悪いドアを開けて瓦礫が散らばる廊下に出ると、上階へと登る階段を駆け上がる。
たまたま逃げ込んだこの廃墟はかなり大きな建物だったようで、階段の終わりはなかなか見えない。それでも『奴ら』がうろつく地上を走るよりはマシだと思う。
「……っ⁉︎誰っ⁉︎」
階段を登り切ったところにあった部屋に足を踏み入れると、唐突にあるものが目に入る。
色んな道具がくくり付けられたバックパック、フード付きの外套とガスマスク、ショートデニムとニーソックスに膝当て付きのブーツ。そして極めつけは、フードから飛び出る猫耳。
そんな重装備をした褐色肌の猫耳少女が目の前にいるわけだけど、全身をくまなく眺めてからそれが鏡に映っている自分だと気づく。
「なんだぁ、鏡か……びっくりした……」
ほっと胸を撫で下ろすが、廃墟の下の階から聞こえてきた物音にまた心臓が跳ね上がる。もしかしたら『奴ら』が入ってきたのかもしれない。
(どうしよう……もう他に行けるところなんて……!)
今更下には降りていけない。私は部屋にあったカビの生えたソファーや腐りかけた木の机で扉を塞ぐバリケードを拵えると、力なくため息をつく。
もう追い込まれるところまで追い込まれてしまった。後はもう、『奴ら』が諦めて帰るのを祈るしかない。
(やっぱり、私なんかじゃダメだったのかな。ここで……死んじゃうのかな)
私はバックパックを下ろして膝を抱えて座り込むと、腰に巻きつけていた尻尾の毛並みの手入れを始める。これをしていると、少しだけ気持ちが落ち着く。
見ての通り、私には猫耳にこんな尻尾まで生えてる。しかも、尻尾は二本だ。これは、私が獣の血を引いていることを表している。所謂、獣人族という奴だ。
その上、私は《《呪われている》》。尻尾が二股に分かれているのはそのせいだ。
(呪われてる、か……この街も、呪われる前は賑やかだったのかな?)
私は立ち上がって部屋の窓から外の様子を伺う。外に『奴ら』の姿はなかったけど、代わりに荒れ果て、朽ち果て、人の住めない不浄の地となった街の景色が見える。
私がいるこの廃墟よりもずっと大きな塔がいくつもそびえ立つ街並み。中には半ばから折れて倒壊しているものもあるけど、街にはどうやって建てたのか見当もつかないような巨大建築物が沢山ある。
私がいるこの街の名は『バニンガム』。大昔に、世界中を巻き込んだ大戦の最中に滅んだ旧世代の都市だ。
それが何年前のことなのかはよく知らないけど、私の部屋には完全に白骨化して風化した遺体が転がっている。だから、かなり昔のことなのは間違いない。
(その大昔から、『奴ら』は変わらずこの街を占領している。そんな化け物に、私なんかが敵うわけなかったんだ……一獲千金なんて、夢のまた夢、か)
世界中を巻き込んだ大戦は、あらゆる大地を呪いで汚染し尽くした最悪の兵器が原因となったと言われてる。その兵器こそが、私を探して彷徨いている『奴ら』だ。
地上にいる人間、いや、人間どころかエルフやドワーフも、動物も魔物も含め、ありとあらゆる生命を刈り取る化け物。そんな『奴ら』によってこの世界は滅びたんだ。
「死ぬ前にお母さんの手料理が食べたい……」
独り言が自然と口から溢れてしまうほど、今の私は空腹だった。でも、腹を満たす食料なんてもうない。
一番蓄えがあったあの人は、『奴ら』に喰われて死んでしまった。いや、あの人に限らず、私と一緒にバニンガムにやって来た人たちはみんな死んでしまったけれども。
元々私は、この遺跡都市であるバニンガムに赴いて旧世代の遺物を漁りに来たスカベンジャーたちに、分け前を貰う代わりに仕事を手伝う条件で同行していたのだ。
最初は順調に資材を収集し、瓦礫に埋もれた遺物の回収も進んでいた。しかし、街を巡回していた『奴ら』と出会したところで、私たちの命運は尽きた。
瞬く間に私が同行していたスカベンジャーたちは『奴ら』に惨殺されたけど、皮肉にも皮肉にもこのバニンガムに足を踏み入れた私だけが逃げ延びた。
彼らは私を獣臭いガキなんてバカにしてたけど、私はその獣の血に宿る本能のおかげで助かった。それかビギナーズラックってやつなのかな。
とはいえ、助かったのはその場だけで、私は延々と『奴ら』に追い回されて逃げ惑った果てにこの廃墟に追い詰められてしまったのだ。
もしあのまま遺物を持ち帰れてたら、少しの分け前だったとしてもかなりの金が手に入ったはず。スカベンジャーの仕事は危険な分、見返りも大きいのだ。
(はぁ……取らぬ狸の皮算用、か。実際はこのまま野垂れ死にそうなのに……)
もちろん、私はこんなところで死にたくない。あんな悍しい化け物たちに喰われて死ぬなんて嫌だ。でも、私には『奴ら』と戦う力なんてない。
ただ祈るだけ、それしかできない。『奴ら』が私を見失って何処かに行ってしまうか、正義のヒーローのような誰かがこの窮地を救ってくれるか。そんな、都合の良いことが起きないかと……
もちろん、そんなことありはしないと分かっていてる。現実がどれだけ非情かは骨身に染みている。それでも願わずにはいられなかった。
(でも、こういう時は誰に祈ったらいいんだろう。神様は……もし神様なんてものがいたのなら、世界はこんな風に酷いことに──っ!)
普通の人よりずっと遠くの音も聞き取れる私の猫耳が、建物の外で響いた何かの音を捉える。私は恐る恐る窓から外の様子を伺うと……
『Zee……?』
窓の向こうには、窪んだ眼孔の灰色の仮面をした何かが私を見ていた。私は息を呑んで、逃げることすら忘れて呆然と窓の向こうにいる仮面の化け物を眺めているばかりだった。
「……っ、あ……!」
『……Zie!』
窓ガラスを突き破って、私の目の前まで首を伸ばす化け物。そして、仮面が二つに裂かれると、その下に隠されていた牙が立ち並ぶ獣の口が露わになる。
それが私の頭を噛み砕こうと大きく顎を開いたところで、私はようやく我にかえった。
「──ひいっ⁉︎」
咄嗟に尻餅をつくように後ろに転がると、目の前で化け物の顎が勢いよく閉じる。それからはもう、私は無我夢中で化け物から逃れようと走り出していた。
置いていたバックパックには目もくれず、扉を塞いでいたバリケードを退かして登ってきた階段を転がるように降りていく。そして、半壊した廃墟から飛び出すと、荒れ果てた街の通りを全力で走った。
後ろからは、アイツが追ってきているのが分かる。その息遣いが真後ろまでに迫って来ているようだ。
「はぁ、はぁ……あっ!」
ひたすら通りを走る私は、前に踏み出そうとしていた足を済んでのところで引っ込める。何故なら、目の前に通りには、そこから先がすっかり途切れてしまっていたからだ。
大地の亀裂、街を引き裂くそこの見えない深い谷が目の前に広がっていたのだ。きっと呪いによる地殻変動で生じたものだ。
(どうしよう、迂回しないと……っ!)
この谷は飛び越えるにはあまりに大きすぎる。間隔が狭まっている場所で超えるか、またどこかの廃墟に身を隠すか……いや、もうそんなことをする余裕はない。
『Zie……』
先ほどと同じ奇妙な呻き声。私が後ろを振り向けばやはり、すぐ目の前にまでアイツがやって来ていた。
ひょろりと長い腕と首、鳥のような折れ曲がった脚、全身を覆う鎧と甲殻。背中から突起物のように生えるパイプと、眼孔が象られただけの仮面。異様な風体をしたこいつこそ、この街を、世界を滅ぼした最悪の兵器だ。
あらゆる生命を刈り取るために、大地を汚して歪める呪いを振りまく人形。ただ下された命令を実行するだけの空っぽの甲冑。『儡鎧殻』、それがこいつらの呼び名だった。
四つん這いになって虚な眼孔で私を見据える儡鎧殻は、今にも私に飛びかかって来そうだ。私の手元にある武器は小さなナイフだけ、こんなものでどうにかなるはずもない。
それでも、不思議と私は次第に恐怖心が薄れていっていた。代わりに、煮えたぎるような怒りが、ふつふつと湧いてくる。
(そうだ、全部こいつらのせいだ……世界がこんなに理不尽なのも、お母さんが死んだのも、お父さんと兄さんが帰ってこなかったのも……!)
こんな化け物が作られたせいで、こんな化け物が戦争に使われたせいで、世界はこんなことになってしまった。全て私の前にいるこいつのせいなんだ。
そう考えると、私はもう感情を抑える事ができなかった。
「アンタたちがいても、誰も幸せになんかならないっ……! 呪いをばら撒いて汚染するだけの人形のくせに! 返して、アンタが奪っていったものを返してよ!」
『……Zu?』
儡鎧殻に人間の言葉なんて通じない、そんな事は分かっているけど叫ばずにはいられなかった。それに対して、返事の代わりと言わんばかりに儡鎧殻は腕を伸ばすと、細い指で私の首を掴み上げた。
「うあっ⁉︎は、離してっ!」
少しずつ強まる圧迫感に、私はナイフを振り回して必死に抵抗した。普段なら口にしないような汚い言葉で罵りながら、儡鎧殻の腕にナイフを突き立てた。
それが如何に無駄な行為だったかは、すぐに欠けて刃こぼれしたナイフが物語っていたけれども、私は抵抗をやめなかった。でも──
『Zie……Zie、Zu』
「あっ、が……!」
次第にナイフを握る手から力が抜け、ぼやけていく視界の中で、私は漠然とした『死』を感じていた。いつかはやって来ると思っていた瞬間は、いとも呆気なく訪れた。
結局、私がどれだけ足掻いても儡鎧殻には傷一つ与えられない。やっぱりこの世界は残酷だ。弱い奴は強い奴に喰われるだけ、世界が滅んでもそこは変わらなかったということなんだ。
(私も、私にもあの鎧があれば……こいつらをやっつけられたかもしれないのに。私が女じゃなくて男だったのなら、もっと戦うことができたのかも……ごめんなさい、お母さん……!)
首を締め上げる儡鎧殻の力はなお強まり、私の意識は次第に暗闇へと落ちていく。そんな私の頭の中では、走馬灯のように今までの記憶が駆け巡る。
しかし、そんな私を現実に引き戻すように、何かの鳴き声が響いた。儡鎧殻のものではない、もっと高らかでしゃがれた鳴き声だ。
(……あれ、は……カラス……?)
完全に意識を失う直前に、私は見た。灰色の空に舞う一枚の黒い羽を、私は確かに見たのだ。それを証明するように、再びカラスの鳴き声が辺りに響き渡った。
そして、地面にそっと落ちて来た羽の後を追うように、黒く大きな何かが空から落ちて来た。ボロボロのマントを翼のようにはためかせるそれは、地響きを立てて私の前に降り立つ。
「よく踏ん張った……後は任せろ」
くぐもった男の人の声が聞こえたかと思えば、私の首を掴み上げる儡鎧殻に凄まじい衝撃が走り、私は儡鎧殻の指から解放されて地面に崩れ落ちる。
しかし、一度手放した意識を引き戻すことはできず、私の視界はそのまま暗転していく。それでも、ガスマスク越しに私の目には、空からやって来たその人の後ろ姿が焼き付いていた。
滅びた旧世代の技術の粋が集められた、機械仕掛けのスケアクロウ、黒羽の紋章が刻まれた『魔導鎧殻』。それを纏ったスカベンジャーの後ろ姿は、私の憧れそのものだった。