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王都

 グルルルル、と俺の目の前で唸り声を上げるのは、大きな角を持ち、体を青紫色の体毛で覆われた、鹿に似た見た目の動物。名前は『ニューワ』といって、ここエルクロストの固有種だった。周囲を木の緑と地面の茶色という色彩に囲まれる中、ニューワの目の色だけが血のような真っ赤な色に染まって浮いている。そんなニューワがフガ、フガ、と興奮しているように荒い呼吸を繰り返したのを見て、俺はばっとコートの裾を翻して後ろへと飛んだ。次の瞬間、ニューワは頭をぶんぶんと左右に振り、大きな角を暴れさせる。数秒でその動きが治まったのを確認すると俺は再び距離を詰め、右手に握り締めた黒い剣でニューワの背中を斬りつけた。グルアッ、とでもいうような鳴き声が上がり、黄緑色のライトエフェクトが弾けたかと思うと、ニューワは細くしなやかな足を折り、地面へと崩れ落ちる。そしてふわりと血の色の光球がその体から抜け、天へと高く昇っていった。

「おーし、完璧。中型のこいつをここまで落ち着いて倒せるんだから、もう一人でも大丈夫だろ」

 離脱現象を確認した俺がかちゃり、と剣を鞘に収めると、近くで見ていたツンツン頭の男子がぱち、ぱち、と手を叩いた。にかりと人懐っこい笑顔を浮かべるこの人は、少年団の先輩、ナオキだ。

「大型だともう少し手こずるかもしれないけど、基本的にやることは一緒だよ。攻撃の前兆動作を見て、回避した直後に反撃。その繰り返し」

 すらっと背が高くスタイルのいい女の先輩、アスカさんも、万が一の為に構えていてくれた銃を腰のホルスターへと収めながら、そんなまとめのような言葉をくれる。俺がこのまるで異世界のような不思議な国へとやって来たのは、今からおよそ二週間前。それからすぐに少年団へと所属した俺は、ここ数日、村の案内やシャドウ討伐といった、少年団の活動のためのチュートリアルをこの二人から指南してもらっていた。俺は腰からキューを引き抜くと、今倒したばかりのニューワの死体へと銃口を向け、転送魔法を発動させる。この一連の流れは、もうすっかり板についていた。

「うーし、それじゃあ、シュウのチュートリアルは、これにて終了ってことで!」

「……! あざっす!」

 俺はナオキの言葉にぱあっと顔を輝かせると、今日まで新人研修として世話を焼いてくれた二人に向かってぺこりと頭を下げた。ついにこれからは、一人前の少年団員としての活動が始まるのだ。自分の力で仕事をこなしてお金を稼ぐという、日本にいたら今の年齢では絶対にできなかった体験がいよいよ目の前に迫り、俺の体は興奮と喜びに包まれていた。

「まあでも、今日はもう終わりにしときなよ。今からじゃアジト行ってもいいクエストは残ってないだろうし、明日の朝早めに行って仕事取るといいよ」

 そんな今すぐにでもクエストへと出発したいという俺の心の内を見透かしてか、アスカさんは苦笑いを浮かべつつそう釘を刺す。たしかに辺りはもうオレンジ色の光に包まれていて、すっかり夕方の時間帯た。これからクエストに行くどころか、そろそろ仕事を切り上げて家に帰ろうかという頃合いだろう。

 俺達三人もその例に漏れず、ぞろぞろと揃って山を下り始めた。すうっと体を撫でる風はひんやりと冷たくて、俺は少し体を震わせる。まあそれでも故郷日本と比べたら、ここユーフォテルダは今の季節でもかなり温かい。こんな風に薄いコート一枚で夕方の山をうろつくなんて、十二月の東京じゃまず無理だ。

「!」

 そんなことを考えながら足を前に進めていると、ふいにガサガサ、という木々の擦れるような音が背後から聞こえてきて、俺達三人は一斉にそちら側へと顔を向けた。見るといつの間にか俺達が通る獣道の真ん中に、一匹のニューワが飛び出して来ていた。しかもその目は、禍々しい赤色に染まっている。

「……っ、まだいたのか!」

 ナオキがスッと、腰に提げている薄荷色の剣を引き抜こうとする。だけどその動きよりも早く、俺達の目の前を銀色の影が駆け抜けていった。

「!?」

 何かと思えば、その銀色の影の正体は少女の姿だった。多分俺と同じ中学生くらいであろうその少女は、長い銀髪を風に靡かせながら、右手に握り締めた剣をニューワに向かって振りかぶる。剣はニューワの脇腹の辺りを捉えたけれど、その反動で少女はわわっ、と小さく声を上げてよろめいた。その直後、ニューワはフガ、フガ、と呼吸を荒げはじめる。まずい、攻撃の前兆動作だ。

「!」

 しかしニューワが銀髪の少女に攻撃を繰り出す前に、閃光のように駆けたナオキが首元に剣撃を叩き込む。続けてアスカさんがバンッ、バンッ、と見事なコントロールで前足に二発銃弾を命中させると、ニューワはぱたりと崩れ落ち、赤い光がふわりと体から抜けていった。俺が剣を引き抜く暇もない、一瞬の間の出来事だった。二人のその素早い反応速度と華麗な連携に、やっぱりすげえ、と俺は羨望の眼差しを向けた。

「おおっ、すごっ! こんなデカいの倒しちゃったよ! さっすが! ねえ、君達少年団の人達でしょ?」

 そしてもう一人、この場にはナオキとアスカさんの戦闘を褒め称える人物が存在していた。それは初めにニューワへと斬りかかっていった、謎の銀髪の少女だ。キラキラと大きな瞳を輝かせてこちらへと近づいてくるその少女は、おそらくロストではなく人間。となると日本から来た開拓民のはずだけれど、俺はその少女に見覚えはなかった。

「そうだけど……。誰? お前」

 ナオキは剣を鞘に収めつつ、ちょっと怪訝そうに眉を寄せる。どうやらナオキも、この少女との面識はないらしい。となると、少年団のメンバーではないということか。少女はナオキの問い掛けに、ふふふ、といたずらっぽい笑みを浮かべる。そして向こうから差し込む夕日の光にきらり、と銀色の髪が反射したそのとき、少女は弾けるような笑顔になって言った。

「ねえ、私も混ぜてよ!」



「シュウ、シュウ、起きて」

「……わっ」

 はっ、と覚醒した意識で顔を上げると、そこには俺を覗き込むように見つめるヒイロの姿があった。その背後に見えるログハウスみたいな木製の壁は、ここがアジト内であることを存分に主張している。俺の両肘はテーブルの上にあり、お尻はしっかりと椅子の上だ。そこでようやく、俺の記憶が今の状況と繋がった。

 ここ数日、俺はヒイロとランと共に、この前のクエストの西の山の山頂付近のマッピングの完成作業に追われていた。小さなメモ片に書き込まれた情報を、大きな一枚の紙に整理する。できるだけ方角や縮尺も正確に作るように心掛けたこともあって、これが地味に大変な作業であったのだ。ようやく今日のお昼前に地図は無事完成したのだけれど、その直後、疲れもあり俺はアジトのテーブルに突っ伏して、今の今まで眠りこけてしまったということらしい。俺はうーん、と椅子に座ったまま体を反らし、バキバキと凝りをほぐす。懐かしい記憶で構成された夢は結構な密度があったから、きっともう夕方になってしまっているだろうなという予感があった。案の定、アジトの壁に掛かった時計に目をやると、時刻は午後五時を過ぎたところだった。

「シュウ、起きたなら早く立って。ケンヤさんの招集」

「……え?」

 ヒイロがくいっと親指を立てたその先を見て、俺はようやくアジトのドアが開け放たれていることに気が付いた。見るとアジトの前、夕空の下には少年団員達が整列していて、未だ室内にいるのはヒイロと俺だけだった。俺はすっかり目が覚め慌てて立ち上がると、ヒイロと共にアジトを出て列の一番後ろへと加わった。

「おし、これで、一応今いるメンバーは全員集まったか? 悪いがいないメンバーには、後で伝えといてくれな。わりと重要な話だから」

 ケンヤさんは俺の姿を見ると、にこり、と穏やかな笑みを浮かべた。ケンヤさんと会うのは、俺達少年団員が命からがら怪獣を倒した、あのクエストの日以来だった。

「ケンヤさん、もしかして、アレっすか? この前カイジュー倒した件で、なんかすげー報酬出たとかっすか?」

 列の一番前でナオキが、そわそわした様子で身を乗り出す。ちらりと聞いた話によると、あの後怪獣の死体は、俺達が収集した山頂付近の植物や動物のデータと共に国の研究機関に渡されたらしい。クエストの報酬はすでに俺達に分配されていたけれど、あそこを開拓するにあたってあの怪獣の討伐は必要不可欠だっただろうから、たしかにナオキの言うように、何か特別な報酬が出てもおかしくはない。

「いや、違う。どちらかというと、悪いニュースだ」

 しかしケンヤさんは、神妙そうに目を閉じて首を横に振る。悪いニュース、という言葉に団員達からは若干のどよめきが上がり、互いに緊張の面持ちで顔を見合わせた。

「実は、少し気になる動きが出てきている。主に王都の方で」

 ケンヤさんは、そうして真剣味を帯びたトーンで話し始めた。王都、エレンサラン。俺達のいるここユーフォテルダよりも西側にある都市で、通信網も発展しており、シャドウ化した動物の出現も少ない。便利で暮らしやすいところだと、噂程度ではあるが聞いたことがあった。

「王都は人間による開発が著しく進んでいるんだが、ロストの中には、それを良く思わない者たちもいるんだ。俺達を支配するな、って、しょちゅうデモが起きてる。そして最近、その動きがかなり活発化してきているみたいなんだ」

「……!」

 ケンヤさんの言葉に、俺達はまるで稲妻に撃たれたかのような衝撃を受けた。ここユーフォテルダの村人達はみんな俺達人間にとても好意的に接してくれているから、あまりそういう実感を持つことはなかった。だけど考えてみれば、今まで自分たちでやってきていたところに人間がズカズカ踏み込んでくるのを、不満に思う人達だって当然発生するだろう。

「今すぐにというわけではもちろんないが、このままの流れで進めば最悪、日本対エルクロストの戦争が勃発する可能性もある。そうなれば、ここで今のような暮らしを続けるのは当然不可能だ」

「な……」

 そして続くケンヤさんの言葉に、俺達は絶句した。戦争、って。教科書やテレビの中でしか知らないような異次元の出来事が、まさか現実に起ころうとしているのか。しかも俺の故郷である日本と、魔法という不可思議なテクノロジーを持つ、この美しい国、エルクロストとの間で。

「だから、みんな次の更新で、一旦日本に帰ったほうがいい」

 ケンヤさんはそう言うと、ふう、と小さく息を吐いた。ケンヤさんが今日俺達をここに集めたのは、これを伝えることが目的だったのだろう。 

 俺達が日本政府により強制的に駆り出された『開拓民プロジェクト』には、最低一年間という期限が設定されていた。それを過ぎた後はまた一年ごとの更新制となっていて、希望すれば残れるし、嫌だと思ったら日本に帰ることができる。開拓民プロジェクトにおいて、異国の地に強制移住なんて、という批判の声が国民からそれほど上がらなかったのは、この期限の存在のおかげもあったのだと思う。まあ一年くらいならいいかな、と、それ程気負うことなくこの世界へやって来た人達も多かったはずだ。

「……でも、戦争なんて、本当に起きますか? 日本には、憲法九条がありますよね」

「それに戦争ってコストだけが莫大にかかって、たとえ勝ったとしてもメリットが少ないから、現代でやるバカはいないって聞いたことあるけど」

 そう口を開いたのは、俺とアスカさんだった。戦争が起きるかもしれないという事実を否定したいという気持ちもあったし、それに何より、俺はこの世界での暮らしが気に入っていたのだ。当然来年分も更新するつもりでいたし、それが脅かされる事態なんてたまったもんじゃない、というのが本音だった。

「お前らの言うこともわかるよ。だけど魔法というテクノロジーは、戦争という手段を使ってでも手に入れる価値があると考えてしまう人がいるくらい、圧倒的なものなんだ。可能性がゼロでない以上、最悪の事態を考えて行動を選択した方がいい。正直、更新システムがいつまで続くかもわからないしな」

 ケンヤさんはそう言うと、少し困ったような笑みを浮かべた。俺達を心配してくれているのだということが痛いほどわかって、それ以上はもう何も言い返せなかった。だけどやっぱり、心には釈然としない思いが沸き上がる。一度日本に帰ってしまったら、再び開拓民に選ばれない限りこの国を訪れることはできない。日本に戻って久しぶりに家族に会えるのは嬉しいけれど、でもやっぱり、せめてもう二、三年くらいは、この世界で気ままな暮らしを続けたいという気持ちがあった。

「そこで、だ。一つ、仕事を取って来た。シュウ、お前更新は来月だったよな?」

「え? あ、はい」

 急に自分単独に矛先が向いたことに驚きつつも、俺は首を縦に振った。そう。来月で、俺がこの国に来てから、ちょうど一年が経とうとしていた。

「ヒイロは、再来月の頭だよな?」

 続いて、ケンヤさんは俺のすぐ隣に立つ、ヒイロへと視線を移す。ヒイロは俺の二週間くらい後に、この世界へとやって来ていた。新人研修を終えたばかりの俺の元へヒイロが闖入してきたあの出会いの場面は、ついさっき夢で見たこともあって、鮮烈に思い出せる。

「王都では学校の建設も進んでいるんだが、そのチェックの仕事を見つけたんだ。学生目線で気になったところを教えてほしいらしいから、お前らにぴったりだろ。ついでに街をぶらついて、その空気を肌で感じて来い。百聞は一見に如かず、っていうしな」

 ケンヤさんはそう言うと、ぴらり、と一枚の紙を俺に手渡した。その紙はクエストの依頼書で、報酬や地図など、必要事項が事細かに記されていた。

「えっ、いいな、王都の仕事。オレも行きたい!」

「とりあえず、更新が直近に控えてる二人優先だ。本当は全員行かせられればいいんだが、そうそう王都での仕事が都合よく取れるわけでもないからな……」

 ずかずかと一番前の列から俺の元までやって来て紙を覗き込んだナオキを見て、ケンヤさんは苦笑いを浮かべた。そしてちらりと、左腕に嵌めている腕時計に目を向ける。忙しいケンヤさんだから、きっとこの後も何か予定があるのだろう。

「まあ、色々うるさく言ったけど、つまりはそういうことだから。更新の件、みんなもちょっと考えてみてくれ」

 ケンヤさんはそう話を締めくくると、くるりと体を翻し去っていった。すると残された少年団員達はきっちりと並んでいた列を崩し、お喋りを始めたり、そのまま帰宅コースへと入ったりと様々な行動をとり始める。

「……どうする? シュウ」

 気が付くと、ヒイロは俺の手元のクエストの依頼書から顔を上げ、じいっとこちらに視線を向けていた。その問い掛けは、クエストを受けるか否かという意味なのか、それとも、更新をどうするか、という意味なのだろうか。

「まあ……とりあえず、クエストはやってもいいんじゃないかとは思うよ。交通費とか宿泊費も出るみたいだし、報酬もかなりいいし。更新云々は、それから考えても遅くはないだろ」

 俺はちらりと手元の紙に目を通し、そんな無難な言葉を返す。するとヒイロは、「ん、そうだね」となんだか曖昧な感じの笑みを浮かべた。仕事とはいえ王都に行けることをナオキのように喜ぶかと思っていた俺は、その反応にちょっと拍子抜けする。やっぱりヒイロも、この世界をもう少しで離れなければならないかもしれないということに、ショックを受けているのだろうか。

 俺はふっと、どこまでも続く、オレンジ色に染まる夕空を見上げた。もし日本に帰ったら、きっと俺とヒイロの接点なんてなくなってしまうんだろうなと思ったら、なんだか少し寂しさが心に滲んだ。



 ユーフォテルダから王都までは、寝台特急でおよそ半日かかる。午後十時に隣町のおんぼろ駅を出発すると、翌日の朝七時頃には王都エレンサランへと到着する、というスケジュールだった。辺りを真っ暗な闇に包まれた中、駅のホームで大きな荷物と共にヒイロと並んで待っていると、キキキキキィイイィィイン!!! と耳障りなブレーキ音を響かせて、目の前に青い車体が滑り込んできた。所々塗装が剥げており、日本だったらとっくに廃車になっているだろうというくらい年季の入った電車の扉は、プシユウウゥゥウウ!!! とこれまた必要以上に大きな音を立てて開き俺達を出迎える。大丈夫かなこれ、と心配になりつつも、俺はバッグを片手に車内へと乗り込む。中も外観と同様ボロく、木製の床は普通に歩いただけでもミシ、ミシ、と軋みを上げていた。

「おおおっ! すごい! 私、寝台車ってはじめて乗った!」

 しかしそんな風に顔を曇らせる俺とは対照的に、ヒイロは特にそのボロさを気にする様子はなく、ぱあっと瞳を輝かせて車内をぐるりと見回していた。そしてたたっと弾むような足取りで床を蹴り、ずらりと並ぶ二段ベットの一つへと近づいていく。この列車は座席指定もなく等級で分けられてもいないので、空いているところならどこを使ってもいい、というシステムだった。

「ねぇ、シュウ! 私、上のベッドでいい?」

「なんでもいいよ」

 俺ははしゃいでいるヒイロを、そんな感じで適当にあしらう。だけど内心では、ヒイロが楽しそうにしていることに、少しほっとしている気持ちもあった。戦争云々の話が出たからか、ケンヤさんがこのクエストを持って来た時、ヒイロはあまり乗り気ではない感じに見えた。だけど今はすっかり旅行気分で楽しんでいるようだし、こいつは笑顔が取り柄みたいなところがあるから、それは何よりだ。

 ヒイロは梯子を登ってベッドの上の段へと行ってしまったので、俺もそのすぐ下のベッドへと、シャーッと薄水色のカーテンを開けて入り込む。敷布団、毛布、掛布団に枕と、寝るために必要なものはすべて揃っているのだけれど、何か物足りなさを感じるような簡素な造りだった。荷物をベッドの足元側へと置き、とりあえず布団の上に腰を下ろしてみるけれど、それだけでもガタン、ガタンとした列車の揺れが体にビシバシ伝わってくる。試しに寝転がってみるも、ベッドは滅茶苦茶固いし、ゴウン、ゴウンという車輪の音もダイレクトに聞こえる。お世辞にも、これは寝心地がいいとは言えなさそうだ。

「シュウー」

「ぎゃあああ」

 するとふいに上の段のベッドから、ヒイロが頭を上下逆さまにした蝙蝠のような姿勢でこちらを覗き込んできたので、俺は思わず大声を上げた。ばさあーっと長い銀髪が重力によって頭側に流れて、ヤマンバみたいになってる。顔の筋肉もいつもと逆側に引っ張られてるから、なんか怖いって。

「なんだよヒイロ、何の用だよ」

「え? 何って、普通にお喋りに来たんだよ。修学旅行の夜はさー、夜な夜なお喋りするのが定番って言うじゃん」

「いや、修学旅行じゃねーし。そもそも、他の客に迷惑だろ。基本これは寝るための電車なんだから」

 俺がそう言うと、ヒイロは、ん? といった感じで小首を傾げ、スッと視界から消えた。上体を起こし、上のベッドへと戻ったみたいだ。しかしふうっと息を吐く間もなく、再び蝙蝠スタイルでヒイロは俺のベッドへと顔を出した。

「車内ガラガラだよ。多分この車両、私達しかいないんじゃない? 駅で待ってたのも、私達だけだったし」

「いやまあ、そうかもだけどさあ……」

 どうやらヒイロは、一瞬体を起こした隙に車内の様子を確かめたらしい。ヒイロの言う通り、周囲には俺達の話し声の他には、列車のガタガタと揺れる音しかしない。

「つーか、ヒイロ。俺達は遊びに来たんじゃないんだぞ。仕事だ。楽しむのはいいが、睡眠はしっかりとらないと。明日の昼間寝不足でダウンするとか、マジで許されないからな」

 だけど俺は、きっちりとそこは釘を刺しておく。俺達は最近不穏な動きを見せ始めているという王都の雰囲気を肌で感じるために、こうしてわざわざ列車に揺られ遠く離れた地へと赴いているのだ。きっとそこで得る情報は、俺とヒイロだけでなく、他の少年団員達にとっても更新の有無を考える際に大いに参考になるだろう。最優先事項である開校前の学校のチェックのクエストにももちろんきちんと取り組まなければならないし、とにかく、今は王都に着いてからのことを考えてしっかりと体力を温存しておかないと。

「!」

「わっ」

 すると突然、ふっと目の前が真っ暗になり、ヒイロの姿が俺の視界から消える。同時にヒイロの小さな悲鳴が聞こえたかと思うと、続けてドサッという鈍い音が床の辺りから聞こえてきた。どうやら急に辺りが真っ暗になったことに驚いたヒイロが、上のベッドから床へと落下したらしい。あんな変な体勢でいるからだ、と呆れつつも、やはり普通に心配ではあるので、俺はコートのポケットからスマートフォンを取り出すと、真っ暗な闇の中、画面を点灯させてヒイロがいるであろう方向へと向けた。

「おい、大丈夫か、ヒイロ」

「痛ったあ……。もう、何これ、停電?」

 スマートフォンの画面の淡い光に照らされて、床に尻餅をつくヒイロの姿がぼんやりと浮かび上がる。ヒイロは左肩の辺りを何度も手でさすっていたけれど、その様子を見るに、何か大きな怪我をしたわけではなさそうだ。

「いや、停電だったら、電車自体が止まってるだろ。そうじゃないってことは、普通に消灯時刻になったとかそういうことだ。というわけで、ほら。今日はもう寝ろ。さっさと上行け」

 俺は電車が相変わらずガタン、ガタンと音を立てて走っていることを耳で確かめ、しっしっとヒイロを手で払う。ヒイロは「えー、まだ夜はこれからじゃーん……」と名残惜しそうにしていたけれど、辺りが真っ暗な中起きているのはさすがにどうかと思ったのか、渋々梯子を登って上のベッドへと戻っていった。それを見送った俺はシャーッと自分のベッドのカーテンを閉めると、コートのボタンをぶちぶちと外し、鞄の中から取り出したTシャツとスラックスに着替え、寝るための体勢を整えた。

「……」

 そして布団に入り、枕に頭を乗せて寝転がったはいいものの、相変わらず、ガタンガタンと言う揺れと、ゴウンゴウンという機械音がひどい。時々ドゥン! と下から突き上げるような謎の振動もあるし、これは眠りにつくのは一筋縄では行かなさそうだ。

「……」

 しばし目を瞑って頑張ってはみたものの、やはり寝付けそうにないと思った俺は、まあ少しくらいならヒイロのお喋りに付き合うのもいいか、と体を起こし、「おい、ヒイロ」と頭の上、上の段のベッドの床に当たる部分を拳でコンコンと叩いた。しかし返事はなかったため、一度ベッドを出て梯子を登り、ヒイロのベッドのカーテンの前で再び声を掛けた。

「……?」

 しかし、またしても返事はない。そこでそうっとカーテンの隙間に指を差し込んで、ちらりと中を覗いてみた。するとパジャマ替わりであろうラフなTシャツに身を包んだヒイロは、すー、すーと気持ちよさそうに寝息を立てていた。さっきまであんなにはしゃいでたくせに、寝るの早っ! しかもこんな劣悪な環境であっさり眠れるなんて、よっぽど神経が愚鈍にできているのだろう。

 仕方がないので俺は梯子を降り、自分のベッドに戻って、再び睡眠をとろうと努めた。しかし眠ろうとすればするほど周りの音が気になって、ますます目が冴えてしまう。できれば飛行機とかで行きたかったな、でもそもそもこの国に飛行機なんて存在しないんだろうな、なんて、不毛な思考だけがぐるぐると繰り返される。ヒイロに睡眠は大事だなんて偉そうに言っておきながら、結局俺はろくに眠れないまま夜を過ごし、ようやくうとうととしかけた頃には、もう列車の窓から朝日の光が差し込むような時間帯になってしまっていたのだった。


「おお、さすが王都。発展してるねー!」

 ヒイロと俺は荷物の入ったバッグをそれぞれ肩に掛け、一晩お世話になった寝台特急の扉をくぐり抜けると、王都、エレンサランの駅のホームへと降り立つ。そこはさすが王都と呼ばれるだけはあって、俺達が乗り込んだおんぼろの駅とは比べものにならないくらいに、きちんと整備がされていた。

「まあ、日本で言えば、地方都市の主要駅ってところだろうけどな」

 俺はそう言いつつ、初めて訪れたエレンサランの駅を、ぐるりと見回す。ここから見ただけでもホームは五、六個確認できるし、向こう側には階段とエレベーターもある。デジタル表示の案内板も設置されているし、改札を抜けた先の通路の両脇には飲食店や土産物店が並んでいた。早朝と言うこともあってか人は少なめであったけれど、人間の開発の手が入って十年程と考えたら、かなり上出来な発展具合なのではないだろうか。

「うっわー、すごっ」

「なんか、カオスだな」

 そして駅構内を出た俺達の目には、エレンサランの街並みが飛び込んでくる。エルクロストの建築物は、基本的にヨーロッパとかそこらへんのものを思わせるような、洋風の造りの物が多い。だけどここはそんな歴史を感じる建物群の隙間に、人間の開発によって建てられたのであろう、無機質な背の高いビルがちらほらと存在していた。そのちぐはぐな統一感のなさはなんとも奇妙で、もう少し景観に気を遣えなかったのかよ、と思ってしまう程だった。

「……あれ、シュウ、もしかして、あれが噂のデモじゃない?」

「ん?」

 するとヒイロが、駅から少し離れた所にある、広場のようなところに集まっている人々を指差した。十人程から成るその集団はそれぞれが拡声器やプラカードを手にしており、耳を澄ましてみると、「俺達の文化を守ろう!」とか、「私たちは、何人にも支配されない!」なんて言葉が聞こえてきた。道行く人達は基本的にはちらりと視線を向けるだけだったけれど、中にはぱちぱちと通り過ぎざまに拍手を送る人もいる。なんとなく、デモに参加している人や賛同している人は、年配の方が多いような印象だった。

「やっぱりケンヤさんの言ってた通り、不穏な動きはあるってことなのかな」

「んー、でも、やっぱいきなり戦争ってのは飛躍しすぎな気もするけどな。別にあの人達も、火炎瓶投げて暴れてるわけでもないし」

 俺はヒイロとそんな言葉を交わしながら、改めてデモ隊へと視線を向ける。日本でだって規模の大小はあれど、毎日のように国会議事堂前とかでデモは起きているらしい。デモができるということは言論の自由がきちんと保障されているということの裏返しでもあるし、別にそんなに心配しなくてもいいんじゃないだろうか。

 とは言いつつも、さすがに人間の開発についてを批判しているデモ隊の目の前を通るのは気が引けたので、俺達はぐるりと回り道をして、今日宿泊する予定のホテルへと向かった。駅から歩いて五分程のところにあったそのホテルはだいぶ築年数が経っていそうだったけれど、中は小奇麗にしてあったし、フロントの人の感じもよかった。そこには朝食バイキングの看板も立てられていたけれど、それは明日の朝食べようということで、俺達はとりあえず荷物だけフロントに預け、ホテルを後にした。そして近くにあったホットドッグ屋へと入り、俺はBLTドッグ、ヒイロはウインナードッグを注文し、朝食を済ませる。そのお店はファストフードのような雰囲気の店で、ホットドッグもユーフォテルダの村の商品のような手作り感のある味ではなく、量産品のような濃いジャンクな味付けだった。元々エルクロストにこういう店があったとは思えないし、きっとこれも、人間が進めた開発の一端なのだろう。

「あ、あれ、コンビニじゃない?」

「うわ、本当だ。おい、あそこに自販機もあるぞ」

 そしてそんな人間の開発の痕跡は、街中を歩いていると、次々と発見することができた。なんだかこのままいくとロストの存在の有無の差があるだけで、日本と変わらない感じになるんじゃないかと、そんな風にさえ思えてくる。こりゃあロストも多少は怒るかもなあと、俺はさっきのデモ隊の人達の気持ちが少し理解できた気がした。医療や科学技術が発展することはもちろんいいことなんだろうけれど、その推し進め方には気を遣わないといけないということだ。

 だけど基本的に、街の様子は平穏そのものだ。こうして人間の俺達が歩いていても特に絡まれたりすることもないし、奇異な視線を向けられることもない。戦争がどうのと言われて無意識に構えてしまっていた体からは、時間が経つにつれふわりと力が抜けていく。この感じだと来年分の更新をしても特に問題はなさそうだな、と、俺はぼんやりと考える。ただ、この王都の様子を村に残っている少年団員達にどう伝えるかは、中々に難しい課題だと思った。自分のことなら自己責任で済むけれど、他人のこととなるとやはり慎重になってしまう。可能性がゼロでないならやはり日本に一旦帰った方がいいのではなんて、ケンヤさんと同じ思考が頭を過ぎる。

「……」

 俺はちらりと、さらさらとした銀髪を靡かせて隣を歩く、ヒイロへと目を向けた。ヒイロはこの王都の街並みを見て、更新の件をどう考えたのだろう。尋ねてみようかとも思ったけれど、なんだかその答えを聞くのが怖くて、俺は結局、口を噤んだ。


 それから俺達は路面電車で五分程揺られ、王都の市街の端の方にある、ある場所へと降り立った。高いフェンスに周囲を囲まれたそこには鉄筋コンクリートでできた三階建ての建物がどっしりと鎮座していて、その正面には、十分な広さのあるグラウンドが見える。ここはエレンサランで近々開校予定だという中学校で、今日これからの俺達の仕事場でもあった。人間の開発によって建てられたこの中学校を学生目線でチェックする、というのが、俺達が受注したクエストの仕事内容だ。つい忘れがちではあるけれど、そもそも俺達はこのクエストのおかげで王都へとやって来ることができたわけなので、観光云々よりも先にきちんと取り組まなければならない。勝手に入って自由に見ていいとクエストの受注書には書かれていたので、俺達は遠慮なく校門をくぐり抜け、敷地内へと足を踏み入れた。

「どうする? とりあえず、グラウンドから見てく?」

 ヒイロは、そう言って手に持った数枚の紙の束をひらひらと振る。それは学校の見取り図が書かれている紙で、気になる箇所があったらその旨を書いて提出するようになっていた。俺は「ああ、そうだな」と頷き、ヒイロと並んでひとまずグラウンドの端から端までを歩いてみることにした。だけど別にオーソドックスな学校のグラウンドと言った感じで、特に気になるところはない。次に校舎の裏手にある開けた空間も見てみるけれど、そこも問題なしだ。そもそも俺達がチェックする必要性なんてあるんだろうか、なんて思考も頭に過ぎり始めるけれど、受けた仕事なのだからきちんとこなすしかない。周囲を取り囲むフェンスも一応揺らしてみたりしてチェックした俺達は、いよいよ、本題となりそうな鉄筋コンクリートの校舎内へと足を踏み入れた。この国は基本的に土足なので、日本の学校のように入ってすぐのところに下駄箱が存在していたりはしなかった。

「……っ」

 するとそのとき、くらり、と眩暈が俺を襲った。寝不足の影響がここに来て出たのかと、俺をつい自分の頭に手をやる。

「シュウ?」

「ん……ああ、その、こっちは土足だけどさ、日本みたいに土禁にするのもいいんじゃないかと思って。ほら、学校って掃除も生徒自身がやることが多いし、そういう目で見たら、そっちのほうが楽なのかなって」

 こちらを振り向いたヒイロに、俺は誤魔化すようにして適当に言葉を並べ立てた。心配されるのも嫌だったし、別に休まなければいけないほどの体調不良でもない。幸いヒイロは俺の異変に気付いた様子はなく、「なるほどねー。じゃあ、一応提案しとこっか」と言って、さらさらと校舎の見取り図の紙にボールペンを走らせた。そしてそのまま、俺達は校舎の奥へと足を進める。てかてかとしたリノリウムの床に、蛍光灯が垂れ下がった天井、窓の途切れ目にぼこぼこと柱が突き出している廊下の感じは、まさに日本的な学校そのものだ。

「一年一組だって。入ってみよ!」

 その廊下の一番手前にあった教室の扉を、ヒイロはがらりと勢いよく開ける。中にはずらりと長方形の茶色の机が並んでいて、教室の前後の壁には緑色の黒板が張り付けられている。ここも、日本の学校と何ら変わらない光景……。

「……っ!」

 すると再び、ぐらり、と眩暈がやってきた。しかも今回は、キイィィン、という、甲高い耳鳴りもする。

「!」

そして、それだけではなかった。目の前に、ぼんやりとした曖昧な、何かの姿が見える。目を凝らしてみると、それは黒い学生服を着た、自分と同い年くらいの少年たち、二、三人……?

「……シュウ?」

 さすがに今回は、ヒイロも俺の異変に気が付いた。心配そうな顔で、ふらついてしまった俺に駆け寄ってくる。

「どうしたの、大丈夫? 具合悪い?」

「いや、大丈夫……」

 俺はそう言葉を返しつつも、すぐ傍にあった机の一つに腰を下ろした。今はもう眩暈も耳鳴りも治まって、あの謎の少年たちの姿も見えない。……なんだ今のは、幻覚? つーっと、俺の額から一筋の汗が流れる。ついきょろきょろと教室内を見回しさっきの少年たちの姿を探してしまうけれど、ここにいるのは俺とヒイロだけで、他には机がずらりと並んでいるだけだ。

「シュウ……?」

「あ、いや、その……ヒイロ。お前、さっき、何か見えなかったか?」

「? 何か?」

 するとヒイロはさっきの俺のように、顔を上げて教室内を見回す。だけど何も見つけることはできなかったようで、すぐに怪訝そうに眉を寄せた。

「え、何かって何? まさか、その、幽霊的な?」

「わからない……。でもなんか、幻覚っていうか、映像みたいな。学ラン姿の男子が、三人見えた」

 俺の言葉を聞くと、ヒイロはひぎっと顔を引きつらせた。

「え、何それ……。知ってる人? その、見えた人ってのは」

 ヒイロのその問い掛けに、俺はふるふると首を横に振る。謎の少年たちは黒い学生服を着ていたから、おそらくロストではなく人間だ。歳も俺と同年代の中学生くらいのように見えたけれど、特に心当たりはなかった。

「昔、ここで何かあったのかな……事故物件だったり? どうする? 一応書いといたほうがいいかな」

「いや、幽霊だのなんだの書いてもしょうがないし……とりあえず、いいや。先に進もう」

 ヒイロは手元の校舎の見取り図の紙をペンで指し示してそう尋ねてきたけれど、俺はひとまず、判断を保留にした。あの少年たちの姿はどうやら俺にしか見えていなかったようだし、そんな曖昧な物を正式な仕事の書類に書くのは気が引ける。報告するにしても、もっと校舎の隅々までを調べ終わってからにしないと。

 そうして他の教室に入ってチェックをしている間も、ヒイロはどこか心配そうな表情を浮かべていた。俺が人が見えただのなんだのなんて言ってしまったから、もしかしたら少し怖がっているのかもしれない。気の毒になった俺は、怖いなら外で待っててもいいよ、と、一階の一番端の教室を出たタイミングで口を開こうとした。

「……ぐっ!」

「! シュウ、また? 大丈夫?」

 しかしそこで、再び来た。くらくらという眩暈と、キイィィン、という耳鳴り。そして、学生服姿の少年たちの映像。しかし二回目ということで、俺は先程よりもその映像を注意深く観察することができていた。輪郭のおぼろげなぼんやりとした光景は、まるで誰かの目線から見ているような感じだ。少年たちは口をぱくぱくと動かして何かを喋っているようだけれど、音は聞こえないためその内容はわからない。

 あっ、と、次の瞬間、俺は心の中で声を上げてしまった。急に映像が左右にぶれ、視点が低くなったからだ。何だ? 目線の主が転んだか何かしたのか? すると目の前には、再び学生服姿の少年たちが現れる。こちらを見てわはははと笑っているような仕草を見て、俺はさっき映像がぶれたのは、この少年のうちの誰かが、目線の主を突き飛ばすか体当たりをするかして地面に倒したのだということを唐突に理解した。そうして改めて見てみると、目の前の少年たちの笑顔が、醜悪に歪んでいるように見えてくる。……わかりやすい言葉で言えば、いじめ、みたいな光景だった。

「!」

 いじめ。その単語が脳裏を過ぎった時、俺の頭に真っ先に浮かんだのは、金髪の小柄な少年の顔だった。ランはユーフォテルダにやって来る前、所属していた少年団で、いじめに遭っていたという。

「シュウ、大丈夫? 少し、休んだほうが……」

 やがて、映像はゆっくりと周囲に溶けるようにフェードアウトしていき、俺の耳にはヒイロの切実そうな声が飛び込んできた。いつの間にか床に座り込んでしまっていたらしい俺を覗き込むヒイロの顔は、今にも泣きそうな程に歪められている。

「なあ……ランってさ、もしかして、日本にいたときにもいじめられてたんじゃないのか」

「……え?」

 俺はもう眩暈も耳鳴りもしない体ですっくと立ち上がると、コートの裾についた埃を軽く手で払った。ヒイロがきょとん、とした表情を浮かべたのを見て、やはり今回の映像も俺にしか見えていなかったということをついでに確認する。

「ランは、あの性格だろ。いいように利用されたりしてたんじゃないのか」

「……え? や、まあ……その可能性はなくもないかもだけど……なんで、急にランの話?」

 ヒイロはもう、わけがわからないといった様子だ。俺はくるりと体を翻すと、すたすたと、玄関の方へと向かって廊下を歩き出した。

「ちょっと、シュウ?」

「ヒイロ、悪いけど一旦中断だ。ランに連絡がとりたい」

 俺はヒイロに、今さっき見たばかりの幻覚のような映像の内容についてを説明する。目線の主の姿は見ることができなかったから正確に誰なのかはわからないけれど、俺にはそれが、ランなのではないかと思えて仕方がなかった。そしてもしそうだとするなら、白昼夢とか、予知夢とか、そういった何かランについての暗示のようなものなのかもしれない。俺はあまりオカルトとかそういった類を信じる方ではないけれど、いかんせん、ここは魔法なんていう突拍子もないテクノロジーが存在する国だ。とりあえずランの無事さえ確認できればということで、俺達は仕事を一旦中断し、校舎を飛び出した。

「えーっと、この近くのポートは……」

 校門の前までやって来た俺は、きょろきょろと辺りを見回す。ここらへんにはまったく土地勘がないため、どこにポートがあるのかがさっぱりわからない。最悪エレンサランの駅に行けば確実に存在するんだろうけれど、そのためには再び路面電車に乗らないといけないし、できればこの近くで見つけたかった。

「シュウ!」

 するとヒイロが、くいっと俺のコートの裾を引っ張りつつ向こう側の通りを指差した。そこにあったのは、ギラギラとした派手な電飾で飾り付けられた建物。大きな看板には『DENKI』のアルファベットが躍っていて、どうやら家電量販店のようだ。

「王都は通信網が敷かれてるから、スマホとか使えるはずだよ。プリペイド式のもあるって聞いたことあるし、行ってみようよ」

「ああ……なるほど」

 俺はヒイロの言葉に頷くと、さっそく通りを横断し、軽快な音楽がBGMに流れる家電量販店の中へと入った。ヒイロの言う通り、そこには観光客向けのプリペイド式の携帯電話が存在していたので、とりあえず本体と一週間分の通話カードを購入し、村のアジトにあるポートへと電話を繋いでみる。残念ながらアジトにランはいなかったけれど、そこにいた他の団員と通話ができたので、俺は折り返し連絡が欲しい旨をランに伝えてくれるように頼み、たった今取得したばかりの携帯番号を読み上げた。

「ふう……」

 そしてピッと、いつもスマートフォンを使っている俺には慣れない、携帯電話の通話終了ボタンを押す。ランとまだ話はできていないけれど、村への通信手段が確保できただけでも少し安堵感がした。伝言を頼んだ団員はさっそくランを探しに回ってくれるだろうから、後は連絡がくるのを待つだけだ。

 とは言っても、やはりただ街をぶらぶらとして待つというわけにはいかない。謎の幻覚が見えるあの中学校に正直あまり足は進まないけれど、チェックの仕事はまだ途中だ。ここでクエストを投げ出してしまったら、依頼主である国が負担してくれている交通費やホテルへの宿泊費なんかを自腹で請求される可能性もあるので、選択としては完遂が望ましい。

「さて、それじゃあ、また学校に戻……」

「う、うわあああ」

 俺がくるり、と電話の間近くで待ってくれていたヒイロへ振り返った、そのときだった。店内の少し離れたところで、悲鳴のような声と共にドサドサドサッ、と何か物が落ちるような音が聞こえた。驚いてそちらへと目を向けると、そこでは赤いエプロンをした男の店員が、台車から零れ落ちた商品の箱を一生懸命かき集めていた。そんな場面を見てしまったらなんだか放っておけないので、拾うのを手伝おうと、俺とヒイロはその店員へと近づいていく。

「ああ、お客様、申し訳ないッス。お手を煩わせてしまって……」

「いえ……」

 俺は電球のイラストが描かれた箱を三つ重ねて持ち上げると、これと同じ箱がたくさん積み上げられている台車の上へすとんと載せる。するとそんな俺に向かって、ドジをしてしまった店員はぺこりと頭を下げた。俺は社交辞令的な笑みを浮かべその動きをスルーしようとするも、店員のふわふわとした癖毛頭に、思わず目が留まる。そして上体を起こしたその店員の顔を見て、俺は「あっ!」と声を上げた。

「おい、お前……!」

「はい、お客さ……む、むむむ!? あ、あなたは……!」

 俺と店員の男は、互いに驚愕した表情を浮かべ合う。すると背後から、「おい、何してんだ」と、別の男の声が聞こえてきた。もうなんとなく予想しつつ振り返ると、そこには癖毛の男と同じ赤いエプロンを着用した、背の高い茶髪の男の姿があった。茶髪の男は俺の顔を見るなりすぐに気が付いたようで、「お前は……」とわずかに目を見開く。

「え? シュウ、知り合い?」

 そんな風に俺と店員二人が神妙な顔で互いを見合わせる中、状況のわかっていないヒイロが無邪気に問い掛けてくる。まさか無視するわけにもいかず、俺はもごもごと曖昧な感じで言葉を返した。

「ほら、あれだよ。フェスんときの……」

 俺は明言こそしなかったものの、ヒイロはその男たちのちょっと強面風な外見から、すぐにピンときたらしい。

「あー! わかった! フェスのときにジェダーさんとこのレジ盗んだ、ドロボー!」

 おい、もうちょっとオブラートに包んだ言葉をチョイスしろ、と、俺はヒイロの隣で顔を引きつらせる。まあでもヒイロの言う通り、こいつらはフェスの際に俺とナオキでとっ捕まえた、元泥棒のお二人であった。どうやら現在はこの家電量販店で働いているらしい二人は、ヒイロにビシッと指を差され、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべている。

「……まあ、それは否定できねぇ。だけど今は、法に触れるようなことはしてねぇよ。なんとかこうやって、地道に働いてる」

「そ……そうっス。この店は最近入ったばかりだから、ちょっとまだ慣れなくてミスもしちまうッスけど……少し前までは、すぐそこの中学校の建設のバイトもしてたんっスよ、一番下っ端だったっスけど」

「……え?」

 俺は二人がきちんと更生の道を歩んでいるらしいということにほっとしつつも、癖毛の男の台詞の中にあった『中学校の建設』という言葉に反応する。すぐそこの中学校ということは、俺達がさっきまでいたあの中学校のことだろう。

「っ、その中学校の建設中に、幻覚が見えるみたいな騒ぎってなかったか?」

「?」

 俺はつい切実な表情になってしまいつつ尋ねるも、二人はきょとん、とした顔を浮かべる。その反応を見るに、どうやら建設中にそういった出来事はなかったみたいだ。……ということは、やはりあの幻覚は、俺にしか見えていないということになる。

「つーか、お前、何してんだよ。早くちゃんと棚に並べねぇと」

「は、はいっ! すいませんっス、アニキ!」

 すると二人は台車の上の箱をちらりと見て、いそいそと空っぽの棚へと陳列を始める。この二人は仕事中のようなので、邪魔をしないようにと俺はすっとその場から立ち去ろうとした。だけどそのとき、ふいにあることが頭を過ぎって、俺は足を止める。

「……デモについて、どう思ってる?」

「?」

 俺がぼそりと呟いた言葉に、茶髪の男が商品を並べる手を止めて、こちらを見た。こいつらは、俺が実演して見せたスマートフォンのような、人間が持ち込むテクノロジーの発展に大いに期待を寄せているはずだ。王都に住んでいるのならその動きを否定するデモは必ず目にしているだろうし、一体どんな気持ちでいるのかが気がかりだった。茶髪の男はそんな俺の張り詰めた表情に気が付くと、真剣な表情を浮かべて口を開いた。

「……関係ねぇよ」

 そして茶髪の男はくるりと俺に背を向けると、再び商品の陳列に手を動かし始める。その様子を少し心配そうに癖毛の男が見つめる中、茶髪の男はそのままこちらを見ずに言葉を続けた。

「声を上げただけでどうにかなるんなら、俺らみたいなのはそもそも存在しねぇんだ。人間が来る前にもデモやらなんやらはあったけど、それで何かが動いたなんてことは、この国ではねぇよ。だから、気にしてねぇ。今はただ、目の前のことをきっちりやるだけだ」

「……」

 そう言っててきぱきと手を動かす男の後ろ姿を見て、俺は思わず、じいっと感じ入ってしまう。その言葉からは、国民の声が政府に届くことはないという、エルクロストという国の課題も窺えた。だけどそれと同時に、俺はこの茶髪の男に、なんだか頼もしさを感じたのも事実だった。たとえどんなにひどい状況になったとしても、きっとこいつらはやけにならず、歯をくいしばって立ち向かってくれるだろう。なぜだか、そんな風に思えたのだ。

 俺はぺこり、と無言で二人に会釈をすると、ヒイロと共に、家電量販店を後にした。俺の目の前にも、やらなければいけないことが残っている。五分程歩いて、チェックの仕事が途中となってしまっている中学校の校舎へと再びやって来た俺は、ふーっ、と一度深く息を吐いた。色々とわからないことや、不可解なことは多い。だけどこのままにしておいたら、それこそずっと謎なままだ。俺はぐっと覚悟を決めると、鉄筋コンクリートの大きな建物内へと一歩足を踏み出す。その隣にヒイロがいてくれることが、なんだかやけに心強かった。


「あー……」

 やっとこさホテルの部屋へと帰ってきた俺は、どすん、とそのままベッドへと倒れ込んだ。薄いレースのカーテンから差し込む光の色は、濃いオレンジ色。自室のベッドよりも分厚いマットレスの敷かれたそのベッドはものすごくフカフカで、もう吸い込まれるように眠ってしまいそうだった。だけど時刻は、まだ夕方五時半を過ぎた辺り。ランからの連絡もまだ来ていないため、このまま眠るわけにはいかない。俺はごろんとベッドの上で寝返りをうつと、板張りの天井を見上げながら、改めて状況を整理するべく頭を巡らせた。

 さほど大きな校舎でなかったこともあり、中学校のチェックの仕事はその後きちんと完遂し、こうして夕方にはホテルへと帰ってくることができた。オーソドックスな造りの学校には、ケチをつける部分なんてほとんど存在していなかった。……ただ一点、俺にだけ見える、幻覚問題を除いては。

 あれからも、教室、廊下、階段、体育館など、校舎の至る所で、俺は眩暈と耳鳴りと、あの謎の少年たちが出てくる映像に苦しめられた。その映像は場所やシチュエーションがそれぞれ微妙に異なっていたけれど、少年たちの面々と、いじめのような状況であるということは共通していたように思う。決して楽しい映像でもなく、眩暈と耳鳴りはただただ不快であったため、俺は校舎を歩き回っている間ひたすらに疲労昏憊であった。まあ多分、そんな俺をずっと心配していたヒイロも同じように疲れたとは思うけれど。

 ただ、そんな中でも、俺の心が躍った場面が一つだけあった。それは最後に訪れることになった、最上階である三階の中央部分に位置している、見取り図では『時計部屋』と書かれていた部屋だ。校舎の外壁の一番上、中央には丸く大きなアナログ時計が掲げられているのだけれど、どうやらその部屋は、ちょうどその時計の真裏に位置しているらしい。そしてその時計は時代錯誤なことにねじ巻き式で、時計部屋からは歯車が剝き出しになった内部構造が見え、そこへと至れる小さな階段まで設置してあった。その現代では中々見ることができない光景に、俺は思わず疲れを忘れ、おお、と感嘆の声を上げてしまったものだった。

「!」

 そんな風に見事だった時計部屋に思いを馳せてしまっていると、ふいにピピピピピ、という電子音が、俺のコートのポケットから鳴り響いた。俺は慌ててベッドから身を起こすと、家電量販店で購入したプリペイド式の携帯電話を取り出し、ピッと通話ボタンを指で押す。

『あ、もしもし……ランです。えっと、シュウの携帯ですか?』

 電話を耳に当てると、たった一日しか離れていないのにやけに懐かしく感じる、ランの声が小さく響き渡った。俺がああ、と答えると、ランはほっとしたように一つ息を吐く。

『えっと、シュウ、昼間電話くれたって聞いたんですけど……何かありましたか?』

「ああ、その。俺もヒイロもこっちに来ちゃったから、ラン、大丈夫かなって思って」

 ようやくランと通話ができたところだったけれど、俺はとりあえず、そんな無難な理由を述べるに留めた。さすがに、『日本にいたとき、いじめられていたのか?』なんて、ストレートには尋ねづらい。

『あ……すみません、心配してくれたんですね。えっと、今日は、ナオキ君とアスカさんと一緒に、シャドウ討伐のクエストに行ってきたんです。ナオキ君はその……シュウとは違って色々とむちゃくちゃなんですけど……でも、楽しかったです。アスカさんも、すごく優しくしてくれました』

 電話口から聞こえるランの声のトーンは、明るい。どうやら俺達がいなくてもランは楽しくやっていたようで、とりあえずそこにほっとする。

『……あの、シュウ達は、大丈夫ですか? 王都は、デモがたくさん起きてるって、ケンヤさんが言ってましたけど……』

「ん? ああ、大丈夫だよ。たしかにデモは見かけたけど、全然大したものじゃなかった。普通に街も歩けるし、危険なことは何もないよ」

 俺がそう言葉を返すと、ランは『それは、良かったです』と深い安堵の息を吐いた。こっちがランを心配するように、どうやらランも王都へと向かった俺達のことを心配してくれていたようだ。その優しさに、ふっと胸があたたかくなる。

「ランは、特に何か変わったことなかったか?」

『変わったこと……ですか?』

 俺は続いて幻覚の件には触れずに、ランへとそう探りを入れてみる。だけどランには特に思い当たることはないようで、きょとん、と首を傾げる様が目に浮かぶくらいの反応だった。あの幻覚がランに関係あろうとなかろうと、今のランに何か異変が起きているのでなければそれでいいので、俺はそれ以上この話を掘り下げないことにした。俺が『いじめ』という単語を口にすることで、ランに嫌なことを思い出させることになるかもしれないし。

「まあ……その、何か変わったことがあったら、遠慮なく連絡くれ。俺プリペイド式の携帯買ったから、王都にいる間はこの番号に繋がるから」

『あ……はい。わかりました。ありがとうございます』

 俺はそんな感じでこの話を締めくくると、その後二、三他愛のない会話を交わして、ランとの通話を終了した。ふう、と息を吐いた俺は、再びぼすんとベッドへ背中を投げ出す。しん、と静まり返ったホテルの部屋で、ドクン、ドクン、という自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。

 ランは元気そうだったし、村ではナオキとアスカさんが面倒をみてくれている。俺がそこまで心配する必要はなさそうだが、やはり、あの幻覚のことが気になって頭から離れなかった。俺は自分に霊感があると感じたこともないし、今までなにか超常的な現象に遭った経験もない……なんて、魔法が存在する世界にいる時点で、もはや関係ないか。

 俺はじいっ、と天井の木目を見つめながら、もう何度思ったかわからない問い掛けを頭の中でする。

 一体、俺にだけ見えるあの少年たちの映像は、何なのだろう?



「ん……」

 ちゅんちゅん、とでもいうような鳥のさえずりの声で、俺は目を覚ました。瞼を開けて飛び込んできた見慣れない天井と、体の下のフカフカなベッドの感触で、ああ、そういえば俺は今王都へと来ていて、ここはホテルの部屋なんだということをぼんやりと思い出す。今日は寝台車と違ってぐっすりと眠れた実感があったので、カーテンの隙間から差し込む白い日差しも心地良かった。だけどその分喉が渇いていたので、俺はまず水でも飲もうと、ベッドを降りて部屋の隅に置いてある小さな冷蔵庫へと向かった。

「……げ」

 しかし冷蔵庫の中のペットボトルの水は、ほとんど中身が入っていなかった。とりあえずありったけを口の中へと流し込んではみたものの、物足りなさを感じ、俺は顔をしかめる。

「あ」

 と、そのとき、俺はフロントのある一階の廊下に、自動販売機があったことを思い出した。さっそく買いに行こうと思った俺はハンガーに掛けてあったコートのポケットから財布を取り出すと、パジャマ替わりのTシャツとスラックス姿のまま、部屋の外へと出るべくガチャリとドアノブに手を掛けた。

「……ん?」

 しかしなぜだか、ドアがやけに重い。鍵はきちんと開錠したはずなのに、まるで何かが突っかえているかのように、ドアの開きが悪いのだ。俺はちょっとイライラしつつ、ドアノブを握る手に力を込める。するとちらりとドアの隙間から銀色の髪の毛が見えたような気がして、寝起きだった俺の頭は一気に覚醒へと導かれた。慌てて一気に両手でドアを押し開けると、ドスッ、と、何かが床へと倒れたような音がした。まったく状況がわからず混乱しつつも、俺は開いたドアの向こうへと自分の体を滑り込ませる。

「!」

 するとそこには、「んー……?」と声を漏らし、ごしごしと目を擦りながら体をむくりと起こすヒイロの姿があった。ヒイロの上半身は部屋着風の白い長袖のパーカーに包まれていて、体の下半分はおそらくホテルの備品である茶色の毛布で隠れている。髪のあちこちにはぴょこぴょこと寝癖が付いていて、まさにたった今起きました、といった雰囲気だった。

「……あれ、もう朝? おはよー、シュウ」

「いやいやいやお前こんなとこで何してんだよ!」

 ぱちり、と目を開けてそんな暢気な挨拶をしてくるヒイロに、俺は半ばパニックになりつつ叫び声を上げた。ヒイロの部屋は廊下を挟んで俺の向かいだったはずなのに、一体何がどうなってこんなとこで寝てんだよ! 

「……っ、まさか……、わかったぞヒイロ、お前また酒飲んで、こんなわけのわからん場所で寝てたってオチだな!?」

「え!?」

 俺の頭には、先日の怪獣を倒した後の打ち上げパーティーでぐでんぐでんに酔っぱらって、そのまま眠りこけていたヒイロの姿が思い起こされていた。この国では十五歳からアルコール類が合法だから、十四歳のヒイロでも見た目的に年齢確認で引っ掛かることなく酒を入手することができたのだろう。まったく、何やってんだ!

「違うよ、飲んでないよ! っていうか、私お酒飲んだのなんて、あの日だけだって!」

 ヒイロは焦ったような顔で、ぶんぶんと両手を体の前で大きく振る。だけど俺がじとっと疑いの目を向け続けていると、今度はちょっと怒ったようにぷくうと頬を膨らませ始めた。

「……私は、シュウが心配だったの! なんかシュウ、昨日色々言ってたから、夜中に一人で学校見に行ったりするんじゃないかと思って、ここで見張ってたの! ここならドア開けば、絶対気付くし」

「……はあ?」

 俺はヒイロの口から飛び出した思いがけない言葉に、目をぱちくりさせる。なんだそれ。ただでさえ疲労マックスだったんだから、夜中に学校なんか……。

「!」

 しかしそこで、俺はハッとする。もし、あの俺にだけ見える幻覚が、幽霊だったりそういう心霊系にまつわるようなものなのだとしたら。昼ではなく夜に訪れれば、また何か新しい発見があるのではないだろうか。

「それだ、ヒイロ。今日は、夜中にあの中学校に行ってみよう」

「……え」

 突如そんな宣言をし始めた俺に、ヒイロは戸惑うような視線を向けた。予定では今日の夜には再び寝台車に乗って村へと帰るスケジュールだったけど、悪いがそれはキャンセルだ。ホテルをもう一泊延長して、次の日の電車の切符を押さえて……と、ここは自腹になってしまうが、幸い何があるかわからない遠出ということで、お金は余分に持ってきてある。のどかな村で暮らしているとお金の使い道なんてそうそうないのだから、きっと今が使い時だ。

「……」

 そんな風にやる気の炎にメラメラと燃えている俺を、ヒイロはぎゅっと手元で毛布を握り締めながら、無言で見つめていた。その瞳は不安そうに揺れているように見えたけれど、俺は特段気にすることはなかった。なんだかんだ言って、ヒイロも一緒に来てくれるだろうということがわかっていたからだ。いや、多分、俺はそんなヒイロに、甘えてしまっていたのだと思う。昨日今日だけの話でなく、今まで、ずっと。


 そして日付の変わった、深夜、0時。辺りをすっかりと闇に覆われる中、俺とヒイロは、中学校の校門前へと降り立っていた。吹き付ける風は昼間と違って肌寒く、ぼんやりとおぼろげにしか見えない校舎のシルエットは何ともいえない不気味さを漂わせている。昼間に役所へと赴いてクエストの期限延長と夜間の立ち入りの許可はきちんともらってきたのだけれど、なんだか空き巣か校舎荒らしにでも向かうならず者になったかのような気分がした。シチュエーションとしては、肝試しのほうが近いはずなのに。

「……行くか」

 周囲には人通りもまったくないけれど、こうしていつまでも校門前に突っ立っていて万が一不審者として通報されても困るので、俺はヒイロにそう声を掛け、腰からキューを引き抜いた。そしてかちかちとキューの側面のダイヤルを回し、ストックしておいた『光球』の魔法にセットすると、トリガーを引く。するとキューの放出部分から丸い光が発生し、二、三メートル先までを照らせるようになった。気休め程度ではあるけれど、これで少しは闇の中でも視界がきくだろう。俺とヒイロはその光を追うようにしながらグラウンドを突っ切って、鉄筋コンクリートの校舎までやってくると、入り口へと足を踏み入れた。

「!」

 するとその瞬間、パッ、と一気に玄関部分の照明が点灯したので、俺達は思わず身を固くした。しかし慌てて辺りをきょろきょろと見回すも、俺とヒイロの他に、人の姿は存在しない。

「もしかして、センサーとかに反応して自動で電気が点くのかな? 最新だね」

「ああ……そうかもな」

 そのヒイロの予想通り、中へと進み廊下へと差し掛かると、再びパッと一直線に電気が点き、向こう側までを一気に見通せるようになった。そこで俺は右手に携えていたキューの魔法を一旦解除すると、腰のホルダーへと格納する。どうやらありがたいことに、校舎内ではこの懐中電灯まがいのものは必要なさそうだ。

 しかし電気は点いていても、やはり夜の校舎内は、昼間と違って少しおどろおどろしい雰囲気がする。夕方にホテルの部屋できちんと仮眠をとったせいもあるのだろうけれど、なんだかやけに目が冴えてくるのを感じた。そんな臆病風を振り切るようにして、俺は廊下の一番手前、『一年一組』というプレートの掛けられた教室のドアを、ガラガラと勢いよく引き開ける。

「!」

 すると、来た。また、あの幻覚だ。ずらりと机が並ぶ教室の奥、窓際の辺りに、黒い学生服を着た少年、三人組の姿が見える。

「……っ?」

 しかし、俺はすぐに、この幻覚が今まで見たものとは何かが違うということに気が付いた。まず、これまで必ずといっていいほどあった、眩暈や耳鳴りがしない。それになんだか視野が広く、映像というよりも、まるで本当に目の前に存在しているかのようにはっきりと見える。そして何より最大の違和感は、こちらにじいっと視線を向ける少年たちの目が、赤く、まるで血のような色をして光っているのだ。

「何、あれ……。ねえ、シュウが昨日から見たって言ってるの、これのこと……?」

「ヒイロ?」

 じりっ、とヒイロが俺のコートの裾を掴み、ブーツに包まれた足を後ろへと引く。どうやら今回は俺だけでなく、ヒイロにも少年たちの姿は見えているようだ。

「……!」

 すると突然、少年の一人が、机と机の間を通ってこちらに向かってたたっと駆けて来た。まったくスピードを殺さず、むしろタックルを決めるかのような勢いで駆けてくるその姿を見て、俺とヒイロは反射的に横に跳ぶ。すると少年は、ガタガタと音を立ててすぐ近くにあった机へと突っ込んでいった。少年は倒れた机の間からむくり、と体を起こすと、にやり、と口元に白い歯を覗かせて、赤い瞳で俺達を見据える。その明らかに異常な様子に、ぶるり、と寒気が背筋を駆け抜けた。なんだ、これ。これは、本当に幻覚なのか? 

「……っ!」

 そうして俺達が呆然としてしまっていると、教室の奥にいた二人の少年たちも、こちらへ向かってたたっと駆けてきた。そのどう考えても友好的ではなさそうな様子を見て、俺は「走れ!」と叫ぶと、教室を出て廊下へと飛び出した。

「っ、何!? どういうこと? っていうかあいつらのあの目、明らかにシャドウ化してるよね!?」

「いやでも、人間もロストも、シャドウ化はしないはずだろ!? くそ、一体何が起きてるんだよ……っ!」

 ヒイロと俺はだだだっと一直線に廊下を走り抜けながら、混乱する頭でそんな会話を交わす。すると二階へと続く階段へと差し掛かったところで、ガラリとその近くにあった教室の扉が開き、さっきのとはまた別の少年たちが飛び出してきた。間一髪のところで避けつつ、俺は左腰からしゃきんと剣を引き抜く。何が起こるかわからないからと一応持ってきた剣を、まさか抜くことになるとは思わなかった。すぐ後ろではヒイロも、白銀に輝く剣を抜いて構えていた。

「グルアッ!」

「!」

 まるで獣のような唸り声を上げて、赤い目をした少年たちが襲いかかってくる。俺は剣の峰で正面から来た一人を薙ぎ払い、右側から来た一人には蹴りを入れる。背後からやって来たもう一人はさすがに間に合わなかったが、それはヒイロが相手をしてくれた。どさどさっ、と少年たちは床に倒れ込んだけれど……ダメだ。これはまた、すぐに起き上がってくるぞ。

「……ねえ、シュウ、ヤバいよ。よくわかんないけど、シャドウ化してるってことは、殺さないと離脱しない。でも……明らかにこいつら人間だよね?」

「……」

 俺と背中合わせになって剣を構えたままのヒイロの声からは、焦りが感じられた。シャドウ化した動物の駆除はしょっちゅうやっているけれど、それはあくまで動物だから、抵抗感が少ない。だけどたとえシャドウ化しているのだとしても、人間相手に容赦なく剣を振るえるほど、俺達はまだ覚悟が決まっていなかった。

「!」

 そんな風に剣を握る手に汗を滲ませ葛藤していると、廊下の向こうからこちらへ向かって駆けてくる影が、だんだんと大きくなってくる。さっきの教室にいた面々が、追いついて来たのだ。俺達が床へと倒した三人もそろそろ動き出しそうなので、さすがにこの大人数に囲まれるのはまずい。

「ヒイロ、とりあえず一旦外に出よう。本当に人間がシャドウ化してるんだとしたら、然るべきところに報告しないと。つーかあれが街に出たら、大変なことになるぞ……!」

 俺はヒイロに早口でそう伝えると、くるりとコートの裾を翻して、玄関側へと進路をとった。こちらへ向かって駆けてくる少年たちをなんとか峰打ちで押し退けながら、廊下を全速力で走り抜ける。

「……あ、れ?」

 そして玄関から真っ暗な闇に包まれるグラウンドへと飛び出したところでちらりと一瞬後ろを確認した俺は、思わずそんな声を漏らした。赤い目をした少年たちは、まるで何か見えない壁にでも阻まれているかのように玄関のところでピタリと止まり、それ以上俺達を追いかけてくる様子がなかったのだ。ヒイロも荒い息を吐きながらその様子を見て、「どういうこと?」と首を傾げる。

「もしかして……外に出られないのか?」

 俺はグラウンドの中央付近で足を止めて、その不可解な動きをする少年たちをじっと見つめる。理由はよくわからないけれど、とりあえず街へと放出される心配がないのならそれは一安心だ。とはいってもシャドウ化した人間の存在はやはりすぐに伝えるべきなので、俺ははあ、はあ、と肩を上下させながら、コートのポケットに手を突っ込み、昨日買ったばかりのプリペイド式の携帯電話を取り出した。

「……えっ、圏外」

「あれ……まだ通信が不安定なのかな」

 俺とヒイロは小さな画面に浮かぶ『圏外』という表示を確認し、顔を見合わせる。ここは街中だし、周囲にそれほど高い建物もないのに……と疑問が生じるけれど、まあ、通じないものは仕方がない。俺はキューを手にして再び『光球』の魔法を発動させると、近くのポートを探すべく校門へと向かって歩き出した。

「……いでっ!」

「……うぐっ!?」

 しかし校門をくぐり抜け学校の敷地外へと出ようとしたところで、俺とヒイロはほぼ同時にそんな間抜けな声を上げてしまう。そして痛たたたた……と、二人揃って顔を手で覆った。

「なんだ……?」

 俺はすっと、目の前、校門の先へと手を伸ばす。本来ならば空を切るはずのその手は、ガツン、と、何かに弾き飛ばされた。キューの光を当てて目を凝らすと、薄い半透明の壁のようなものが、キラリと反射して映った。

「シュウ……」

 すると隣でヒイロが、すっと人差し指を上に持ち上げた。その先を目で追うと、そこには濃密な闇と、満天の星空が広がる。

「!」

 しかし、それだけではなかった。俺達の頭上、三、四メートルのところに、まるでドームのような曲線を描く、半透明の壁のようなものがキラリと光った。なんだ、これ。俺は額に汗が滲むのを感じながら、すっと視線を遠くに向ける。その半透明の壁は、遥か遠くまで続いている。まるで、この学校の敷地内全体が、すっぽりと覆われているかのようだった。

「!!!」

 するとそのとき、カッ! という音が鳴り響き、パッ、とグラウンド全体が白い光で照らされた。何かと思えば、グラウンドの両端にずらりと並んでいた、部活動の夜間練習を行う際などに使われるであろう照明が、一斉に点灯していた。なぜ……? と思う間もなく、俺の目には、さらにとんでもないものが飛び込んでくる。照明によって今はもうはっきりと見えるようになっている、グラウンドの奥の、鉄筋コンクリートの校舎。高さ十五メートル以上はあるその建物が、まるで生き物であるかのごとく、うねうねと、大きく波打ち始めたのだ。

「ちょ……何これ……」

 ヒイロはじりっ、と思わず後ずさるが、その動きはすぐに透明な壁によって阻まれる。もうさっきから不可解なことの連続でわけがわからないが、とにかく、俺達は学校の敷地内に閉じ込められてしまったということらしい。やがてうねうねと脈打っていた校舎は徐々に静まりを見せ、再び、元の四角い無機質な建物へと戻る。

「!」

 しかし、異変はまだ続いていた。校舎の外壁の一番上、三階の中央の部分に設置されている、丸い大きなアナログ時計。その文字盤はすべて黒色だったはずなのに、10と2の部分だけが、赤く、不気味に光り輝いている。そしてそれだけでなく、文字盤の6の部分が、わずかではあるが薄桃色に光っているように見える。しかもその薄桃色の光球は、こうして見つめている間にも、少しずつ光を強めていっているようだった。

「っ!」

「わ!」

 するとギィンッ、とでもいうような音がびりりと空気中を引き裂き、薄桃色の光が、素早く一直線に文字盤からグラウンドの中央付近へと放たれた。レーザービームのようなその光に撃たれた地面は黒く焼け焦げ、ぷすぷすと灰色の煙が上がる。俺は驚愕の表情で、再び時計へと目を向けた。文字盤の6の数字からは、薄桃色の光球が新たに生まれ出している。

「っ、わっ!」

「! ヒイロ!」

 そして次に放たれたレーザーは、ガスンッとヒイロの足元のすぐ脇の地面を抉った。俺は慌てて右手に持っていたキューを腰のホルダーに格納すると、ヒイロの腕を掴み、こちらに引き寄せる。すぐそこの地面はまるで火炎放射器でも浴びせられたかのように黒く変色していたけれど、どうやら間一髪でヒイロに怪我はなかったようだ。

「……っ」

 しかし俺はそのままヒイロの手を引いて、グラウンドを駆け出した。文字盤の6の部分に、再び薄桃色の光球が発生し出していることに気が付いたからだ。そしてあのレーザーは、事前にどちらへと飛ぶか予測ができるようなものではない。二発のレーザーが照射される場面を見てそう判断した俺が目指した先は、さっきまでいた、鉄筋コンクリートの校舎の中だった。

「ちょっと、シュウ!?」

「中に入る!」

「えっ、でも、中にはシャドウ化人間が!」

「だとしても、レーザーよりはマシだ!」

 困惑した表情を浮かべるヒイロにそう叫び返し、俺は玄関へと体を滑り込ませる。レーザーの射出口が時計の文字盤ということを考えると、おそらく位置関係からいって校舎の内部には発射できないはずだ。俺達の姿にセンサーが反応して、パッと玄関の照明が自動で点灯する。するとヒイロが危惧した通り、それに気が付いたシャドウ化人間たちが、わらわらと廊下の奥から姿を現し始めた。

「……どうすんの」

 しゃき、と静かに腰から剣を抜きながら、ヒイロが緊張を帯びた声で尋ねてくる。じりじりとこちらに向かって距離を詰めてきている赤い瞳の少年の人数は、全部で六人。おそらくシャドウ化しているとはいえ、さすがに殺す勇気はない。たとえやらなきゃやられるという状況だとしても、俺の中の何かがストップを掛ける。となると気絶させるくらいしか方法はないが、この人数を相手に、そう上手くやれる自信も……。

「! 上だ」

「え?」

 するとそのとき、俺の頭の中に、ぴん、と閃きが訪れた。思い浮かんだのは、先程レーザーを放出していた、あの校舎の外壁に張り付いている丸い大きなアナログ時計。レーザーの飛び出る文字盤の6の部分に目が行きがちだけれど、俺が注目したのは、赤く光る10と2の部分だった。

「あの時計の、赤く光る部分。生き物に例えたら、まるで目みたいな位置だと思わないか?」

「あ……」

 俺の言葉に、ヒイロもはっとしたような声を漏らす。もし、校舎全体をシャドウ化した生物と仮定すれば、重要な部分、核とでもいうような弱点となる部分は、おそらくあの時計だと思う。そして校舎の中にいるシャドウ化人間があの時計によって動かされているのだとしたら、あそこを叩きさえすれば、この状況を打破することができるかもしれない。

「ヒイロ、昨日行った、三階の時計部屋覚えてるだろ? あそこまで、一気に駆け抜けるぞ」

「……わかった」

 俺とヒイロはシャドウ化人間たちが今にも飛び掛かってきそうな状況の中、一瞬目を合わせ、互いにこくりと頷く。昨日俺が大層気に入った、最上階、三階の中央に存在する、時計の真裏へと繋がる部屋。内側から歯車でも何でもぶっ壊して、全部正常に戻してやる。

「グルアアッ!!」

「!」

 俺達との距離を三メートル程まで詰めた所で、ついに痺れを切らしたように、赤い瞳の少年たちは一斉に襲いかかって来た。俺とヒイロはさっと避けられるものは横に跳んで避け、それ以外のものは剣の峰で薙ぎ払ったり肘鉄を食らわせたりして体から離す。大きなダメージは与えられないけれど、俺達の目的は三階の時計部屋へと到達することだ。進路さえとれれば、それでいい。

「う、わっ、マジか!」

 しかし玄関で六人の間をすり抜け、階段を駆け上がり二階へと降り立ったところで、すぐ先にあった教室の扉からまた別の学生服姿の少年たちが飛び出してきた。この感じだと、どうやらこいつらは校舎の至る所へと潜んでいるみたいだ。そして当然のように俺達へと襲いかかってくるので、再び剣を振るい、脇腹に蹴りを入れたりして、なんとかいなしていく。途中で廊下にあったロッカーを倒して足止めトラップとしながら、俺とヒイロは三階へと通じる階段を駆け上がった。

「まあ、ここにもいるよね……」

 そしてなんとか目的地である時計部屋のある三階へと降り立ったわけだが、ヒイロが呟いた通り、廊下にはシャドウ化した少年たちがわらわらと待ち構えていた。その人数は、およそ十人程。下の階にいる奴らは倒したロッカーで多少足止めを食っているはずだからすぐにはやって来ないとは思うけれど、突破に時間がかかりすぎると、追いつかれてとんでもない人数に囲まれてしまうおそれもある。

「……」

 そこで俺は、かちゃり、と右手に携えていた剣を左腰の鞘へと格納した。そして代わりにキューをホルダーから取り出し、側面のダイヤルを指でつまんでバッと引き出した。それによって、今まで一連しかなかったダイヤルが、三連の姿を見せる。

「!」

 その動きだけで、ヒイロには俺が何をしようとしているのかがわかったらしい。ヒイロは俺の目を覗き込むと、ゆっくりと頷く仕草を見せた。……さすが、ずっとタッグを組んできただけはある。目の前にいるシャドウ化人間たちに言葉を理解できる知能があるのかどうかはわからないけれど、わざわざ説明しなくていいのは、奇襲じみたこの作戦ではきっとプラスになるはずだ。

俺はかちかちと一番外側のダイヤルを回して、『光球』の魔法にセットする。そしてその下のダイヤルも、そのまた下のダイヤルも、選んだのは『光球』の魔法。そう。俺はこの魔法を、三乗に重ねて奴らにぶっ放す。グルルルル、という唸り声が聞こえる中、俺はしっかりと瞼を閉じた。隣ではヒイロも、すでに目を閉じているはずだ。

「いっ……けえええっ!」

「!」

 そしてかちり、とトリガーを引くと、閉じた瞼の向こうに、パアアァッ! と白く大きな光が発生したのを感じた。うう、とかああ、とかいう唸り声も、あちこちから聞こえる。念のためその後四、五秒立ってから、俺はぱちりと瞼を持ち上げた。

「おお……」

 見ると廊下にいたシャドウ化人間たちは、どいつもこいつも強力な光に目をやられ、床に倒れていたり、顔を手で覆ってうずくまったりしていた。作戦成功。この様子だと、こいつらはもうしばらく経たないとまともに動くことはできないだろう。

「ナイス、シュウ」

「おー。行くぞ、ヒイロ」

 ヒイロと俺はぱちりとハイタッチを交わすと、シャドウ化人間たちが転がる廊下を堂々と通って、中央にある、時計部屋の扉を開いた。中に入ってドアを閉めると、まずはかちゃりとサムターンを回して鍵を掛ける。もしあいつらが動けるようになったらこんな薄い扉すぐに壊されてしまうだろうから、気休め程度ではあるけれど。時計部屋は二重扉の構造になっているため、短い通路の先に、もう一つ扉があった。その扉の先に、歯車が剝き出しになったあの時計が存在するのだ。

 俺とヒイロは通路を歩き、ガチャリと、二番目の扉を開いて中へと入る。そこは、教室の半分くらいの広さのこじんまりとした部屋だった。扉の正面の壁には、かち、かち、と今も休むことなく動いている、大きな時計の歯車たちが見える。そしてそこへと至れるように作られた階段の上には、学生服姿の少年、三人の後ろ姿があった。

「!」

 こんなところにまで潜んでいるのか、と、俺とヒイロは顔を引きつらせる。すると三人の中の中央にいた少年が、俺達の存在に気が付いたのか、ゆっくりとこちらに振り返った。

「やあ、久しぶり、(しゅう)

 その瞬間、俺の右手は、左腰に提げられた剣を掴んでいた。そのまま勢いよく引き抜こうとするも、その動きはすんでのところで止められた。ヒイロが俺の右手を、両手で必死に押さえているのだ。

「シュウ……落ち着いて。この人達は、シャドウ化してないよ……。目が赤くないもん」

 カタカタと、押さえつけられている剣が、音を立てて震える。たしかにヒイロの言う通り、階段の上に立ってこちらを見下ろしている少年の瞳は、赤ではなく平常そのものな黒だった。遅れてこちらに振り返った両脇の少年たちも、また然りだ。……だけど、それがなんだっていうんだ。シャドウ? そんなものどうでもいい。沸々と、俺の中には怒りという名の激情が沸き上がる。今すぐに、こいつらを斬り伏せてしまいたい衝動に駆られて仕方がなかった。

「……だって、俺はこいつらに、心を殺された!!!」



 元々、大人しい方の性格だったとは思う。だけどそれでも、静かに平穏に、毎日を過ごすことができていた。……中学生になるまでは。

 俺が通っていたのは、小学校から大学までエスカレーター式の、私立の学校だった。俺は小学校受験をして入った口だったけれど、中学生になるタイミングで受験をして入って来る生徒もいくらか存在していて、そんな風に新しい風も加わり、中学校生活は始まった。とはいっても、やはりクラスの面々は小学校からそのまま上がって来た人が多数派だったし、そこそこ仲が良い友達とも一緒のクラスになれたので、俺は特に心配していなかった。『小学校』という名前が『中学校』に変わるだけで、今まで通り、地味ではあるけれど心地の良い毎日が続いていくのだと、そう信じていた。

 しかし、中学生になって一か月程が経った頃から、少しずつ、俺の学校生活に暗雲が立ち込めはじめた。外部から入って来た生徒達は、人数でいえば少数派ではあったけれど、なんだか『ガリ勉』とか『おぼっちゃま』とかいうイメージのある小学生からのエスカレーター組に比べて、おしゃれで垢抜けている雰囲気の人が多いように感じた。おまけに元気で明るい人も多く、自然とクラスの中心グループみたいな位置には、そういった外部生の人達が君臨するようになった。だけどそれは、俺個人としては別に構わなかった。クラスの人気者になりたいみたいな願望は俺にはなかったし、教室の隅っこで平和に楽しく過ごせれば、それで十分だった。

 しかし、俺はなぜだか、そういったクラスの中心にいる目立つ男子たちに目をつけられてしまったらしい。きっかけが何だったのかは、わからない。そもそもろくに話をした記憶もないから、多分何をしたというわけでもなく、単に俺の何かが気に入らなかったのだろう。

 それから俺は毎日、通り過ぎざまに悪口を言われたり、事故を装って体にタックルを決められたり、面倒な役目を押し付けられたりするようになった。クラスの中心の奴らのそんな動きを見て、小学生の頃に何度か遊んだりしてそこそこ仲が良かったはずの面々も、俺からすっと離れていった。他のクラスメイト達も、『こいつは雑に扱ってもいい奴だ』みたいな認識になって、冷たい態度をとるようになった。

 客観的に見れば、『いじめ』なんて名前の付くような状況だったのかもしれない。だけどいざ自分のこととなると、俺はどうしてもそんな風には考えられなかった。悪口を言われるなんてよくあることといえばそうだし、本当にたまたま廊下とかでぶつかってしまうことだってある。厄介事だって結局は誰かがやらなきゃいけないことだし、誰と仲良くするかを決めるのだって本人の自由だ。そんな日常の些細なトラブルごときを、親や教師に訴えるなんてできないと思った。もう中学生なんだし、それくらい自分で解決しなければ、という気持ちもあった。

 だけど、解決するといっても、どうしたらいいのかはさっぱりわからなかった。謝る、という案も浮かんだけれど、何も悪いことをしていないのに謝るのも変だし、かといって、面と向かってやめてなんて、絶対に言えない。

 結局、自分で何か行動を起こすことはせず、状況は何も変わらないままだった。ちくちくと心を突き刺すような嫌がらせの連続に、俺は自分がどんどんと疲弊していっているのを自覚していた。だけどそれでもなんとか学校に行けていたのは、クラスメイトの中には助けてくれこそもしないけれど、俺を攻撃しない人も数人ではあるが存在していたからだ。明確に悪意を向けられないというそれだけで、その人達の存在は、俺にとって『希望』となっていたのだ。

 だけど夏休みが明けて二学期が始まったところで、そのわずかな希望も、がらがらと崩れ去っていった。放課後、押し付けられた掲示物貼りの仕事に必要だった模造紙を資料室に取りに行って、再び教室へと戻って来た、そのときだった。希望だと思っていた、無害だと思っていたクラスメイト達が、俺の悪口を言っているところを偶然聞いてしまったのだ。その瞬間、俺は、目の前が真っ暗になった。みんな、俺のことが嫌いなんだ。その事実に、頭をガツンと殴りつけられたような気分だった。もう、誰も信じられない。それから俺は、学校に行かなくなった。

 人と接すること自体が嫌でたまらなくなっていた俺は、毎日、部屋に閉じこもって過ごした。そんな俺を見かねた両親が連れて行ったのは、都内にある大学病院の心療内科だった。思春期外来とかいう名前の付けられたそこで、俺は月に二回程通院し、カウンセリングによる治療を受けることになった。病名は聞いていないけれど、多分対人恐怖症とか、そんな感じだったのだと思う。カウンセリングの内容は主に主治医の先生との雑談で、たまに勉強とか、学校の話題をちらちら持ち出される感じだった。正直それをしたところで俺のメンタルに何か改善がみられるとは到底思えなかったけれど、通院を拒否したら強制的に入院させられるような気がして、俺はおとなしく月に二回、病院へと足を運んだ。

 そしてそんな、ある日の通院日のことだった。俺は主治医の先生から、コミュニケーション能力向上のための、ある最新の治療を試してみないか、と提案された。先生はごとり、と、俺の手の中に大きめのサングラスのようなものを載せる。現実で人と関わるのが難しいなら、まずはゲームの中で慣れたみたらどうか、と。

 そうして俺に与えられたのが、この世界だった。



 気が付くと、周囲の背景は、真っ白に消えていた。あの時計部屋の壁も床も天井も、階段の上から俺を見下ろしていたいじめっ子の姿もない。頭を抱えてうずくまる俺の目の前には、さらりと長い銀髪を靡かせる少女だけが、真っ直ぐに立っていた。

「……全部思い出したんだね、シュウ」

 そう呟くヒイロの声のトーンは、やけに優しかった。俺はぎゅっと、さらに体を縮こまらせる。そう。ここは、ゲームの中の世界。俺がコミュニケーション能力を向上させるための、虚構の世界だった。もちろん、今までずっとゲームに潜りっぱなしだったわけではない。一日に設定されたプレイ時間以外は、きちんと現実で過ごしている。だけど俺はこの世界に来ると、こっちこそが現実だと思い込んでいた。ゲームの設定を信じ込んで、本当の現実の出来事を、綺麗さっぱり忘れていたのだ。

「……お前は、NPCか。俺が少しずつ、人と話せるようになっていくのを、面白がって見てたんだな」

 NPC。このゲームのために作られた、人工知能、AI。心地良い夢から無理矢理目覚めさせられた気分になった俺は、そいつに向かってそう毒づいた。

「……違う。私は、NPCじゃないよ」

「まあ、違うって言うようにプログラムされてんだろうな。本当、無駄によくできてる……」

「っ、シュウ!」

 するとヒイロは、必死な表情を浮かべて、俺にじっと真剣な目を向けた。その様子に俺もつい、顔を上げて見つめ返してしまう。

「シュウ……冷静になってよ。この治療を受けてるのが、シュウだけなはずないでしょ……。この世界にはNPC以外に、シュウみたいな生身の人間だっているんだよ」

「……!」

 そのヒイロの言葉に、俺ははっとする。言われてみれば、たしかにそうだ。

「ってことは、ヒイロも、患者か……?」

「……違う」

 しかしヒイロからは、また否定の言葉が紡がれる。その煙に巻くような言い方に、俺はちょっぴりイラっとした。

「多分、私は特例だったんじゃないかな」

 ヒイロはぼそりとそう呟くと、すっ、と視線を遠くに向けた。まるで今ここにはいない、誰かのことを見るかのような仕草だった。

「……ねえ、シュウ。楽しかったよね。この世界。余計なこと何も考えないで、自由に、広い大地を走り回れてさ……」

 そう言うと、ヒイロはえへへ、と自嘲的な笑みを浮かべた。いつも明るいヒイロがそんな表情をするのを見ていられなくて、俺はつい目を逸らす。一体何が彼女にそんな顔をさせているのかも、わからなかった。NPCでもなく、患者でもないというなら、ヒイロは何者なんだ?

「だけどね、やっぱり、ここを現実にしちゃいけない」

「!」

 そして次に飛び出したヒイロの言葉は、俺の心をぐさりと突き刺した。それは全くの正論で、今の俺が一番言われたくなかった言葉だった。俺はこの世界を、手放したくない。嫌なことばかりの現実より、このあたたかい世界に、ずっと浸っていたかった。

「嫌、だ……」

「大丈夫だよ、シュウ。シュウ、ちゃんとできてたじゃん。現実だと思ってたここでできてたんだから、本当の現実でだって、できるよ」

 ヒイロはそんな励ますような言葉を掛けてくれるけれど、俺はふるふると首を横に振った。するヒイロは少し考え込むような仕草を見せた後、再び口を開いた。

「『過去はどうにもならないけど、未来は変えられる』、でしょ?」

「!」

 その言葉に、俺は息を呑む。それはフェスの時にレジを盗んだあの泥棒たちに、俺が偉そうに言い放った言葉だった。

「それとこうも言ったよね、シュウ。『怖いものを見ないままでいたら、ずっと怖いままだ』、って」

「!!!」

 その台詞も、シャドウ化した動物を怖がるランに、俺が言ったことだ。だけど俺はどっちも、そんなつもりで言ったわけじゃない。現実の記憶をさっぱり忘れていた俺が、勝手に口走ったことだ。

「……」

 でも、俺だって本当はわかっていた。ここに、いつまでもいちゃいけないんだってことくらい。だけどやっぱり怖いという気持ちが消えなくて、俺は瞳にじわりと涙を滲ませながら、情けなくも再び首を横に振った。それは小さな子供が、帰りたくないと駄々をこねて泣いているのと大差なかった。

 すると、ふわり、と俺の体があたたかいものに包まれる。ヒイロが俺の首の後ろに腕を回し、頭を抱きかかえるようにして体を寄せてきたのだ。ドクン、ドクン、と互いの心臓の音が聞こえそうなくらい、近くにヒイロを感じた。これがゲームの中だなんて、本当に、信じられないくらいだった。

「……大丈夫だよ、シュウ。今度は、現実で会おう」

「……っ、待っ……」

 それは紛れもなく、ヒイロからの別れの言葉だった。この世界の終わりを予感した俺は、慌て身を捩る。だけど、もう遅かった。世界がどんどん、眩い光に包まれていく。すぐ傍にいたヒイロも、自分自身の輪郭も、その真っ白な光に溶けて、消えていってしまう。


 やがてその光が治まった時、俺の目の前に広がっていたのは、漆黒の闇だった。俺はぱちりといくつか瞬きをしてから、自分の目元に手をやり、大きめのサングラスのような形をしたVRゴーグルを外す。すると真っ先に飛び込んできたのは、真っ白な天井。むくりとベッドから体を起こすと、テレビ、机、本棚、テーブル、見慣れた自分の部屋の光景が目に入る。

「……」

 このなんともいえない虚無感は、俺がゲームから現実へと帰って来た際、毎日感じていたものだった。だけど今日のは、特別きつい。俺はもう何も考えたくなくて、VRゴーグルをテーブルの上へ置くと、そのまままたベッドへ入った。そして瞼を閉じて、今度は『睡眠』という夢の世界へと逃げ込んだのだった。



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