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新入り、ラン

 周囲を岩の壁に囲まれた洞窟内で、俺はうさぎを七匹分くらいまとめてデカくしたような奇っ怪な生物と向き合っていた。この世界固有の生物種で、たしか名前は『ラー』とか言ったっけ。こちらをじいっと見つめる二つの目は、赤く禍々しい血のような色に染まっている。ラーの背中には先程から何度も剣が振るわれているが、当の本人が気にする様子はない。知能が低いためいくら自分の体にダメージが与えられようと、視界に入らないものは敵として認識できないのだ。

「!」

 やがてラーがぶるぶるとその大きなお尻を左右に震わせるのを見て、俺は、来る、と腰に力を込めた。攻撃の、前兆動作。このあとこいつは、俺に向かって真っ直ぐに突進してくる。ギリギリまで堪え、ラーの前足が地面を蹴る直前、右へと跳んで回避……。

「……うげっ」

 するつもりが、地面の小石を踏んでしまったらしく左足が滑った。まごついている俺の左腹にラーが見事にタックルを決め、鈍い痛みが走る。どさり、とその場に尻餅をついた俺を見て、長い銀髪の少女が攻撃の手を止め駆け寄ってきた。「シュウ!」と俺の名を呼んで、ぐいっと手を引き立ち上がらせる。

「……っおい、こんなのなんでもないんだからちゃんとあっち構え」

 俺は早口でそうまくしたてると、少し離れたところで再びこちらに攻撃しようと様子を窺っているラーへと視線を向けた。強がりでもなんでもなく、この程度怪我のうちにも入らない。きっと、痣も残らないくらいのダメージだ。

「そんなわけにいかないでしょ。今度は私がおとりやるから、シュウが攻撃して」

「は……」

 彼女はそう言葉を残すと、銀髪を靡かせてダーッとラーの元へと駆けて行った。ああもう、止める間もない。雑魚相手とはいえ本当は女子におとりなんて危険が生じる役目をさせたくはないけれど、いいや、なんか今回はもう今更だ。俺はふーっと溜め息を一つ吐くと、腰から黒い剣を引き抜いた。そしてラーの背後へと回り、右手を振り下ろす。この剣には魔法がかけられていて、いくらラーの体を傷つけても血や肉が飛び散ることはない。時折色とりどりのライトエフェクトが、目安として発生するだけだ。それなのにきちんとダメージが通るというのだから、まるでゲームみたいだ。何度目かの剣撃の後に、ラーはどさり、とその体を横たえさせる。するとラーの目の色と同じ禍々しい血の色の光が、ふわりと体から抜け、そのまま天へと昇っていった。離脱現象。それはつまり、目の前のラーはもう絶命したということだった。俺はかちゃり、と、剣を鞘に収める。

 自然が多い場所で発生する、『シャドウ』と呼ばれる瘴気。これに侵されると自我を失い破壊衝動に駆りたてられ、仲間ですら見境なく襲うようになってしまう。だからこうして、シャドウ化した生物は駆除しなければならない。

「……」

 ふと視線を感じ周囲に目を向けると、岩陰からラーが二、三匹、静かにこちらを見つめていた。その目の色は先程のラーとは違い、漆黒に染まっている。なんとなく、こちらに向かって『ありがとう』と言っているような気がした。まあ、ただの気のせいなんだろうけど。

「……うっわ、やっぱ欠けてる」

 それから俺はさっきの失態を思い出し、左足を持ち上げブーツの底を確かめた。金属製のスパイクの一部分が欠け、引っ掛かりが弱くなっている。さっき俺が小石程度で滑ってしまったのは、このせいだ。

「うわー、本当だ。でもこれぐらいなら、シュウんとこの親父さんがちゃちゃっと直してくれるでしょ」

「まあな」

 ひょっこりと隣で覗き込んでくる銀髪の少女に、そう返事をする。彼女はまだ握ったままだった白銀の剣を鞘に収めると、ふっふっふ、と得意気な表情になった。

「いやー、それにしても今日はシュウのピンチをヒーローの如く華麗に救えてよかったよー。名前に恥じぬ行いが出来て実によかった」

「ピンチでもなんでもなかったし別に救われてもないんだが」

「手引っ張って立ち上がらせてあげたじゃん」

「頼んでねーよ。つーか、普通目指すならヒロインじゃねーの、女なんだし」

 そう言って俺はちらりと、目の前の少女を見つめる。俺がいつもタッグを組んでいるこいつの名前は、ヒイロという。『ヒーローになれますように』と両親が付けてくれたのだと、以前聞いたことがあった。別にそのご両親の願いにケチを付けるわけではないけれど、どちらかといえば男の子向きの由来なのではと思わなくもない。

「えー? いやいや、やっぱヒーローのほうがかっこいいっしょ」

 ヒイロはにかっ、と白い歯を覗かせて笑みを浮かべる。だけど次の瞬間、急に真面目な表情になってぼそりと呟いた。

「……なんて、結局私は守られてばっかだけど。守られ系なんだよなー、うーむ」

 ぶはっ、と、吹き出しそうになるのを俺は必死に堪えた。何言ってんだこいつ。守られ系ヒロインはさっきのお前みたいに剣をバカスカ振り回したりはしない。おとなしく城で王子を待ってるよ。そう指摘したかったが、なんかそれはそれで面倒臭いことになりそうな気がしたので、口を噤む。その代わりに、腰から『キュー』と呼ばれる銃のようなフォルムの装置を引き抜き、地面に横たわるラーの死体に向けた。かちり、とトリガーを引くとラーの体は緑色の光に包まれ、やがて跡形もなく消滅した。

 これは、この国の現地民である『ロスト』が使える魔法の力によるものだ。人間が使用するには、このようにあらかじめ『キュー』に魔法を保存して放出する方法がとられる。今使用したのは『転送』の魔法で、ラーの死体は無事にクエストの依頼主へと届いたはずだ。生物を凶暴化させる『シャドウ』は絶命と共に天へと還るため、シャドウが取り除かれた生物の死体は、毛皮や肉などしかるべきところで利用される。まあそうでなくとも、人間やロストはシャドウに耐性があるらしいから、極端な話シャドウ化した生物を生きたまま踊り食いしても体に影響はないそうだけど、絶対気分はよくないだろうな。

 さて、今日のクエストはこれくらいで十分だ。引き上げようと、俺はキューをしまいつつ洞窟の出口に続く道へと体を向ける。だけどヒイロはそんな俺とは反対方向へ、ずしずしとブーツの靴底を鳴らして歩いていた。おい、と引き留めようとしたが、すぐにその意図に気付いた俺は黙ってその後ろに続いた。ごつごつした岩でできた細い坂道の先には、人が二人程同時に通れそうなくらいの大きさの穴がぽっかりと空いている。ヒイロは、あそこへ行こうとしているのだ。

 穴の先へと体をくぐらせると、真っ先にオレンジ色の光が目を焼いた。おでこに手でひさしを作って光の量を調節してから、眼下に広がる景色に視線を向ける。一面に広がる木々の緑、その隙間に見え隠れする赤茶けた岩肌。細く曲がりくねった清流には、夕日の光が反射してキラキラと輝いている。大都会東京じゃ、こんな雄大な自然は見ることができない。

「きれいだね」

 すぐ隣で呟くヒイロに、ああ、と頷きを返す。

 俺がこの異世界に来てから、もう十か月。俺はこの世界が、たまらなく気に入っていた。



 『魔法』なんてものは、創作やファンタジーの中の世界のものだ。その概念がひっくり返ったのは、今から十年前に日本で起きた、大地震がきっかけだった。なんでもその地震によって、沖縄県の離島に古来より存在していた、『魔石』と呼ばれる魔力の籠もった石が破壊されたらしい。そしてどうやらその魔石とやらは封印とかそういった類の役目を負っていたらしく、それが破壊されたことで、人類は新たな世界との出会いを果たすことになった。日本近海に突如として現れた、『エルクロスト』という国。そこには人間が持ち得ない、『魔法』というテクノロジーが存在していたのだ。

 この未知の技術を持つ異世界の調査権限の多くは、日本に与えられた。日本の領海内に位置しているという理由に、そして何より、『ロスト』と呼ばれる現地民の主要言語は、なぜか日本語だったからだ。魔石が沖縄にあったという事実もあるし、大昔にも日本とエルクロストとの間に交流があったのではなんて言われているが、今のところそこらへんの事情はまだ解明されていない。とにかく言葉が通じるということは大きく、両国の交流はスムーズに幕を開けた。

 そこでわかったことは、エルクロストの文明は、現代日本よりもはるかに遅れているということだった。人間はロストの持つ『魔法』の力を欲し、ロストは人間の持つ医療技術や科学技術を欲する。このシンプルな構図で、両国の交流はどんどんと加速していった。

 そして三年程前に始まったのが、『開拓民』プロジェクト。エルクロストのさらなる発展のために、と、人間をエルクロストへ開拓民として送るプロジェクトだ。開拓民は日本政府によってランダムに選出され、原則拒否することは不可能。そんな制度に翻弄され、俺はこの『異世界』とでも呼ぶべき、不思議な国へとやって来た。中学一年生の、冬の日のことだった。



 瞼の上に降り注ぐ日の光で、目が覚めた。体を起こすと、ぎしりと木製のベッドが軋む。スマートフォンのアラームを使わなくても朝が来れば自然に起きられるようになったのは、こっちに来てから得たものの一つだった。ベッドを降り部屋を出た俺は、階下にある洗面所へと向かう。冷水で顔を洗って気分もすっきりしたところでリビングへと顔を出すと、「うーす」と背の高い男性、カイルさんが挨拶してくれた。「おはようございます」と挨拶を返しつつ、ちらりとリビングの奥のダイニングへと目を向ける。そこでは白髪交じりの男性、シルバさんが朝食の用意をしてくれていた。香ばしい匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐる。

 シルバさんとカイルさんは、俺がこっちに来てからずっと下宿をさせてもらっている、鍛冶屋の親子だ。シルバさんは五十代半ばくらいで、カイルさんはたしか二十七歳。二人共この世界の現地民である、『ロスト』だ。ちなみにこのロストという呼称は人間が付けたもので、国名である『エルクロスト』が由来と言われている。ロストと人間には見た目に明確な違いはないけれど、なんとなく雰囲気で見分けがつく。同じアジア人でも、日本人とそうじゃない人の見分けがつくのと似ていた。

 シルバさんの手によって、ダイニングテーブルにできたての朝食が並べられる。制度的には一人暮らしも可能だけれど、家事がまったくできない俺にはやはり食事の心配をしなくていい今の環境が合っているとしみじみ思った。いつものように三人でテーブルを囲み、「いただきます」と手を合わせて箸を取る。今日の朝食は、ウィンナーに目玉焼き、そしてほっかほかの白飯。食文化に大きな違いはなく、たまにこの世界固有の動物や植物が食材として使われていることもあるけれど、ゲテモノだと感じたことは一度もなかった。

「シュウは、今日も少年団か?」

「はい、そうです」

 隣に座るカイルさんがもぐもぐと口を動かしながら尋ねて来たので、俺はそう言葉を返す。少年団というのは、『開拓少年団』のことで、日本からこの世界にやって来た開拓民の中でも未成年の子供だけで組織された団体のことだ。成人以上だと、『開拓青年団』というものもある。エルクロストの全国各地に支部があるこの団体への所属は強制ではないけれど、俺はこっちに来てすぐに所属していた。というのも、この国は日本と違って学校というものがないため、やることがなくて暇なのだ。少年団に所属するメリットは主に、この世界に関する色々な情報が集まりやすいことと、仕事の斡旋を受けられるということだろう。この国には年齢による就労制限がないため、十四歳、日本で学校に通っていたら中学二年生の俺にも、仕事を請け負ってお金を稼ぐことが可能だ。なので俺は平日の昼間はほとんど、少年団の活動に費やすという日々を送っていた。

「……シュウ、スパイク、直しといたから」

 すると俺の正面に座っているシルバさんが、おもむろにぼそり、とそう呟いた。そこで昨日のブーツの件を思い出した俺は慌てて、ありがとうございます、と言って頭を下げる。

「え、うっそ、親父もう直しちゃったの? オレがやりたかったのに」

「馬鹿野郎、お前は仕事が雑なんだ。練習でもまともなものが作れない奴に任せられるか」

 その親子のやり取りに、俺はつい、ぷっ、と吹き出してしまう。この前カイルさんが練習で作ったと言っていた、現代アートみたいに奇妙な形に曲がりくねった鉄の塊を思い出したのだ。シルバさんとカイルさんは親子でもあり、鍛冶職人と鍛冶見習いという関係性でもある。だけどシルバさんの厳しい言葉通り、カイルさんが仕事を任せてもらえるようになるまではまだまだ時間がかかりそうだというのは素人の俺にもわかった。なんていうか、その飄々とした性格のせいもあってなのか、カイルさんにはいまいち集中力とかが欠けているのだ。何度か仕事場を覗いたことがあったけれど、カイルさんは手元を見ないで窓の外の景色を眺めていたりしたし。

 それから親子はぎゃいぎゃいと、仕事についての言い争いを始める。これはもういつものことなので、わざわざ止めるなんてことはしない。俺はごちそうさまでした、と言って静かに手を合わせると、二人の喧騒からすっと離れ、空になった食器を流しへと運ぶ。そしてそのまま二階の自室へ行き、いつもの外出用の黒いコートに着替えると、渡り廊下で繋がる鍛冶屋の店舗へと向かった。ガラリ、と木製の引き戸を開け、大きな窯がいくつも見える、少し薄暗い作業場へと足を踏み入れる。

「おお、すげえ……」

 そして作業台の上にあったブーツの底を見て、俺は感嘆の声を上げる。欠けてしまっていたスパイクには新たな鉄が塗り足され、見事に修復されていた。さすがシルバさん、凄腕鍛冶職人。感謝の気持ちを胸に、さっそくブーツに足を通す。そしてそのまま作業場からシルバさん御手製の鉄製品がいくつも並ぶ店内を抜け、俺は外へと飛び出した。

「ふー……」

 眩しい日差しが降り注ぎ、顔にはすーっと柔らかな風が当たる。遠くには青々とした山がそびえ、息を吸い込むと土臭い匂いが体いっぱいに広がる。周囲にはぽつりぽつりと木造の民家が建ち、他に見えるものといったら、田んぼや畑くらいだ。この自然豊かな田舎の村が、俺が住む、ユーフォテルダ。地理的にはエルクロストの北東部に位置しており、人口は百人いるかいないかといった小さな村だ。

「どーん」

「うげっ」

 そうして深呼吸して大自然の息吹を感じていた俺の背中に、突如鈍い痛みが走る。振り向くと、にかっと口角を上げて笑うヒイロが立っていた。

「シュウ、おはよー」

 ヒイロはそう言うと、ふわりと短いスカートを揺らして俺の隣に並ぶ。こいつも、目的地は俺と同じ。つまりは、少年団に所属する日本から来た開拓民なのだった。ヒイロは俺の下宿する鍛冶屋の近所の、定食屋を営む中年の夫婦のところに下宿している。そのためこうして朝少年団の活動に出かける途中に遭遇するというのは、わりとよくあることだった。俺も「おー」と適当に挨拶を返すと、舗装なんてされていない土の道を並んで歩き始める。

「やあー、開拓少年たち! 今日も朝からご苦労さんだなー!」

「親元離れて異国の地で頑張ってて、偉いなあ」

 すると向こうからやって来た村人の中年男性二人にそう声を掛けられ、俺もヒイロも揃ってぺこりと会釈をした。おじさん達が背負っている籠の中にはちらりとスコップやクワが見えたので、おそらく畑仕事に行く途中なのだろう。おれたちも負けずに頑張るぞー、なんて台詞を残し、おじさんたちの背中は遠ざかって行った。

「……なんか、開拓少年ってだけでベタ褒めされるよねー」

「俺はまだしも、ヒイロはその通りだろ。素直に受け取っておけよ」

 こっそりと耳打ちするようにして話しかけてきたヒイロに、俺はそう言葉を返した。『開拓少年』というのは、基本的に単身この世界に移住してきた子供のことを指す。家族と共に移住してきた子供は、『開拓民』とひとくくりに呼ばれることが多い。開拓民プロジェクトは国からの指令なので原則拒否できないけれど、選ばれたのが未成年者の場合は家族も伴っての移住が可能だ。だけどどうして開拓少年たちはそれをしなかったのかというと、その理由の多くは、単身移住した場合『手当金』として日本にいる親に毎月いくらかのお金が入るからだ。実際ヒイロは小さい頃に父親が病気で亡くなり、以来母子家庭であまり裕福な暮らしではなかったため、少しでも家計の助けになればと単身こっちに来るという選択をしたそうだ。ただ一方俺は同じ開拓少年と呼ばれる立場ではあるが、別に親一緒じゃなくてもいいかな、って感じで一人で来たので、ヒイロのように立派な人間ではない。

「でも、シュウん家にだって毎月お金は入ってんじゃん」

「そんなの、うちの親にとっては紙切れだよ」

 俺は四六時中仕事に駆けずり回っている両親のことを思い浮かべながら、そう答える。うちの両親は二人共それぞれ会社を経営している、いわゆる社長と呼ばれる人間だった。

「お金持ちなんだっけ?」

「そ。ムカつく?」

「ちょっとねー」

 ヒイロはそう言って、けらけらと笑う。言葉とは裏腹に、怒りの感情は微塵も感じなかった。多分、お金持ちと聞いてもそもそもあまりピンと来ないのだろう。俺だってこっちに来てようやく、庶民的な生活というものがわかるようになったくらいだ。俺とヒイロはこうして開拓少年にならなければそもそも交わることのない、住む世界の違う人間だったのだと思う。

 ふいに、キラリ、と眩しい光が視界をちらつき、俺は目を細める。その正体は、すぐ隣で揺れるヒイロの銀色の長髪だった。こんな奇抜な髪の色は、普段日本で見ることはまずない。こっちにしかない、ドラゴンの羽を粉末にして混ぜた染料で染めているそうだ。光の反射で虹色のプリズムを形作るヒイロの髪の毛が、さらりと風に靡く。すると俺の視線に気付いたヒイロが、自分の胸元にかかる髪の毛を一束つまんで言った。

「シュウも染めたら? せっかくだし、こっちにしかないような珍しい色にしよーよ」

「いいよ俺は。日本人なんだし、黒髪が一番だろ」

 俺はつい見惚れてしまっていたことがばれないように、素っ気なく言い放ちずんずんと足を前に進めた。ヒイロはえー、とか言いつつ、同じくスピードアップして付いてくる。そんなこんなしていると、いつの間にか目的地へと辿り着いていた。山小屋のような、木造のこじんまりとした建物。ここが『アジト』と呼ばれる、少年団の拠点だ。

「おはー、二人共―」

 カラン、カラン、とドア上部に取り付けられたベルを鳴らしながら中へと入ると、さっそく見知った顔が目に入った。十畳ほどの雑多な室内の中央付近で、椅子に腰掛けながらこちらに挨拶をしてくれたツンツンヘアの男子は、ナオキ。俺とヒイロより二つ年上の十六歳、日本で学校に通っていれば高校一年生の先輩だ。そしてそのナオキの奥で軽く片手を挙げて挨拶をしてくれている背の高いショートカットの女子は、アスカさん。アスカさんはナオキの一つ年上の十七歳で、高校二年生だ。この二人は俺が少年団に所属してすぐに新人研修を担当してくれた縁があり、現在二十人程所属している少年団員の中でもわりと話す機会の多いメンバーだった。

「クエストは?」

「まだ来てない。今日はちょっと遅れてるみたいだ」

 俺の問い掛けに答えてくれたアスカさんは、ちらりと部屋の奥に存在している、白いテーブルのようなものへと目を向けた。これは魔力の籠もった『魔石』で作られた『ポート』と呼ばれるもので、主に通信や転送に使われている。ポートはエルクロスト国内のあちこちに一定の間隔で配置されているけれど、通信網の発展していない田舎のここユーフォテルダでは、特に重要な装置だった。

「……あ、来たんじゃね」

 ナオキがぼそりとそう呟いたのと同時に、パアッ、と、ポートが白い光を放ち始める。やがて光が治まったかと思うと、ポートの上には数枚の紙の束が出現していた。俺、ヒイロ、ナオキ、アスカさんの四人は、我先にと手を伸ばす。この紙は『クエスト』と呼ばれる仕事の依頼書、いわば求人票のようなもので、基本的には早い者勝ちだ。田舎ということもあって、その内容はシャドウ討伐が一番多かった。俺は難易度や報酬の欄はざっと目を通すだけに留め、場所の欄に注目して依頼書を見ていく。昨日の洞窟の先の夕日のように、景色のいい場所を見つけることが俺の密かな楽しみの一つだからだ。まだあまり深いところまで探索したことのない西の谷付近のシャドウ討伐の依頼を発見したため、ヒイロに紙を見せて伺いを立てた。少年団では安全の為複数人で行動することが推奨されており、俺はヒイロとタッグを組んでいた。ちなみに、ナオキはアスカさんとタッグを組んで行動している。ヒイロも頷いて了承してくれたため、今日の仕事はこれに決まりだ。その後はポートを通しクエストの受注手続きをして、キューに必要な魔法をチャージする。準備が整いさて出発するか、と思ったその時、カラン、と入り口のドアベルが鳴った。他の少年団員が来たのだと思って特別気に留めなかった俺だったけれど、「ケンヤさん!」と言うナオキの声が聞こえたため、顔を上げた。

「おー、よかった。何人かいるな」

 見るとアジトの入り口には、背が高くて筋肉質ながっしりとした体型の男性の姿があった。この人は、ケンヤさん。歳は二十四歳で、よく俺達少年団員の世話を焼いてくれている人だ。日本から来た開拓民であり、俺が知る限り、一番の古株でもあった。色々な仕事に関わっていて日々忙しいみたいだけれど、時折こうして顔を出してくれたり、自ら少年団や青年団の活動を手伝ってくれることもあった。

 と、そこで俺はそんなケンヤさんの後ろに、もう一つ人影があることに気が付いた。ケンヤさんも後ろを向くと、その人物を手で促しアジトの中へと入れる。おずおずとケンヤさんの隣に並び立ったのは、小柄な金髪の子供だった。目の色は青くて、ワイシャツにベスト、半ズボンにブーツという格好をしている。

「今日からこの少年団に加わることになった、ランだ。西の方の都市から越してきた開拓少年だから、色々と教えてやってくれ」

 ケンヤさんはそう言うと、ポン、と優しくランの肩を叩き、挨拶を促した。みんなの注目が集まる中、ランは小さな震える声で、「あ、足立(あだち)ランです。よろしくお願いします」と言ってぺこりと頭を下げた。その様子を見て俺は、ああ、緊張しているんだな、と思った。俺自身も社交的な方ではなく人前で話すのは得意じゃないので、なんとなく、シンパシーを感じた。だから俺は、少しでも安心させたくて柄にもないことをしてしまった。すっとランの目の前に歩み出て、「よろしく、ランちゃん」と言葉を掛けたのだ。

「!」

 するとランは、ひぐっ、と音が聞こえそうなほどにその小さな顔を引きつらせた。……優しいトーンを心がけたつもりだったけど、びびらせてしまったかな、と思わず周囲に目をやると、ランの隣でケンヤさんが何か言いたげな表情で頭をぼりぼりと掻いていた。

「あー……、シュウ、こいつ、男。中一男子」

「……えっ」

 ケンヤさんが言いにくそうに告げた言葉に、俺の頭は真っ白になる。てっきり、女の子だと思っていたのだ。俺は改めて、ランの顔をまじまじと見る。目がくりりとしていて可愛らしい顔立ちだし、髪も顎下くらいと長めではあるけれど、少年と言われれば、たしかにそう見えなくもない。

「えっと……すまん」

 気まずい空気が辺りに漂う中、俺は謝罪の言葉を口にした。すると俯き加減なランの顔が、かあっと真っ赤に染まった。そしてふるふると唇を震わせると、くるりと俺に背を向けて地面を蹴った。あっ、とみんなが息を呑むのと同時に、カラカラとドアベルが鳴る。ドアが閉まる前にケンヤさんが素早く体を差し込み、俺たちに振り返って軽く片手を挙げた。

「えー、まあ、そういうことだから。みんなこれからランのことよろしくな!」

 それだけを早口で言うと、ケンヤさんはアジトを飛び出したランを追いかけ外へと出て行った。ドアが閉まり、再びカランカランとベルの音が鳴り響く。一方俺は、目まぐるしく展開する出来事に頭と体がついて行かず呆然と立ち尽くしていた。俺も追いかけないと、とようやくその考えに至ったものの、ケンヤさんに任せたほうがいいのでは、という考えも浮かび、結局その場で足踏みだけをしてしまう。するとそんな俺の肩に、ぐっと腕が回された。

「ドンマイ、シュウ。二択に負けたなー」

 そう言ってヒイロはうんうんと頷きながら、慰めるように俺の肩をポンポンと叩く。

「名前もトラップだったな」

「あの子、すごい目鼻立ちくっきりした子だったよね。ハーフかな」

「そうだろ。金髪で目ぇ青かったし」

 一部始終を見ていたナオキとアスカさんも、そんな会話を交わす。そのいつも通りの仲間のやり取りを見ていると、だんだんと俺の気持ちも落ち着いてくるのがわかった。ふうっ、と息を吐いて、飛び出して行ってしまった新入りの金髪の少年のことを考える。繊細そうな子だったし、明日会った時にも、少し気にかけてあげないと。



 しかし次の日の朝、アジトにランの姿はなかった。いい仕事を取るためにいつも早めに家を出ている俺がそれよりまた早く家を出たのだから、先に来てもう仕事に行ってしまったということはないだろう。ヒイロに頼んでそれから一時間程アジトで待たせてもらったけれど、それでもランは現れなかった。ちなみになぜかナオキの姿もなく、タッグパートナーであるアスカさんもイライラした様子でアジト内に留まっていた。ランとナオキが一緒にいるのであれば俺が気を揉む必要はないのだけれど、いかんせん確認の方法がない。ここが日本だったらスマートフォンですぐさま連絡が取れるのだけれど、ここはまだ通信網が発展していないため電話なんてものがそもそも存在しない。文明の利器の重要性を、改めて痛感する瞬間だった。

 やがて痺れを切らしたアスカさんが、ナオキの家を見てくる、と言ってドアへと向かって歩き出した。ナオキの下宿先は、アジトから十分程のところにある。もし行き違いがあってナオキがアジトに来たらその時は引き留めておくから、と言い、俺は肩を怒らせて歩くアスカさんを見送ろうとした。

「っはあ、やっべー、寝坊したあああ!」

 するとその刹那、ドアが勢いよく開いてぼさぼさ頭のナオキがアジトへと飛び込んできた。ドアの目の前にいたアスカさんも俺達と同様に驚いたはずだったけれど、すぐに状況を理解しナオキの顔面にグーパンチを決めていた。ぐえっと仰け反るナオキの胸倉を掴んで、「どれだけ待たせるんだ!」と説教を開始する。ナオキはあー、とかえーと、とか言ってなんとかアスカさんの怒りを鎮めようとしているようだったけれど、やがて、アジト内に俺とヒイロもいることに気が付いたらしい。ぱあっと顔を輝かせると、暢気な調子でこう言い放った。

「あれ、なんだよ。シュウとヒイロもオレ待ちだったの? いやー、モテる男は辛いなあー」

「んなわけないだろ。ランだよ!」

 そして再び、アスカさんから殴られる。ぐへえっ、と間抜けに壁に頭を打ちつけたナオキだったけれど、ランという名前を聞いたからか、その表情には少し真剣味が差したように見えた。

「あー、来てないんだ。ラン。……つーか、多分待っても来ないんじゃないかな」

「それって、どういう……」

 そのナオキの含みのある言い方に、俺は思わず尋ね返す。アスカさんも空気を読んで説教を中止すると、ナオキはよっこらせと体を起こして話し始めた。

「いや、実は昨日の夕方に偶然またケンヤさんに会ってさ、ランのこと色々聞いたんだよね。そしたらなんでも、ラン、西の方の都市の少年団にいた時、いじめに遭ってたんだとさ。それで、こっちに引っ越してきたってわけ。……だから、来ないんじゃないかな」

「……!」

 ナオキにしては珍しく、落ち着いた声のトーンで話されたその内容に、俺達はしばし言葉を失った。いじめ。たとえ魔法が存在する世界であろうと、それは決してなくならない。

「……そっか。少年団に嫌な思い出があるなら、そりゃあ来ないかもね。……まあでも別に強制なわけでもないし、それはそれでいいんじゃない? シャドウ駆除っていう大義名分があるとはいえ、動物相手に剣振り回すのとか、あの子苦手そうだし」

 そのヒイロの言葉に、アスカさんも「そうだね」と同意する。無理に引き留めない、というのが、二人の優しさだということは俺にもわかった。そもそも日本にいれば仕事なんてしなくてもいい歳だし、最低限の生活費は国から出ているからお金の心配はいらない。それにヒイロの言う通り、シャドウ討伐は必要なこととはいえ命を奪う行為だ。感受性の豊かな子だったりしたら、ちょっとそこらへんに思うところもあるだろう。……でも。

「……強制じゃないんだから、本当に嫌だったらそもそも最初から来ないだろ。それでも昨日来たってことは、頑張りたいって気持ちがあったからだろ」

 俺がぼそりと呟くと、三人は一斉にこっちを見た。その表情には、揃って驚きの色が浮かんでいた。俺は普段、こういう風に積極的に意見を述べるなんてことはあんまりしない。そこまでして通したい意志がそもそもないし、基本的にその場の空気に流されるタイプだ。だけどなぜだか、この件だけは黙っていられなかった。黙っていられなくて、再び言葉を紡ぐ。

「それに、ここに来る前のことはよく知らねえけど、いじめはいじめた奴が悪いし、昨日のあれだって俺だよ、落ち度があるのは。あいつが引っ込む必要はねえよ」

「……」

 ヒイロも、ナオキも、アスカさんも、何かを迷うような表情で黙り込んだ。だけど、それでいいと思った。別に賛成してほしかったわけじゃない。ただ、俺がどうしたいか。それだけの話だった。

「ナオキ、ランの家、知ってるか?」

「え、あ。ほら、サリーさんとこのブティックあるだろ。そこに下宿してるって」

「……ってことは、ホントに開拓少年なんだね。一人でこっち来たんだ……」

 ナオキの言葉を聞くと、ヒイロは切なげに目を細めて自分の胸元をぎゅっと握り締めた。同じく開拓少年であるナオキとアスカさんも、若干顔を俯ける。あのおとなしそうな感じの子が、親元を離れて一人でこんな異世界に来たのだ。どれだけの覚悟と勇気が必要で、そして、どれだけの辛さを背負ってきたのだろうか。

「っ、シュウ!」

 アジトのドアを勢いよく押し開けると、後ろでヒイロが俺の名前を呼ぶのが聞こえた。だけど俺は振り返らず、そのままアジトを飛び出す。向かう先はもちろん、ランの下宿先だ。たっ、たっ、と坂道を駆けていると、次第に自分以外のもう一つの足音が耳に入ってきた。ヒイロだな、と瞬時に思った俺は、走るのをやめて歩きへと移行する。するとやがて追いついてきたヒイロは、まるで捕獲するかのようにがっしりと俺の左腕を掴んだ。

「ちょっとシュウ、一人で先に走るのなし! 私パートナーじゃん! 置いてかれたらやることないよ!」

「ナオキ達に混ぜてもらってクエスト行けばいいじゃん」

 俺が少し意地悪なことを言うと、ヒイロは肩を上下させてまだ荒い呼吸のままぷうっと頬を膨らませた。こいつはこんなんだけど意外と律儀だから、勝手に他の奴と組むなんてことはしない。別に今回は俺が急に飛び出したわけだから文句を言われる筋合いはないはずなのに、まったく、変なところに気を遣う奴だ。

 それからもう勝手に走らないと約束した俺の左腕は解放され、二人で並んでサリーさんのブティックを目指した。アジトから七、八分のところにあるブティックは、サリーさんとヘリオさんという六十歳くらいの老夫婦が営んでいるお店だ。どちらかというと年配の方向けの洋服が多いのであまり利用したことはないけれど、狭い村なので面識くらいは普通にあった。

「あら、ランに用事ですか? ランなら、二階の自分の部屋にいると思いますけど……」

 ブティックはまだ開店前だったけれど、お店のドアを叩いたらおしゃれな服に身を包んだ小柄な女性、サリーさんが出て来て応対してくれた。どうぞ、とそのまま中に入るように促されたので、俺とヒイロはぺこりと会釈をして店内へと足を踏み入れる。店内はあまり広くなくこじんまりとしているけれど、それがかえっておしゃれさを醸し出しているような気もする。聞けばこの店の商品は、すべてサリーさんと夫のヘリオさんがデザインから縫製までやっているのだそうだ。

「ランー、少年団のお友達が来てくれたわよー」

 サリーさんは店の奥へと進むと、木製のドアを開けて体を半分だけ差し込ませて言った。ドアの隙間からは、上へと向かって続く茶色の階段がちらりと見える。そうしてしばし待ってみるけれど、特に返事はない。ただ、ドサッ、とでもいうかのような、鈍い物音がどこからか聞こえた。

「聞こえないのかしら……。ごめんねぇ、呼んでくるから、ちょっと待っててねぇ」

 サリーさんはそう言うと、タン、タン、と階段を上っていった。サリーさんは俺にとってはおばあさんというくらいの年齢だけれど、膝丈のスカート姿だったので、階段から目を背け近くの柱へともたれかかる。その俺の挙動に気付いたヒイロが、「偉いねえー」とか言って面白がるようににやにやと笑っていたので非常にムカついた。こいつが階段上ったときは、容赦なくパンツ見てやろうか。そんな邪な考えがつい頭を過ぎったそのとき、バタバタと物音が聞こえてきて俺は板張りの天井を見上げた。どうやら上の階で、何かあったみたいだ。

「サリーさーん、何かありましたかー?」

 ひょこっとドアへ顔を差し込み、ヒイロが階段下から上の階へ向かって大きめの声で問い掛ける。階段を駆け上がって何が起きたのかを瞬時に確かめたい衝動に駆られるけれど、他人様の家でそんな図々しいことはできない。少しすると、顎に手を当てて若干困ったような表情のサリーさんが階段を降りてきた。一階の床へと無事に到達すると、サリーさんは首を傾げて言った。

「おかしいわねぇ……部屋にいると思ってたんだけど……。もしかしたら、私が開店準備に集中しちゃっている間に出掛けちゃっていたのかも。ごめんなさいねぇ、何か伝言があったら伝えておくし、なんなら少年団のほうに顔出すように言っておきましょうか?」

 ちらり、とヒイロが俺へと目線を向けた。どうする? という意味だろう。

「あ……いえ、大丈夫です。その、大した用事だったわけではないので。すみません、お騒がせしました」

 俺はそう言って、ぺこりと深くお辞儀をする。咄嗟に伝言も思いつかなかったし、少年団への顔出しを強制するのは、ランにとってプレッシャーになる気がした。本当は会って少し話がしたかったけれど、不在なら仕方がない。サリーさんもランがどこへ行ったのかわからないようだし、またの機会にしよう。

 そうして俺とヒイロは、サリーさんのブティックを出た。空は気持ちのいい秋晴れで、チュンチュンという鳥の鳴き声がいくつか響き渡っている。

「……ねー、シュウ。今日はさ、仕事休みにしてブラブラしない? 今からだとどうせいいクエスト残ってないよ」

「ん……まあ、そうだな」

 ヒイロは、今日は労働の気分じゃありませーん、と言った様子で、頭の後ろで腕を組む。俺も少し考えてから、その提案に頷きを返した。ランの件ではちょっと肩透かしをくらってしまったし、色々と仕切り直しだ。まあそれに、村の中をうろついていたら、運良くどこかでランに出くわすかもしれないしな。

「やった! じゃあさー、まずおやつってことでベロアさんの喫茶店行こーよ! 私木苺のタルト食べたい!」

「え……今から食べんの? 昼飯食えなくなるだろ」

 俺は前に喫茶店に行ったときに他の客が食べていたタルトを思い出しながら、そう忠告する。ベロアさんという三十歳くらいのロストの女性が経営する喫茶店は、値段の割にボリューミーなスイーツや軽食が売りなのだ。

「そんなの知らないし! おやつは十時って昔から決まってるでしょ!」

 しかしヒイロは俺の忠告をものともせず、それ、タルトだー! と息巻いてスキップするように歩き出す。……ダメだ。これはもう完全に、心がタルトに向いている。俺ははあ、と溜め息を吐くも、まあ昼食の時間を少し遅らせればいい話か、と諦めて後に続いた。ちょうど、ベロアさんの喫茶店はここからそう遠くないところにある。俺達はブティックの裏側へと回り、山側へと伸びる道へと向かう。喫茶店は山を少し入った標高の高いところにあり、窓から見える景色も綺麗と評判なのだ。

「……ん?」

 しかしそのとき、俺の目に、小さな金色の輝きが映った。ぱちぱちと瞬きをしても、その光が消えることはない。青い空に白い雲、山の緑に地面の茶色、そんな風景の中に、小さく揺れる金色が見える。俺達から五十メートル程離れた道の先で、ぎこちなく動いている人影。それは間違いなく、あの小柄な少年、ランだった。

「っ……!」

 その体を左右に揺らしながら前へと進む不自然な動きを見て、俺の中で一気に物事が繋がった。サリーさんがランのいる二階へと声を掛けた直後に聞こえた、ドサッという物音。そのときはあまり気に留めなかったけれど、今思えばあれはランが、二階の窓から地面へと飛び降りた音だったのではないか……!

「あれ? ランじゃん……ってえええっ!? ちょっとシュウ! 勝手に走らないってさっき約束したじゃーん!」

 ヒイロもランの姿に気が付いたようだったけれど、そのとき俺はもうすでに走り出していた。背後からはヒイロの抗議の声が聞こえるけれど、どうか今は緊急事態だから許してほしい。あのランの足を引きずるような歩き方、きっと飛び降りたときに痛めたのだろう。そうまでしてでも俺達に会いたくないというランの意思には驚きやその他の感情も芽生えるけれど、だからといってこのまま放っておくわけにはいかない。やがて距離が縮まると、足音や気配からランも俺に気が付いたようだった。後ろを振り向き俺の姿を映したその目には、恐怖や怯えの色がはっきりと浮かんでいた。焦ったように手足をバタバタと動かして距離をとろうとするランに、「待て……っ」と、思わず声が漏れる。するとびくん、と、ランの肩が跳ね、ますます歩く速度を速める。ああもう、びびらせたいわけじゃないのに、と歯噛みしつつも、まずは追いついて動きを止めないと、とそのまま走り続ける。足を引きずるランが俺から逃げ切れるわけはなく、やがて俺の手は、ランの細い腕を掴んだ。

「……!」

「おい、大丈夫か、足」

 ランは俺の手を振りほどこうと暴れたりはせず、ただ、ぴくりと一度体を跳ねさせるとそのまま固まった。視線を茶色の地面に固定させ、ぱちぱちと忙しなく瞬きだけを繰り返す。その様子を見た俺はそっと手を離すと、腰をかがめてランが引きずっていた左足に目を向けた。サリーさんのブティックの二階はそんなに高さがあるわけではなかったし、下もコンクリートとかではなく土の地面だった。それに足を引きずっていたとはいえ歩けていたわけだから、さすがに骨折はしていないと思うけれど……。

「シュウ!」

「!」

 ふいにヒイロの声がして振り向くと、バシッと、何かが胸元目掛けて飛んできた。反射的にキャッチしたそれは、銃のようなフォルムをした、魔法が使えない俺たち人間の必需品、キュー。それを見てヒイロの意図を理解した俺は、すぐさまかちかち、とキューの側面のダイヤルを回した。そしてお目当ての『治癒』の魔法を見つけると、ランの左足に銃口を向け、人差し指でトリガーを引く。編み上げブーツに包まれたランの左足は薄青色の光に包まれていき、やがてその光が治まると、ランはおそるおそるといった様子で、確かめるようにそっと地面を踏み鳴らした。何度かその動作を繰り返すとほっとしたように息を吐き、そして、おずおずと顔を上げる。

「多分、病院とかは行かなくて大丈夫だと思うよ。元々捻挫とか打ち身って感じだったと思うし、今のでもう良くなったっしょ?」

 俺たちの元へと追いついてきたヒイロが、にこり、と微笑んでランへと言葉を掛ける。ランは「あ……えっと……」と両手で自分の半ズボンの布地をぎゅっと掴みながら、こくり、と頷いた。

「お前、よく治癒魔法ストックしてあったな」

「だって今日朝暇だったし。色々補充しといたの」

 ヒイロに今使用したばかりのキューを差し出すと、そんな言葉が返って来た。そういえばアジトでランを待ってる間、こいつ結構長い時間ポートに張り付いていたっけ。

 俺はヒイロから、ランへと目線を移す。ランは俺と目が合うと、ぴきりと顔をこわばらせた。かろうじて体はその場に留まっているけれど、できることなら後ずさりしたい、そんな気持ちが全身からひしひしと伝わってくる。

「……俺はシュウ。んで、こっちはヒイロ。どっちも中二だから、お前の一個上」

 ランと目線を合わせるように少し背中を曲げて、とりあえず俺はそう簡単に自己紹介をした。アジトでランはきちんと自己紹介してくれたのに、俺達はまだだったからな。ヒイロも、よろしくー、と言って、手を振りながらにかっと白い歯を見せて笑う。そんな俺達を見たランの顔には、わずかだけれど安堵の色が浮かんだような気がした。もしかしたら俺達が訪ねて来たのに逃げ出したことを、怒られると思っていたのかもしれない。

「気が向いたら、アジトに遊びに来いよ。あそこ、ナオキが溜め込んでるお菓子とかもあるから、まあ暇潰しくらいにはなると思うぜ」

 俺はそう言うと、ランの金色の頭を軽くくしゃりと撫でた。そしてじゃあな、と言うと、そのまま山へと伸びる道を歩き出す。ヒイロはえ、わざわざ来たのにもういいの? と少し驚いたような表情を一瞬浮かべた。だけどすぐに「じゃあまたね、ラン! あ、サリーさんとこにちゃんと顔出すんだよ! 心配してたから!」と言ってランに手を振ると、とっとっと後ろに付いてきた。こいつも何気に、空気は読める奴なのかもしれない。別にこの後の喫茶店にランを誘っても、一緒にアジトに戻ってもよかった。だけどそれはランにとっては、いくらかハードルが高いことのように思えた。きっと、心の準備がいるのだ。今日は、顔を見られただけで上出来だ。これからのことは、長い目でゆっくり考えればいい。

「よかったねー、ランに会えて! あー、それはそうと、早くタルト食べたいなあー」

「……」

 隣を歩く銀髪の少女の頭の中は、どうやらもうタルトのことで頭がいっぱいらしい。にやにやとだらしなく口元を緩ませるヒイロを見て、ランもこのくらい切り替えが早ければ生きやすいんだろうけど、なんてことをつい考えてしまう俺だった。



 それから毎日、アジトで一時間くらいはランを待ち、それでも来なかったらサリーさんのブティックに行き、その後クエストに出発する、という日々が続いた。ランは俺達が訪ねていってもこの前のように逃げ出したりはせず、普通に他愛のない雑談に応じてくれるようになっていた。ランが一緒にクエストに来ることはなかったけれど、そうして言葉を交わしていく中で、俺たちの間の壁は、少しずつ溶けていっている実感があった。

「モンスター召喚、アタック!」

「……うっわ、ミスった。ここは守りに入るべきだったな」

 俺は眉間に皺を寄せて、自陣のカードを墓場と呼ばれる机の左端のエリアへと移動させる。攻撃が見事に決まったヒイロは、俺の正面でよっしゃーと声を上げながらカードを数枚山札から捲っていた。そして何枚かのカードを配置し終えると、「ターンエンド」と宣言。よし、次はこっちのターンだ、と、俺はカードが広げられている小さめの木の机に肘をついて考え込む。

 ランを待つ間、俺達はナオキがアジトを充実させるためとか言って勝手に置いていったグッズの一つ、カードゲームで時間を潰していた。外に出ればシャドウ化したモンスターがリアルに存在しているのに、カードでモンスターを戦わせて遊ぶというのは若干の違和感がある気がするけれど、二人という人数でも楽しめる遊びとなるとこれくらいしかなかったのだから仕方がない。俺は自陣のカードと手元のカードを眺めながら、どの戦術を取るべきかを真剣に模索する。

 と、そのとき、カラン、とアジトのドアベルが小さく鳴った。俺とヒイロはカードが並べられている机から顔を上げ、そちらへと目を向ける。少年団は別に毎日の出席が義務付けられているわけでもないし、集合時間が定められているわけでもない。ただクエスト依頼が更新される朝八時過ぎくらいに来た方がいい仕事が取れるというだけの話で、普通に今くらいの時間や、午後になってからアジトにやって来る団員もいる。だからきっとのんびり目にやって来た団員だろうと思い、俺はカードへと視線を戻そうとした。だけどそれをしなかったのは、視界の端に、ぼんやりと金色が映ったからだった。

「!」

「あれ、ランじゃん! 一人? 場所ちゃんとわかった?」

 驚いてつい固まってしまっている俺に代わり、ヒイロがすぐさまぱたぱたとドアへと駆け寄って行く。木製のドアが閉まると、さらりと金髪を靡かせた小柄な少年が完全に姿を現した。ランは緊張している様子で、俯き気味にそわそわと視線を落ち着きなく動かしている。

「あ……えっと、お菓子……いや、まずお茶か? ……っと、ジュースのほうがいいか」

 俺は慌ててガタリと椅子から立ち上がると、ランをおもてなしするべくおろおろと動き始めた。気が向いたらアジトに来いよと誘ったのは自分なのに、いざとなるとなぜだかあたふたしてしまう。ヒイロはさーっと机の上のカードを片付けると、「ここ座りなよー」と言ってさっきまで俺が座っていた木製の椅子を差し出していた。

「……」

 だけどランはそこに腰掛けようとはせず、じっと押し黙ってその場に立ち尽くしたままだ。もしかして俺に遠慮しているのかと思い、椅子はもっとあるから気にせず座れ、と声を掛けようと、グラスに氷を入れる作業を一旦中断してランへと視線を向ける。

「あ、あのっ!」

「!」

 するとランはいつの間にかぎゅっと胸の前で両手を握り、真っ直ぐに俺を見つめていた。どうやら何か伝えたいことがあるのだと察した俺は、思わず背筋を伸ばす。

「あ、あの、僕、ここに初めて来た時、急に逃げ出しちゃって、すみませんでした!」

 少し早口気味でそう言うと、ランはばっと勢いよく頭を下げた。一体その口から何が飛び出すのかと身構えていた俺は、思いがけない謝罪の言葉に咄嗟に反応が遅れる。

「そんなのいいんだよ、ラン」

 ヒイロがランの肩をポンポンと優しく叩き、頭を上げるように促す。それによって再びランの顔が見えるようになったけれど、その小さな口元はまだ動いていた。

「……あの、女の子に間違えられるのは、僕にはよくあることなんです。だけどあの時は、初めて皆に挨拶して、緊張してたっていうのもあって、つい、逃げ出しちゃって……」

 ランはぎゅっと、自分の半ズボンの太ももの辺りを握り締める。唇を引き結ぶその表情は、あの日のことを後悔しているようだった。大丈夫、気にしてないよと伝えようと、俺は息を吸い込む。だけどそれより早く、ランが再び言葉を紡いだ。

「僕がそうやって逃げたから、シュウ君が、悪者みたいになっちゃいましたよね。本当に、ごめんなさい……」

「……! ラン……」

 ランはもう一度、深く頭を下げた。俺の心にじわりと、熱いような、締め付けるような何かが生じていく。ランは、女の子に間違えられたことがショックで、今までアジトに来なかったわけじゃない。ランはずっと、俺の事を気にしてくれていたのだ。

 俺はランの近くへと歩み寄ると、そっと、その頭へと手を乗せた。俺は一人っ子だけれど、もし弟がいたらこんな感じなのかな、なんてことをぼんやりと思った。

「……ありがとな。気遣ってくれて。でも、大丈夫だから。なんていうか、良くも悪くもフラットな奴らなんだよ。責められたりもしてないし。だから、大丈夫だ」

「……シュウ君」

 ランはおずおずと、頭を上げる。その大きな青い瞳は、少しだけ潤んでいるように見えた。

「そうだよ! 基本的にうちの団員は神経が図太いからね、心配することないよ! だからさー、ランもそんなかしこまらなくていいってー。そうだ、歳も一つしか変わらないんだしさー、ラン、これから私たちの事呼び捨てで呼びなよ!」

「えっ……」

 ヒイロはそう言って、ぎゅーっと後ろからランに抱きつく。そんなヒイロの腕の中で、ランはわかりやすく戸惑った表情を浮かべていた。

「え……でも、先輩ですし……」

「えー、そんなの別にいいじゃん。私達だって、ナオキのこと先輩だけど呼び捨てにしてるし。……あ、ナオキってわかる? ランが最初に来てくれたときにいた人なんだけどさ、すっごいバカだから、ランも雑に扱っちゃっていーよ」

 ヒイロの言葉を受け、ランはちらりと、助けを求めるように俺の顔を見た。自分がどうするべきか、判断がつかずにいるのだろう。

「……いいよ。俺も別に呼び捨てで。そのほうが、親しみがあっていいんじゃね」

 そこで俺も、明確に自分の意思を示して助け舟を出す。本当は呼び方なんてなんでもいいけれど、ここで嫌だと言ったら拒絶しているみたいな印象になる気がした。それに親しみがあるというのはおそらく理に適っていて、俺達が先輩であるナオキを呼び捨てにしているのも、それだけ心置きなく話せる間柄だということだった。まあ、アスカさんに関しては本人のしっかり者で姉御肌なイメージからなんとなくずっと『さん』付けで呼んでいるので、呼び方だけが親密度を表しているわけでは決してないけれど。

 ランは少し考え込むようにして、顔を俯かせた。そして次に顔を上げた時、意を決したように小さな唇を動かした。

「シュウ」

「……おー」

 俺の返事を聞くと、ランはヒイロへと視線を移す。

「ヒイロ」

「はいはーい」

 辺りには、なんだかむず痒いような、少し落ち着かない空気が流れる。改まって名前を呼ばれるのって、なんか恥ずかしいものだ。俺とランはそんな感じでついもじもじとしてしまうけれど、まったく動じていないのはヒイロだった。再びぎゅーっとランの体を抱き締めて、つんつんと人差し指で柔らかそうなその頬をつついている。

「ふふー! というわけで、これからよろしくね、ラン!」

「!」

 ランはくすぐったそうに身を捩っていたけれど、ヒイロのその言葉を聞くと、動きを止めた。そして俺、ヒイロの顔を交互に見つめると、ゆっくりと息を吸い込んで言った。

「……はい!」

 その顔に浮かんでいたのは、柔らかな笑顔だった。ようやくランの笑顔が見られたことに、俺は深い安堵と、そして大きな喜びを感じるのだった。


 その日から、俺とヒイロによる、ランの新人研修が始まった。新人研修の内容は、大きく分けて二つ。まず一つは、こっちに越してきたばかりのランに村内を案内することだ。ユーフォテルダは小さな村だけれど、その割には店の数は多い気がする。喫茶店に定食屋、八百屋や総合商店、ブティックに鍛冶屋に木工屋。小さいけれど公園もあるから、暇を潰そうと思えばどこかしら行く場所はあるだろう。村民もあたたかい人達ばかりで、余所者である俺達開拓民に対しても顔を合わせればいつも優しい声を掛けてくれる。小さな村とあってランの存在もとっくに知れ渡っているらしく、そうして村内を歩き回っているとランも色々な人に話しかけられていた。ランは人と話すのはあまり得意ではないようだけれど、その顔に嫌な色は浮かんでおらず、照れくさそうな、少し嬉しそうな表情を浮かべていた。

 そしてユーフォテルダといえば切っても切り離せないのが、その雄大な自然である。青々とした山に、キラキラと輝く清流。切り立った崖に、鬱蒼と茂る森、神秘的な雰囲気の洞窟。店や人の居住区があるのは村の面積でいうところのごく一部で、そのほとんどは、そうした大自然に占められている。木材をはじめ、『魔石』と呼ばれる魔力を持った鉱石も多くとれるため、ユーフォテルダは資源の宝庫とも呼ばれているそうだ。

 しかし自然が豊かということは、それだけ瘴気が溜まりやすいということでもある。そこで新人研修の大きな目的のもう一つは、ユーフォテルダのクエストで一番多い、シャドウ化した動物の討伐のチュートリアルだった。まあでもランはこっちに来る前にも都市部のほうで少年団に所属していたとのことだから、基本的なことはすでに叩き込まれているはず、と思ったのだが……。

「う、うう……」

 ランは胸の前で小刀を構え、声を震わせる。ランの正面には、バスケットボールくらいの大きさの綿毛の塊みたいなものが、地面から二、三センチ上のところでふよふよと浮いている。その白い綿毛に埋まるようにして、ぎらりと二つの目が赤く光っていた。シャドウ化している証だ。

 正式な名前は、なんだったか忘れた。だけどその見た目から、俺達は『ワタアメ』と呼んでいた。ワタアメはここユーフォテルダに出る動物の中でも雑魚中の雑魚で、たとえ噛みつかれたとしても別に大したことはない。クエストでの報酬も低いので、積極的に討伐しようという人はまずいない、そんな扱いの奴だった。

「う、う……」

 だけどランはそんなワタアメ相手に、見事なへっぴり腰だ。一応小刀を構えてはいるものの、目を合わせるのが怖いのか瞳はワタアメから逸らし気味で、足はぷるぷると震えている。

「大丈夫だ、ラン。そいつは弱いし、必ず攻撃前に前兆動作がある。舌を細かく出し入れするのが見えたら、距離を取って回避すればいい。逆にその動作が見えるまでは、絶対に何もしてこないってことだ。安心して攻撃していいぞ」

「は、はい……」

 俺のアドバイスに、ランは弱々しくも頷きを返す。そして意を決してワタアメの懐へと飛び込むと、ぶんぶんとめちゃくちゃに小刀を振り回した。

「あー……」

 思わずそう声を漏らしたのは、ヒイロだった。ランは恐怖からかほとんど前も見ずめちゃくちゃに腕を振り回しているので、小刀はワタアメの綿毛をふよふよと掠めるだけで、まったくダメージが与えられていない。そうしている間に、ワタアメの白い毛に埋もれた小さな口から、ちろちろと赤い舌が見え隠れし出した。来た。攻撃の前兆動作だ。ここで横に跳べば簡単に回避できるけど……ダメだ。ランはほとんどワタアメを見ていないから、この前兆動作に気付いていない。

「……っ」

 このままではランが噛みつかれてしまうということで、急遽ヒイロが腰から白銀の剣を引き抜き、ワタアメを後ろから薙ぎ払った。ワタアメは途端に地面に倒れ、その体からは赤黒い光が抜け天へと昇っていく。ワタアメが生命活動を停止させたことで、ランはようやくほっとしたように肩の力を抜くと小刀を体の横へと下ろした。

「……ラン、武器はそれしかないのか」

 俺はランの手元の小刀に目を落とし、そう尋ねた。すーっと吹いた風が砂埃を巻き上げ、ワタアメの死体が少し茶色に染まる。ランがシャドウ化した生物に恐怖心を持っているということは、今ので十分すぎるほどにわかった。それなのに敵の懐に飛び込まないといけないリーチの短い小刀を使用するのは、選択ミスとしか言いようがない。

「は、はい……。その、僕は体が小さいから、小刀じゃないと、上手く扱えないって言われて……」

 ランはぼそぼそとそう呟くと、、小刀の刃をじっと見つめた。その言葉を聞いて思わず大きな声を上げたくなるのを、俺は深く息を吐いてぐっと堪えた。どうやら、前に所属していた少年団でいじめに遭っていたというのは本当のようだった。そいつらが、意地悪でランに小刀しか使わせなかったんだ。

「……恐怖心があるなら、敵に近づかなくていい遠距離用の武器のほうがいい」

 俺は平常のトーンを心がけてそう言うと、ふっと視線を遠くに向けた。空にはもう赤や橙色が混じり、いくつかの金色の筋もでき始めていた。夜になると気性の荒い動物も増える傾向にあるから、ランのことも考えると今日はそろそろお開きにしたほうがよさそうだ。

「明日の朝。アジトじゃなくて、俺ん家集合。とりあえず、武器調達に行こう」



 コツ、コツ、コツ、と何度か石の表面を叩くと、やがてパキッ、と一部にひびが走る。その感覚が気持ちいいのか、ランはつるはしを手にぱあっと笑みを浮かべていた。そして次に手袋に包まれた自らの手を使い、ぐぐっとひびに沿って力を掛ける。すると小気味良い音を立てて、青紫色の石の塊が剥がれ落ちた。俺がずずず、と地面に置いたバケツを引き寄せると、ランはそっとその中に今採取したばかりの石を放り込む。

 頭上に青い空が広がる、気持ちのいい晴れの日だった。俺達はランの武器を買いに行く前に、山へと入って『魔石』の調達に赴いていた。魔石とは魔力を持つこの国にしかない不思議な鉱石で、加工されて武器の一部に使われることも多い。店でも普通に売っているけれどこうして自分たちで調達すればタダで済むし、それどころか売ればお金になるので、少しでもランの武器の購入費用の足しになればと思った次第だった。生活費は国から出ているし、ランにも自由に使えるお金はいくらかあるんだろうけれど、できるだけ安く済むに越したことはない。

「とりゃー!」

「……相変わらず雑だな」

 すぐ隣で長い銀髪を振り乱してつるはしを勢いよく石の壁に打ちつけるヒイロを見て、俺は思わず顔をしかめた。ヒイロは作業は早いけれど、とにかく色々と大雑把なのだ。ランのように一つ一つの動きを丁寧にしないから、せっかくの魔石に傷がついてしまっている。値段にして10エルとかそのくらいだけど、綺麗な物に比べ価値は下がってしまうだろう。

「ヒイロは、すごいですね。動きがスムーズで、無駄がないです!」

「ふふふー! とーぜん! ほら、どんどん行くよー!」

 しかし心の綺麗なランは、そんなヒイロにも優しい。すると調子に乗ってますます素早くつるはしを振り下ろしたもんだから、俺の顔に向かって魔石の欠片が飛んできた。おい、地味に痛えよ!


 まあそんなこんなで一時間程魔石採取に勤しみ、アルミ製のバケツの半分程が埋まったところで、俺達は山を下りた。そして向かった先は、木工屋。ジェダーさんという、六十代後半くらいの歳のおじいさんが営んでいるお店だ。

「かーっかっかっか! お前さんがランとかいう少年か! ナオキから話は聞いとるよ!」

 お店のドアをくぐると、ジェダーさんは快活な笑い声と共に出迎えてくれた。体は小さくやせ形で頭も髭も真っ白だけど、弱々しい印象がないのはこの明るい性格のせいだろう。ちなみにここはナオキの下宿先であり、この二人が一つ屋根の下で生活しているなんて絶対毎日騒々しいと思う。

「ジェダーさん、こいつに弓を一つ」

 俺はジェダーさんのマシンガントークでランがKОされてしまう前にと、手短に用件を伝えた。ジェダーさんは主に木製の武器やら家具やらを、自ら制作して販売しているいわば職人だ。仕事の話になると、むむっ、と顔つきが変わる。

「……弓、か。小僧のくせにわかっとるのう。そう、弓こそ最上の武器じゃ」

 きらり、と銀歯を剥き出しにしたジェダーさんに笑いかけられ、ランは戸惑いつつもぺこり、と会釈をしていた。ジェダーさんはさっそく仕事モードへと入ったようで、歌うように何かをぶつぶつ呟きながら店内の壁際の棚へと歩いて行く。その背中に向かって、「あ、魔石いっぱい採って来たんで、安くしてくださいよー!」とヒイロがバケツをじゃらじゃらと揺らしながら呼びかけていた。おいやめろ、せっかくの魔石にまた傷が付く。

 俺がランの武器に弓を選んだのは、ジェダーさんの言うように弓こそが最上の武器だと思っているから、というわけではまったくなかった。ジェダーさんがせっかくいい気分になっているようだからわざわざ言わないけど、一番の決め手となったのはコストの面だ。遠距離用の武器と言えば銃が真っ先に思い浮かぶけれど、メンテナンスや消耗品にかかるお金を考えると弓のほうが安いのだ。

 ジェダーさんはいくつかの弓を棚から引っ張り出すと、ランの身長と比べるようにして前に突き出したり左右に振ったりの仕草を繰り返す。するとやがてある程度の目星がついたようで、ランに実際に二、三本の弓を握らせた。そしてポケットから小さなナイフを取り出すと、ランの指の形に合わせて弓の木の一部を削り始める。握らせては削り、握らせては削り……を何度か繰り返すと、ようやく納得のいくものになったのか、ジェダーさんは、ふん、と大きく鼻を鳴らした。

「かっかっか。形はこんなもんじゃろ」

 そう言ってひょい、とランの手からジェダーさんが奪い取った弓は、大きさとしてはかなり小さめのようだった。もちろんランが小柄だから、というのもあるんだろうけれど、それにしても小さすぎる気がする。小学校低学年とか、極端にいえば幼稚園児が使ってもおかしくないくらいの大きさに見えた。

「ふん。おぬしはわかっとらんの、シルバのところの開拓少年よ。このくらい小さい方が、使い勝手がいいってものじゃよ」

 そんな俺の疑念は表情だけで伝わってしまっていたらしく、ジェダーさんは分からず屋を見るような呆れた目つきでそう言い放った。うーん、なるほど、そういうものか。思えば俺が普段使用している武器は腰に提げているこの黒い剣で、他にはたまに銃を使うくらいだ。弓に関してはまったくのド素人なので、ここは専門家であるジェダーさんの言う通りなのだろう。

「あとは魔法じゃが、これはちょっと時間がかかるでの」

 ジェダーさんは俺達が採って来たバケツに入った魔石を、品質を確かめるようにして手のひらの上で一つで転がした。ふんふんと納得するように頷いていたから、どうやら御眼鏡には叶ったみたいだ。

「どのくらいかかりますか?」

 俺はちらりと、店内の柱時計に目を向けた。現在時刻は、午前十時半を回ったところ。人間社会ではもうこの工程で完成なんだろうけれど、この世界では最後に『魔法』という大きな工程を挟むのだ。

「二、三時間といったところかの。適当に頃合いを見て、また店に来てくれ」

 そうジェダーさんに言われたので、俺達は店を出て、一旦それぞれの家に帰ることにした。魔石採取の際に多少かぶってしまった泥や砂を洗い流したいと思っていたので、ちょうどいい空き時間だった。シャワーの熱いお湯で体の汚れを綺麗に洗い落とし、家にあるもので適当に昼食を済ませてから、再びジェダーさんのお店に集合する。すると店のレジカウンターには、先程ジェダーさんがランの手に合わせて形を調整した弓が置かれていた。そのしなった木の丁度中央付近には、俺達が採収した青紫色の魔石がはめ込まれている。

「いいものができたと自負しておるよ。これでお前さんも、もっともっと腕を上げるじゃろう」

 にかっ、とジェダーさんに笑いかけられ、ランは、「あ、ありがとうございます」と言ってぺこりと頭を下げた。武器にかけられた魔法は、使用した際にターゲットの血や肉が飛び散らず、代わりにライトエフェクトが発生する類のものがおそらくデフォルトでついている。他にも何か付加されている魔法はありますか、と尋ねた俺だったけれど、ジェダーさんは「使ってみればわかる」と言ってにやにやと銀歯を見せるだけだった。むむ、気になる。だけどその言い方だと、何か特別な操作をしなくては魔法が発動できないような代物ではないみたいだ。他に矢を何本かと、あと練習用の的もあったほうがいいと勧められたので、それらをまとめて購入すると、俺達はお礼を言って店を出た。そして近くにあった空き地にさっそく練習用の木でできた丸い的を設置すると、ランに出来立てほやほやの弓を握らせた。

「……あ! すごいです! 赤い十字の、ターゲットマークみたいなのが見えます!」

「えっ!?」

 すると弓を見よう見まねといった仕草で構えたランは、ぱっと顔を輝かせて興奮したような声を上げた。ヒイロがランのすぐ傍に駆け寄って、じっと的に目を凝らす。だけど少し離れた所で見ている俺同様、ランの言っている十字型のターゲットマークは見えていないようだ。そこでヒイロは「ちょっと一回貸して」とランから弓を譲り受ける。そうして弓を構えると、「おおー! すげー!」と、先程のラン同様に感嘆の声を上げた。どうやらそのターゲットマークとやらは、弓を構えた本人にしか見えないようになっているらしい。俺もヒイロの次に弓を借り受けて、ぐっと構えてみる。ターゲットマークは、弓を動かすと追随して動くようになっていた。すげえ。どういう仕組みになってんの、改めて思うけど、魔法ってヤベえよ。

 俺はターゲットマークを的の中心部分に重ね合わせ、ひゅっ、と試しに矢を放ってみた。宙を駆けた矢は、ガスッ、と音を立てて的へと突き刺さる。だけど近づいてみると、その位置は中心よりも若干右に逸れていた。あれ、ちゃんと中心に合わせたと思ったんだけど……、と首を傾げると同時に、びしいいっ、と突如後頭部に鈍い痛みが走った。

「ちょっと、シュウ! ランの弓なのに、なんでシュウが先に使ってんの!」

「え、ああ……それはそうだな、悪い」

 ぷりぷりと怒って俺にチョップを決めたヒイロに、ランは「別に構わないですよ!」と焦ったように手をばたばたと振っていた。しかしそのヒイロの主張は紛れもなく正論だったため、俺は謝罪の言葉を述べランに弓を返す。そして再び弓を構えたランの絵面は、なんとなく俺やヒイロよりも様になっている気がした。あのときは小さすぎるのではなんて思ったけれど、ジェダーさんの見立て通り、これがランにとってはベストな大きさなのだろう。

「……っ」

 ガスッ、と、ランの放った矢が的の表面で音を立てる。しかしその矢は、的の中心から少し下へとずれたところに突き刺さっていた。それを見たランも、あれ、と先程の俺と同じような反応を見せる。

「ちゃんと、ターゲットマーク中心に合わせたよな?」

「はい。シュウも、そうでした……よね?」

 俺とランは顔を見合わせ、とりあえず事実確認をする。合わせたところにきちんと飛んでいかないのなら、ターゲットマークの意味がない気がするのだが……。

「もしかして、矢を放つ時に反動でずれちゃうんじゃないかな」

「!」

 するとヒイロが、弓を引く手振りをしながらそんな説を唱えた。たしかに、構えた位置から寸分もずらすことなく矢を放てているとは、とてもじゃないけど言えなかった。

「ってことは、反動でぶれないように、腕の筋肉を鍛える必要があるってことか? もしくは、体幹とか」

「それか、あらかじめずれることを想定して、ターゲットマークを目標よりもずらしたところに置くようにする……とか」

 俺とランは、それぞれ考えを巡らせる。魔法はたしかにすごい技術だけれど、どうやら完全に万能なわけではないようだ。やはり使い手の腕が、一番大事だということだろう。

「まあ……使いこなすのに少し時間はかかるかもしれないが、せっかく的も買ったわけだし、暇なときとかに練習してみろ」

「は、はい……、頑張ります!」

 ランはそう言って、ぐっ、と青紫色の魔石がついた弓を胸に抱く。その表情は少しプレッシャーを受けているようにも見えたけれど、でもたしかに、自分の新しい相棒ができたことへの喜びも感じられた気がした。



 それから一週間程は、魔石採取だったり畑仕事の手伝いだったり、シャドウ討伐以外のクエストをこなす日々が続いた。あの弓は一朝一夕で使いこなせるような代物ではなさそうだったし、シャドウ討伐のクエストが多いとはいえ、普通にそれ以外のクエストも安定して供給はされているのだ。ランは仕事が丁寧だし、どうやら黙々と単純作業を繰り返すことは得意なようだった。依頼主の村人からも大いに褒められている姿を見ていると、せっかく弓を調達しておいて何だけれど、俺の中には段々、別に無理にシャドウ討伐のクエストを受けさせる必要もないか、という気持ちも芽生え始めてきた。シャドウ討伐は多少危険が伴う分それ以外のクエストよりも報酬がいいけれど、ランは別にお金のためにやっているわけじゃないだろうし。

 だけどそんな俺の考えが引っ込んだのは、久しぶりにランの家の庭で、弓の技術の習得具合を見たときだった。その日はちょうどランの下宿先のサリーさんのお店の周りの草むしりの依頼を受けていたので、仕事が済んだ後にちょっとどんな具合なのか進捗を見せてもらったのだ。

「……っ」

「おおっ、すごいラン、ドストライクじゃん!」

 ランが、ひゅっ、と放った矢が真っ直ぐに的の中心を射抜いたのを見て、俺と同じくギャラリーとして見ていたヒイロは歓声を上げた。だけどランはヒイロのように喜びを露わにすることなく、再び静かに弓を構える。そのランの雰囲気は弓を初めて手にした日とは明らかに異なっていて、俺は思わず息を呑んだ。眼差しにはいつもの頼りなさげな感じがなく、凛とした印象が漂っている。ランは先程よりも少し下がった位置にポジションを取ると、再び矢を放った。ガスッ、と、これも的の中心に吸い込まれていく。そうしてまた距離を離しながら、三射目、四射目、五射目も成功。いつの間にか的の中心には、まるで領土を取り合う国の旗のように矢がひしめき合っていた。

「すげえ……ラン、もう完璧じゃねえか」

 ランがふうっ、と一呼吸吐いて弓を下ろしたのを見計らって、俺はランに声を掛けた。

「ね! びっくりした! こんなにあっという間に上手くなってると思わなかったよ!」

 ヒイロも興奮したようにランへと駆け寄り、その小さな金色の頭をうりうりと撫でる。

「いえ、完璧なんてことはないです……。でも、ちょっと、ターゲットマークよりも少し下に矢が向かうようだったので、気持ち上向き気味で構えるようにしてみたんです。あと……」

 ランは途中で言葉を区切ると、たたっ、とヒイロの腕の中から抜け、一旦サリーさんのブティックの中へと引っ込んだ。ヒイロと庭でしばし待っていると、両手に何かを持って戻ってくる。見るとその手に抱えられていたのは、水が入った五百ミリリットルのペットボトル二本だった。

「その、ダンベル代わりに、これを上げ下げしたりもしてたんです。ちょっとは、腕の筋肉つくかな、って」

 ランはそう言うと、よいしょ、よいしょ、とペットボトルを持った腕を曲げたり伸ばしたりの動作を繰り返した。その真っ直ぐなひたむきさに、思わず目頭が熱くなるのを感じ俺は慌てて頭を左右に振った。……元々、真面目な性分なのだろう。きっとランはこの一週間、空いた時間をひたすら筋トレや弓のトレーニングに費やしたのだ。もちろんそれにしてもこの上達速度は驚異的だから、きっと元々のセンスとかもあったのだろう。だけどそれでも確実に、今のこの結果を掴み取ったのはランの努力の賜物だった。

技術としては、もう申し分ない。これならいける、と俺は体の後ろで拳をぎゅっと固く握り締めた。



 次の日、早速俺たちは山の入り口に近い場所のシャドウ討伐のクエストを受注した。ここは比較的集落が近いためか現れるシャドウ化生物も雑魚が多い印象で、前回ランが倒せなかった『ワタアメ』のこともよく目にする場所だった。幅が広めな獣道の上には両脇に生い茂る木々の大きな影が落ちていて、体感温度は平地よりも若干低く感じる。そんな中を俺、ヒイロ、ランの三人で並んで歩いていると、さっそく、白い塊が目の前に飛び出してきた。その大ぶりで乱雑な挙動。ぎらぎらと禍々しい血の色の瞳。紛れもなくそいつは、シャドウ化しているワタアメだった。

「ラン、弓構えろ。大丈夫、今のお前なら絶対倒せる」

「は、はいっ……」

 ワタアメの姿を認めたランは、俺の言葉を聞くと焦った様子で手元の弓を持ち上げた。一方俺はワタアメへと視線を注ぎ、攻撃の前兆動作が来ないかを注意深く見つめる。……大丈夫、ワタアメは、地面からわずかに上のところでゆらゆらと揺れているだけだ。赤くぎらつく瞳とにたにたとした口元は見ていてあまり気分のいいものではないけれど、今のうちに攻撃を当ててしまえば……。

「……ラン?」

「う、うう……」

 しかしそのとき、少し後ろで弓を構えているはずのランの様子がおかしいことに気が付いた。振り向くと、ランの表情には昨日的当てで見せたときの凛々しさはなく、恐怖と怯えの色が浮かんでいた。左手にきちんと矢を引っ掛けて弓を構えてはいたけれど、視線はターゲットであるワタアメを直視できていない。……あれじゃあ、当たるものも当たらない。

「ラン、大丈夫だよ。距離もあるし、すぐにこっちには来れないって」

「は、はい……」

 ヒイロが見かねて優しい声色で言葉を掛けるけれど、それでもランの恐怖心は消えないようだった。腕はぷるぷると震え、走っているわけでもないのにふー、ふー、と肩が上下し呼吸が荒くなり始める。

「……」

 ラン、こんなのが怖いのか? そんな台詞を、俺はつい心の中で呟いてしまう。こんな自分の体よりもはるかに小さな綿毛の塊、見方によればファンシーなぬいぐるみだと表現できそうなものじゃないか。与えられた仕事をいつも丁寧にこなして、どんなときもひたすら努力を重ねるお前が怖がるような物じゃないだろう。

 ぎりり、と俺は唇を噛んだ。悔しかったのだ。だって、ランは落ち着いてさえいれば絶対に対象に矢を当てられる。なのにその力を発揮することなく終わるのは、悔しかった。

「……ラン」

 俺はぐっと、ランの腕を引く。ワタアメが舌をちらちらと覗かせる、攻撃の前兆動作を見せたからだ。ワタアメはそのまま真っ直ぐ前に進んで噛みついてくるはずなので、その動線からランの体を移動させる。ワタアメの攻撃が空振り、ちょうど後ろ向きとなってその背中をこちらへと向けたところで、俺は言い放った。

「怖いものを見ないままでいたら、ずっと怖いままだぞ」

「……!」

 その言葉に一瞬、ランの表情が強張るのがわかった。厳しいことを言ってしまったかと、俺の胸に若干の後悔の念が滲む。

「……」

 しかしランは、無言でくるりとワタアメの背中に真っ直ぐに自分の体を向けた。その横顔には何かを決意したような色が宿っていて、俺とヒイロははっと息を呑む。ランの青い瞳は、今は真っ直ぐにワタアメを捉えていた。ぐぐっ、と弓を引き絞り、ガスッ、と矢が放たれる。それは見事に、ワタアメの後頭部に突き刺さった。自らに生じた異変に気付き、ワタアメが体をぐらつかせる。まだだ。だけど、大丈夫。もう一射。きちんと目を開けて放てば、ランは絶対に当てられる。

 今度はワタアメと真正面から向き合い、ランは矢を放った。宙を駆けた矢がワタアメのおでこに突き刺さると、赤黒い光が周囲を照らす。そのまま天へと昇っていったその光は、シャドウの離脱現象だ。後にはぱったりと倒れ込んだ、ワタアメの死体だけが残った。

「……あ、えっと、僕……」

 その一連の流れを見ても、ランはまだ実感が湧かないのかどこか呆然とした様子だった。よほど集中していたのか、その頬から顎にかけてはたらりと汗が流れている。

「やったじゃんラン! リベンジ成功、おめでと!」

 ヒイロはランに駆け寄ると、健闘を称えるようにその背中をばしばしと叩いた。するとランもようやく認識が追いついて来たのか、「あ……」と瞳を少し潤ませて、胸の辺りをぎゅっと握り締める。俺もそんな二人の元へと近づくと、ぱちり、とランと目が合った。

「……」

 俺は無言で、ぐっと親指を立てる。もはや、言葉なんて必要なかった。ランは嬉しさを噛み締めるように頷くと、にこり、と目を細めた。

 ランが初めて一人で倒すことができたワタアメは、しょせん雑魚だ。山の奥へと進めば、もっと立ち回りを慎重に考えて挑まなければいけない強敵が待ち構えている。だけどきっと、小さく見えてもこれは大きな一歩だ。どんなに足が竦んでも、腕が震えても、ランは今後、恐怖から目を逸らすことはないだろう。

 ふわり、と風が吹いて、頭上の木から葉が一枚舞い落ちた。その葉の色はランの髪の毛と同じ黄金色に輝いていて、まるで金メダルのプレゼントかのようだった。


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