現実
ぱちり、と瞼を開けると、カーテンから差し込む光の色は、もうオレンジ色だった。俺はベッドの上で体を起こして、床に転がっていたスマートフォンを引っ張り寄せ、時刻を確かめる。……午後、四時十三分。不登校の俺は寝る時間も起きる時間もいつもバラバラだったけれど、こんなに遅い時間に起きたのは随分久しぶりだった。俺はぼりぼりと後ろ頭を掻いてベッドから這い出ると、階下へと降り、用意されていた朝食なのか昼食なのかよくわからない食事をとった。それから風呂を済ませ、まだあまり隙間のない状態の胃袋に夕食を詰め込むと、あっという間に、午後八時がやって来る。
午後八時から午後十一時までというのが、俺に設定された『ゲーム』のプレイ時間だった。この時間以外はゲームが起動できないようになっているので、俺はルーティンのように毎日午後八時になった瞬間ベッドの上に寝転がり、サングラスみたいなVRゴーグルをすちゃっと目元に装着して、ゲームの世界へと旅立っていた。今日も当然、俺は同じ動きをする。
『エラーコード:003』
「!」
しかしその日俺の目に飛び込んできたのは、いつもの起動画面じゃなかった。慌ててVRゴーグルを外して、部屋の隅に置いてある四角い箱型のゲーム機本体を確かめるけれど、電源ランプも、無線LANのランプもしっかりと点灯している。
「……」
嫌な予感がした俺は、一旦本体のボタンをかちかちと操作して、違うゲームを選択してみた。VRゴーグルを目に当ててみると、選択したゲームは、通常通り起動する。……やはり、ゲーム機自体が壊れたわけではないようだ。
「……クソッ!」
俺はVRゴーグルを外すと、ベッドの上に叩きつけた。自分の考えが甘かったということに今更ながら気が付き、ぎりりと唇を噛む。
俺は昨日ゲームの中で、本当の現実を思い出すという、初めての体験をした。だけど次の日再びゲームの中に入ればまた現実を忘れ、今まで通り自由にゲームを楽しむことができると、そう思っていた。しかし、結果はこの有様だ。ゲームは、起動すらしない。
このゲーム機は、常にインターネットに接続されている。きっと病院側が、治療の中断か、方針の変更なのかはわからないけれど、遠隔操作でゲームを停止させたのだ。俺は思わず、頭を抱える。まさかそこまで、病院側がゲームに介入してくるとは思わなかった。昨日のあれは、一種のアナウンスみたいなものだったのだろうか。
俺は呆然と、ベッドの上に投げ捨てたVRゴーグルを見つめた。ああ、もう本当に夢のように、あの世界は俺の前から消えてしまった。その実感が急激に沸いて来て、俺はばたりとベッドに突っ伏した。ゲームがない俺の世界なんて、ただ息を吸って吐いてるだけのものじゃないかと、本気でそう思った。
そのままずっとベッドの中で毛布に包まって、ふてくされていたかった。だけど不幸なことにその日は通院日だったため、俺は朝の九時頃にはむくりと起き上がり、出かける準備をしなければならなかった。
十二月の冬の空は厚く雲が垂れ込めていたけれど、降り注ぐ日差しは白く眩しくて、平日の昼間にうろうろしている俺を責めているようで不快だった。俺はぐっとマフラーに口元を寄せると、できるだけ俯き加減で歩いた。
電車に乗って七、八分程揺られると、目的の駅に到着した。そこから再び二分程歩くと、真っ白で四角いどっしりとした建物、大学病院が姿を見せる。中へと入った俺はエレベーターに乗ると、もうすっかり慣れた手つきで三階のボタンを押した。『心療内科』と案内が表示されたその階へと降り立つと、受付を済ませ、コートやマフラーを脱ぎながら、待合室でしばし待つ。するとやがて案内の電光掲示版に俺の受付番号が表示されたので、その指示通り、『診察室2』と書かれたスライド扉を引き開けて、中へと入った。
十畳ほどの広さの診察室は白を基調としていて、入り口から見て右側には簡易的なベッドが一つ、左側にはパソコンやら本やら書類やらが雑多に置かれている小さめの机がある。中央には患者が座る丸椅子と、先生が座る背もたれのついた立派な椅子が置かれていて、その一方にはすでにいつものように、白衣を着たスレンダーな体型の女性が腰掛けていた。
「やあ、久しぶり。いつも暗い顔してるけど、今日はいつにも増してひどい顔してるね、秀」
にやり、と口元を吊り上げて、白衣の女性は悪びれる様子もなくそんなことを言ってくる。
「それは……そうですよ。ていうかゲーム止めたのそっちでしょう……」
俺はガラガラとスライド扉を閉めて、丸椅子に腰掛けながら負けじとそう言葉を返した。この目の前に座る白衣の女性が、俺の主治医である、精神科医の松岡木葉先生だ。顎の辺りで真っ直ぐに切り揃えられた黒髪のストレートヘアをしていて、年齢はおそらく三十歳手前くらい。精神科医というわりにズケズケと物を言ってくるので、俺はこの人のことを結構苦手としていた。根は悪い人ではないのだろうということはなんとなく伝わっていたけれど、とにかく、デリカシーに欠ける物言いをする人なのだ。
「ん? いや、だってもうゲーム内でのコミュニケーション訓練は十分だからね。陽色も言ってたでしょ? 今度は現実で会おう、って」
「……っ、え? なんでヒイロ、っていうか台詞まで……」
そこまで言って俺は、ハッとした。ゲーム内にいた生身の人間は、俺だけじゃない。他の患者と、それと……。
「っ、まさか、ヒイロは、松岡先生だったんですか?」
「ん、違うよ?」
しかし俺の予想は、あっさりと松岡先生に否定された。あれっ、と、肩透かしを食らった気分になる。
「私はケンヤだよ」
「ええええ」
からの、いきなりの爆弾発言だった。嘘だろ。俺はあのすらりと背が高くて、ガタイのいい体つきをしたケンヤさんのことを思い浮かべる。現実の松岡先生と、性別も性格も全然違うじゃないか。
「たまにしか顔を出せなくて悪かったね。私も君だけ担当しているわけじゃないからさ。まあでも、大まかな舵取りはしたはずだよ」
その言葉に、俺はゲーム内でのことを思い出す。たしかに重要なイベントを取り仕切っているのはケンヤさんだったし、俺が現実を思い出すきっかけになった中学校のチェックの仕事を持ってきたのも、彼だ。俺はまんまと、松岡先生の手のひらの上で転がされていたのだ。
「ナオキとかアスカとかランとか、あと秀が下宿してたシルバとかカイルとか、そこらへんは全部NPCだね。すげーよな、現代技術。AIなんて全然見分けつかないだろ」
「ええ……っ」
ぶわあああっ、と滝のように押し寄せてくる情報に、頭がオーバーヒートを起こしそうだった。俺が長い時間を共に過ごした、お調子者のナオキも、姉御肌なアスカさんも、努力家のランも、人工知能だったって? じゃあ人間の定義ってなんなの、と思ってしまうくらいの、衝撃の事実だった。
「と、まあ私はケンヤなんだけど、なんで陽色の台詞を知ってたかというとね、会話のログが全部残ってるんだ」
松岡先生はそう言うと、ふっと乱雑な机の上に置かれた、大きなデスクトップパソコンのディスプレイへと目を向けた。今は画面が暗いままだったけれど、きっと起動すればこのパソコンから、俺のゲームデータへとアクセスができるのだろう。
「君はゲームの中だと、態度もでかいし言葉も荒くなるね。現実でもそんな感じでふるまえばいじめられないんじゃないの?」
「……っ!」
そう指摘され、俺はかっと顔を赤くした。たしかに俺はゲームの中だと、普段よりも気が大きくなる節があった。だけどそれが現実でも再現できるかというと、そう簡単にはいかない。それに、会話内容がすべて筒抜けだったという事実にも、かあっと顔から火が出そうなくらいに恥ずかしさが込み上げた。するとそんな俺の表情を見てか、松岡先生は言い訳のように口を開いた。
「言っておくけど、すべての言動を見ていたわけではないよ。私もそこまで暇じゃない。ただ、治療の進退に関わりそうな、重要そうなところだけはチェックさせてもらった」
「……」
そんな風に言われてしまえば、何も言い返せない。俺は顔を俯けると、唇を尖らせた。するとそこで、俺はヒイロの正体がまだ判明していないということに思い至る。松岡先生はさっきナオキ達をNPCとして挙げていたけれど、そこにヒイロの名前はなかった。
「……ヒイロは、一体何者なんですか?」
「彼女は血の通った、生身の人間だよ。まあ、私の患者ではないけれど」
NPCでもないし、患者でもない。松岡先生のその言葉は、ヒイロがゲーム内で言っていた主張と一致していた。だけどそれを聞いても、俺の中にはまだ疑問が残る。俺がプレイしていたこのゲームは精神領域の治療のために用いられる特別なもので、市販されている遊戯用のものではない。患者でもないヒイロが、なぜこのゲームをプレイしていたんだ?
「陽色も君の事情については知っているからね、君も陽色の事情を知る権利はあるだろう。彼女から許可ももらっているし」
「……」
その松岡先生の言葉に、俺はつい背筋を伸ばした。なんとなく、松岡先生の表情が真剣味を帯びたように見えたのだ。
松岡先生はそんな俺の目をじっと覗き込むと、ゆっくりと、話し始めた。ヒイロという、この世界にたしかに存在する、女の子の話を。
私と陽色が出会ったのは、勤務先であるここではない、別の病院でのことだった。野暮用でそこを訪れていた私は、用事を済ませた後、中庭のベンチに腰掛けてコーヒーを飲んでいた。季節は秋で、黄色や橙色に染まった木々の葉が、風に揺れてははらりと舞い落ちる。そんな様子をぼうっと見つめていたら、ふいに、女の子に話しかけられた。
『休憩時間ですか?』
私は白衣を着ていたから、この病院の医師だと思ったのだろう。私はこことは別の病院の医師で、用事があって来たのだということを簡潔に彼女に伝えた。すると彼女はベンチの隣に腰掛け、人懐っこい笑顔を浮かべながら、またグイグイと世間話を始めた。子供の相手をしてやるつもりなどなかった私は、正直面食らった。だけど同時に、興味が沸いたのも事実だった。彼女はどう見ても小学生か中学生くらいの年齢に見えたし、この日は平日の昼間で、誰かの見舞いに訪れるような時間帯じゃない。だとすると、考えられるのは一つ。彼女自身が、この病院の患者だということだ。
話に適当に相槌をうちながら、私は彼女の体を観察した。身長は百五十センチ半ばくらいで、華奢なほうではあるけれど特別痩せているわけでもない。顔色も良いし、目に見える範囲では怪我をしている様子もない。となると自分の分野である精神領域の患者かとも疑ったけれど、彼女の話し振りは明朗で快活で、心を病んだ風には見えなかった。なので進行性の病気の初期の段階かな、と私は勝手に推測を立てる。
彼女は愛想の欠片もない私相手にぴーちくぱーちく好き勝手に喋り倒すと、最後に自分の名前が陽色といって、歳は中学一年生だということを明かした。そして私に、連絡先を交換してほしいと言ってきた。面倒臭いとも思ったけれど、彼女の病名を知りたいという好奇心もあった私は、ついOKした。そうしてそれから少しずつ、私達は、電話やメールでやり取りをするようになった。
するとやがて陽色は、自身の抱える病気や、これまで歩んできた過去について話してくれた。彼女の病気は先天性のもので、未だに治療法が確立されていない、珍しいものだった。命に関わるものではないけれど、それは一生付き合っていかなければいけないという意味でもある。定期的に発作に襲われる、ちょっと厄介な症状の出る病気だった。
具体的にはどんな症状が出るのかと言うと、まず発作が起きると、全身の筋肉に急激に力が入らなくなる。当然立っていられなくなるのだけれど、それより辛いのは、呼吸器系の筋肉も上手く動かせなくなるということだ。地上にいるのに溺れているような苦しみを、彼女は数分間、定期的に味わわせられる。そしてこの発作が原因で、陽色は、学校へと通えていなかった。聞くと発作は大体二週間に一回くらいの頻度で起き、前兆のような症状もなんとなく感じることができるので、事前にある程度は備えることができるらしい。それなら学校に通っても大丈夫そうだとも思えるけれど、それが実現できない原因は、彼女の過去の出来事にあった。
そういった事情を抱えていた陽色の小学校生活は、ヘルパーを伴ってのものとなった。発作が起きた際には落ち着くまで傍で見守り、急に倒れたときには怪我をしないように支えることなどが、ヘルパーの主な役割だった。もちろん仕事だからヘルパーもしっかり気を張っていたとは思うけれど、生意気盛りな元気の有り余っている子供相手だし、休み時間なんかだと常にべったりと張り付いているというのは相当大変なことだっただろう。それに当時は前兆のような症状も感じられなかったそうだから、本当に、元気に飛び回っていた次の瞬間に発作が起きたりしたそうだ。そして運悪くそれは階段で起きて、ヘルパーも支えきれなかった。階段から落ちた陽色は、頭を何針か縫う怪我をしたらしい。
そんな事故が起きてしまったものだから、学校側もヘルパー側もまたこんなことが起きたら責任を取りきれないと言って、陽色の通学を禁止した。そこで母親は仕事を辞め、自らが付き添うことでなんとか娘を学校へと通わせ続けた。だけど、不幸は続く。陽色が小学三年生のある日、父親が急病で亡くなったのだ。生活のために母親は働かざるをえなくなり、陽色に付き添うことができなくなる。他にも色々と手は尽くしたそうだけれど、やはり難しい面が多かったらしい。結局それから陽色は学校へは行かず、勉強は通信教育で済ませ、ほとんどの時間を家で一人で過ごす、という生活をすることになった。ここまで聞けば、初めて会った時の彼女の様子にも納得がいく。陽色は私なんかに話しかけようと思ってしまうくらい、常に人恋しかったのだ。
「陽色のそういった事情を知った私は、彼女に新しい世界をあげたいと思ったんだ。現実のしがらみから解放された、まるで夢のような、もう一つの世界を。そう、それが君の治療にも使われた、『ゲーム』だよ」
「……」
ヒイロという少女に降りかかった壮絶な人生の一端を聞き、俺は絶句した。ヒイロは学校に行きたかったけれど、行けなかった。それを知ると、逃げるようにして学校へ行かなくなった自分がとてもわがままな人間のように思えてきて、俺は膝の上でぎゅっと両拳を握り締めた。
「同年代の人間と会話することは治療にも良い効果をもたらすと主張して、病院側を納得させたんだ。なんとか無事に無償で、陽色にゲームを与えることができたよ。そしてちょうど同い年だったから、秀にぶつけてみることにしたんだ。まあ、特に細かい指示はしていないけれどね。こういう事情を抱えている子だから、少し気にかけてくれ、とは言ったけれど」
その松岡先生の言葉に、俺はゲーム内で、初めてヒイロと出会った時のことを思い出す。あの鮮烈な出会いは、偶然ではなかったのだ。俺とヒイロはそれから、ほとんど毎日を一緒に過ごした。ヒイロはずっと、俺の治療の一端を担ってくれていたのだ。
「陽色にとっても、あの世界は楽園だっただろうね。発作を気にすることなく、自由に動き回れるんだから。……だけど、あの子は強いね。この治療を受けている患者は、ほとんどがゲーム内の設定を信じ込み現実を完全に忘れるようになるのだけれど、陽色はゲームだということを決して忘れなかった。……ああ、別に秀を責めているわけじゃないよ。むしろゲームの世界を現実だと思ってもらうことで、治療に都合のいい面もあったからね」
「……」
俺の頭の中はもう、ゲーム内の、あの銀髪の少女のことでいっぱいだった。現実を忘れて、ゲームに逃げた俺とは違う。生まれながらに宿命を背負いながらも、彼女は決して、負けなかった。
「……っ、ヒイロは、今どうしてるんですか? 昨日とか……今日もゲーム内に? 今度は、別の患者の治療に取りかかってるんですか?」
俺がそう尋ねると、松岡先生は、はっきりと表情を曇らせた。
「いや、あの子も秀がゲームをやめて以来、ゲームをプレイしてはいないよ。陽色のゲームは停止させていないから、環境としてはいつでも再開できるんだけど……やっぱり、思うところがあるんだろうね。秀はゲームを奪われたのに、自分だけプレイし続けることなんてできない、って。それに、本当にあれで良かったのか、っていう葛藤もあるみたいだ。もっと上手く、秀の助けになるようなことが言えたんじゃないか、って」
「……っ」
じわりと、俺の中から何か熱いものが込み上げてきそうになった。俺とヒイロは、所詮ゲームの中でしか会ったことはない。だけど俺はこの一年、毎日ヒイロと言葉を交わしていた。そのやり取りの大半は、どうでもいいような、他愛のないものだ。だけどそれは、俺にとっては宝物のような時間だった。たかがゲームの中での出来事だなんて、簡単には言い捨てられないほどに。
「……さて、そろそろ、君の話に戻そうか。ゲーム内でのコミュ二ケーション能力向上訓練は、ここで一旦終了だ。これからは、現実で人に慣れる練習をしていこう。と、いうわけで、まず手始めに、現実で陽色に会ってみたらどうだ?」
「……嫌です」
俺が即答すると、松岡先生は驚いたように目を見開いた。そして眉間に皺を寄せて、物分かりの悪い子供に言い聞かせるような口調で再び話し始める。
「どうして? さっきも言ったけれど、彼女は君の事情だって知っているんだ。まったくの初対面の人と話すよりも……」
「だって、恥ずかしい」
その松岡先生の言葉を遮るようにして、俺はぼそりと呟いた。すると松岡先生は俺の顔を見て、はっとした表情になる。
「今のままじゃ……恥ずかしくて会えないです。立派な人……になるのは、無理だけど。せめて、人並みの生活が送れるようにならないと、ヒイロには、会えない」
俺はそこで、ふーっと、深く息を吐いた。俺が一年ちょっと前まで通っていたあの学校は出席日数の関係でとっくに退学になっていて、今は公立中学校に籍を置いている。だからそこに俺をいじめた奴らはいないけれど、これからいきなり毎日学校に通うというのは、やっぱり少し勇気がいった。
「だから、まずは、保健室登校とかからかな……」
俺がそう言って天を仰ぐように少し体を反らすと、松岡先生は、ふっ、と優しい微笑みを浮かべた。その表情は松岡先生にしては珍しく、ちゃんと精神科医ぽかった。
「そうだな。できることから、少しずつ始めていこう」
雨上がりの空に金色の光の筋が差し込む中、俺は通い慣れた大学病院の自動ドアをくぐり抜けた。季節は六月で、つい先日衣替えが行われたばかりだ。俺は水色のカッターシャツに、青いストライプのネクタイ、グレーのスラックスを身に纏っていて、傍らにはスクールバッグを携えている。まっすぐにエレベーターへと向かうと、三階のボタンを人差し指で押した。ボタンは黄色に点灯し、俺一人を乗せた箱はゆっくりと上昇していく。
俺があの『ゲーム』を失ってから、もう一年半が経った。当時は中学二年生だった俺も、現在は高校一年生だ。あれから俺は保健室登校を少しずつ始め、中学三年生に上がる頃にはきちんと教室へと行けるようになっていた。正直それは、ゲームをプレイしていたおかげだったと思う。NPCである人工知能相手がほとんどだったとはいえ、毎日会話をしていたことで、自然とコミュニケーション能力は向上していたのだ。
受験をしてこの春から通い始めた高校にも、俺は毎日ちゃんと行けている。人気者なんてのはさすがに程遠いけれど、友達もちゃんとできたし、目標であった人並みの学校生活は送れているはずだ。
三階に到着し、エレベーターの扉が開く。俺はいつものように『心療内科』と表示のあるカウンターで受け付けを済ませると、待合室の椅子へと腰掛けた。こうして学校へときちんと行けるようになってからも、俺は月に一回ほどの通院を続けていた。というのも、家族でも友達でもなく話を聞いてくれる第三者というのは、自分にとってわりといいものだと気が付いたからだ。以前は苦手と感じていた松岡先生だったけれど、良くも悪くも慣れたのだ。
するとガラリと中待合へと繋がるスライド扉が開いて、白衣姿の松岡先生が姿を現した。俺が立ち上がって会釈をすると、松岡先生はじとっとこちらに視線を向けた。
「おっと、今日は夏服か。なんていうか、君にそういう活動的な服は似合わないね」
「……放っておいてくださいよ。制服なんだからしょうがないじゃないですか」
俺が唇を尖らせると、松岡先生はけらけらと笑った。本当に相変わらず、精神科医なんて思えないくらい、口が悪い。
「まあいいや。陽色、もう中で待ってるよ」
「!」
と、松岡先生がくいっとスライド扉の方を指差したので、俺の心臓はドクン、と跳ねた。……そう。俺は今日これから、現実ではじめてヒイロと会うのだ。俺が学校へと行けるようになったのはもう随分前だったけれど、受験が控えてるとか、終わったら終わったで高校生活に慣れてからとか、どんどん先延ばしにして、結局こんなにも遅くなってしまったのだった。緊張でじわりと、掌に汗が滲む。
「とりあえず……三十分くらいかな。時間になったら知らせにいくから、それまでまあゆっくり話すといいよ」
「っ、え、えっ、あの、松岡先生は、一緒にいないんですか?」
ちらりと左腕に嵌めた腕時計を見やってそんなことを言う松岡先生に、俺は驚愕の表情を向ける。てっきり再会の場には、俺とヒイロの共通の知り合いでもある松岡先生が同席してくれると思っていたのだ。
「ん? そんな野暮なことはしないよ。積もる話もあるだろう? ほら、女の子をあんまり待たせるんじゃないよ」
松岡先生はドンッ、と、俺の背中を乱暴に押す。心細いとは思いつつも、たしかにあまり待たせてしまうのは良くないと、俺はスライド扉へと向かって歩き始めた。取っ手へと手を掛けた俺に、「診察室3」と松岡先生がぼそりと告げる。俺は頷きを返すと、ガラガラとスライド扉を開けて、中待合の通路を奥へと進んだ。
「……」
呼吸は荒くなり、心臓はドクドクと早鐘を打つ。……一年半。ゲーム内でヒイロと別れてから、それだけの月日が経った。向こうは俺を覚えてくれているだろうかなんて、そんな不安が今更ながら胸を過ぎる。俺は『診察室3』と書かれた扉の前に辿り着くと、ふーっと、一度大きく息を吐いた。多分この緊張は何をしても消えてはくれないので、意を決して、トントン、と、扉をノックする。すると中から、「はーい」と女の子の声がした。ガラリと、俺はドアを引き開ける。
そしてまず俺が一番最初に思ったことは、あ、髪の毛銀色じゃないんだな、だった。当たり前と言えば当たり前だ。ここはゲームの中じゃないんだから、そんな奇抜な髪色をしているわけがない。彼女はおそらく地毛である、茶色がかったロングヘアをさらりと靡かせて、こちらに振り返った。その顔を見た瞬間、俺の口元には、ふっと笑みが浮かんでしまう。なぜならそこには、ゲーム内と同じ、弾けるようなヒイロの笑顔があったからだ。
「「久しぶり」」
その言葉は、二人の口から同時に発せられた。
一度は離れてしまった二人の時間も、こうして再び交わった。
俺と君との物語は、きっとここからまた始まる。
今度こそ、この『現実』という世界で。