11/8
結局私は一週間寝込んだ。
インフルエンザではなかったのだが、中々熱が下がらず、熱が下がったと思ったらまたぶり返す、というのを繰り返した。
久しぶりの学校はなんだか緊張する。だが教室に入るといつもの顔ぶれがいつものようにいて、私なんかいてもいなくても変わらないんだなと痛感させられる。
「讃岐さん! おはよう! 体調は? 」
「砺波さん……おはよう。だいぶ良くなった」
「テスト頑張りすぎた? 大丈夫? 」
「うん。平気……ありがとう」
そっか、と彼女はホッと息を吐いた。砺波さんの優しさは病み上がりの体に染みる。
「おはよう」
石狩くんも挨拶をしてくれた。
ただ、彼はどこかよそよそしかった。いや……いつもよそよそしいが、今日は目も合わせてくれない。
「……おはよう」
もしかしてもうテストの順位が出たのだろうか? あまりの私の順位の低さに失望した?
それとも他に何か、彼を怒らせるようなことをしただろうか……。
「石狩って本当に無愛想だよね。そんなんじゃ怖がられちゃうよ? 」
「そう? 」
「そうだよ。単語じゃなくて、もっと言葉付け足して喋ってよね」
「あー……。善処します」
「だからあ! そういうとこだってば! 」
砺波さんは怒ったような口調で話すが目が笑っている。石狩くんも口角を上げていた。
なんだか、いい感じ……?
「あ、ほら、石狩今日日直じゃない? 日誌取りに行ってきたら? 」
「ああ、本当だ。ありがとう」
黒板を見ると石狩くんの名前が書かれていた。
彼はサッと立ち上がって日誌取りに職員室へと向かう。
その間も、なんとなく砺波さんと石狩くんはいい感じだった。
健全な青春。
私は胸がギュッと苦しくなった。喉が、何かに掴まれているかのように軋む。
そんな私の様子を知ってか知らずか砺波さんは残酷な問いかけをした。
「……讃岐さんって、石狩のことどう思ってる? 」
「えっ? ど、どうって……」
「好き? 」
いきなり、余りにも直球な質問が飛んで来、私はその問いを受け止めようと咄嗟に言葉が出る。
「と、友達。友達として」
「うーん。だよね。いやごめん。ちょっと確認しておきたかったからさ……」
そう言って彼女は周りを見渡してから声を落とす。
「私は石狩のこと好きなんだ。だから協力してくれない? 」
……ああ。やっぱり。
私は気付かれないようこっそり息を吐き出した。
そうじゃなきゃおかしいというくらい、砺波さんは石狩くんに笑顔を向けていた。
「……協力……って」
「んーと、好みのタイプとか気になるけどさすがに直接は聞けないじゃない? そういうのを聞いてほしいというか……」
ちょっと前までそれは私だった。
けど今はどうだろう。
神様の力を失ってから私と石狩くんはロクに話せなくなっていたし、そもそも私は彼をとてつもなく怒らせてしまった。
そして多分……石狩くんは私よりもずっとずっと可愛くて賢くて話も合う砺波さんを好きになったんじゃないだろうか。
砺波さんと喋っているときはよく笑っているし、私に対してはよそよそしくなった。
私への興味が失せたからだろう……そもそもなんで彼が私のことを好きだったかもわからない。あれは気の迷いだったんじゃないだろうか。
なんのきっかけか知らないが私のことを間違って可愛いなどと思っていただけで、目の覚めた今はそんなこと微塵にも思っていないに違いない。
私の代わりなどいくらでもいるし、そもそも私などいてもいなくても変わらない。
「わかった。聞けたら聞いてみる」
「ありがとう! ……あれ? まだ風邪辛い? 顔色があんまり……」
「そう……? 確かにちょっと頭が痛いかも……。でも大したことないから心配しないで」
私は体を丸める。
泣きたかった。
何がいけなかった? もっと勉強していれば、石狩くんの話を聞いて早くに帰っていれば、いや、そもそも神様の力を借りようなどと思わなければ良かった。石狩くんの気の迷いも知らず私は彼のことを好きにならずに済んだ。
だが過ぎてしまったことを取り戻すのは難しい。
失ったものは帰ってこない。こういう時はただ耐えて、出来るだけ考えないように、いつの日か忘れられる日が来ることを祈るしかないのだ。
*
「讃岐さん、お昼一緒に食べようよ! ずっと讃岐さんいないから寂しかったよ」
石狩くんと砺波さんは当たり前のように2人並んでいた。
私は砺波さんに首を振る。
「ごめん、他の人と食べるから。今後もその人と食べる」
「……あ」
2人は面食らったようだが、砺波さんは何かを察したように頷いた。
「そっか……。わかった」
「ごめんね」
私は石狩くんの顔を見ないようにカバンを抱えて教室を出た。
もし彼が少しでも嬉しそうにしていたら、今以上に暗い気持ちになる。
とは言え私に行くあてなどない。
便所飯は、砺波さんに見つかった時彼女が嫌な思いをすると思うとなんとなく憚られた。
仕方がないので階段の踊り場に行く。
今日は病み上がりだからか食欲がないのでウィダーインゼリーである。
「讃岐? お前何やってんの? 」
え、と思って声のした方を見ると、羽合くんが私を見下ろしていた。
「なんでこんなとこで食ってんの? 」
「……えーと、色々」
「石狩は? 」
「もう、テスト終わったから食べてない」
「ふーん」
羽合くんは胡乱げな目で私を見る。それから大股でこちらに降りてくるとドサッと音を立てて私の横にしゃがんだ。
羽合くんは素行は悪いが華奢な体格で、動きがしなやかだ。
ピアスも空いてないし髪も染めていない。不良っぽくはないところが多々ある。
ただよく話さないし、良い印象はない。
「なあ、お前って出水先輩と付き合ってんの? 」
思わずウィダーインゼリーを吹き出すところだった。
私は必死で首を振る。
「そんなバカな」
「でもお前が風邪で倒れた時先輩が運んでくれたんだろ? 人に優しくしないことで有名な先輩が」
「それは、その……親が仲良くて」
「あー。幼馴染未満みたいな? 」
「そうそう」
嘘だけど私は頷いておいた。
「なんだ。でもまあそうだよな。
周りの皆そう言うから超意外でさあ。先輩カッコいいしな」
風邪をひいていた時は朦朧としていたから意識が向かなかったがあの時のことは結構な人に見られてしまったようだ。
ヒヤリとする。また、やらかしてしまった。
「周りってだれ……? なんて? 」
「誰って……色々。別にワルクチじゃねえよ? ただ意外だねーみたいな」
「そう。でも、本当に、違うから」
「わかってるって。やっぱ石狩が好きなんだろ? 」
思わずウィダーインゼリーを握りつぶすところだった。
「や、ち、いや、その、」
「見りゃわかるって。
……前はからかって悪かったよ。ちょっと揺さぶってやろうと思ってやったらはまり役で楽しくなっちゃってさ……」
ハア、と羽合くんは溜息をついた。
教室で石狩くんとお弁当を食べた時のことだろう。
「楡がいきなり来たのはビビったな……。アイツ怖いんだよ。お前カツアゲとかされてんの? 」
「いや……。世間話」
「世間? 楡に世間とかあんの? 」
「無い……」
「やっぱりな。
……とにかく、からかったのは謝る。もうなんもしねえよ」
彼はそう言うと颯爽と立ち上がって「じゃあ」と去って行った。
しかしすぐにふらっと戻って来る。
「そう、違う。聞きたいことがあったんだけど」
「うん? なに? 」
「砺波になんか言われた? 」
「……? なんか、って? 」
「近寄るなとかそういうこと」
「まさか……」
何故そんなことを。
私が首を傾げると羽合くんは目を細めた。
「あいつ、女には優しいからな。
でも男にはそうじゃない。
石狩が好きなら気を付けてやれよ。何考えてんだから知らんが、ここんところやたら仲良くしてるし絶対ロクでもねえこと考えてるぞー……」
砺波さんがロクでもないことを……?
いつもの笑顔の彼女が、悪いことを考えているだなんてとても思えない。
「どういう意味? 気をつけるって何を……」
「意味深なことを言った後に去っていく……そういうの一回やってみたかったんだよね。
そういうことだからじゃあな」
「え、え!? 」
羽合くんはふふふと笑うと本当に行ってしまった。
何がしたいんだ彼は。
私は1人踊り場に残される。
羽合くんの言葉の意味を確かめなくてはという気持ちに囚われながら。
*
確かめるといえど、どんな方法があるだろう。
羽合くんに気を付けろって言われたんだけどなんのことかな? とか? いやそんな、ストレートすぎる。
なんで石狩くんと仲良くしてるの? ……それは、だから石狩くんのことが好きだからだろう。
悶々としながら席に戻ると、石狩くんと砺波さんはニコニコと笑い合いながら話していた。
……砺波さんが石狩くんに何かするというのか、あんなに笑い合っているのに?
砺波さんはキャラメルを取り出すと石狩くんにそれを渡していた。
甘酸っぱい青春の一ページだ。
石狩くんは嬉しそうに、穏やかな顔つきでキャラメルを受け取っている。
私はそっと目を伏せた。
*
「讃岐さん、一緒に帰らない? 」
下駄箱で、砺波さんがキラキラとした瞳をこちらに向けてそう言う。
横には当たり前のように石狩くんがいた。私は首を横に振る。
「……友達と帰るから」
「そっか。じゃあまた明日ね! 」
「うん」
私は歩き出す2人の背中を見ないように俯いていた。
そのせいで横に人がいることに気付かず思い切りぶつかってしまう。
「す、すみません! 」
「あ、讃岐」
「え、あ、ギャア! 楡! 」
私は逃げようと一歩下がるが背後は下駄箱。ドンと背中を付けてしまった。多分背中に泥が付いただろう。
「おい、お前彼氏寝取られてんぞ」
「そういう生々しい言い方やめて……あと別に石狩くんと付き合ってないから……」
「だとしても好きなんだろ? 寝取られてんのと同じだろ」
「違う……」
私は前に抱えていたカバンを抱きしめた。
「好きじゃない。友達」
「……ふーん? 向こうはお前のこと好きだと思うぞ」
「そんなことない。楡の勘違いだよ」
「そうか? 今だって未練がましくお前のこと見てたけどなあ? 」
私は石狩くんの背中を盗み見た。彼は砺波さんに手を振り別の方向へと歩き出したところである。
「違うよ。私なんかのこと好きになるはずないから」
「お前みたいな根暗で鈍臭くて卑屈な女誰も好きにならないとは思う。だけどアイツはそうじゃないみたいだ。
なあ、なんでそんな卑屈なんだよ。
…………叔父さんと叔母さんが離婚したのは別にお前のせいじゃないだろ……」
ちらりと楡を伺うと、いつもの苛立ったような顔で私を見下ろしていた。
こういうところが本当に嫌いだ。彼の言葉は私の白くて柔らかい部分を引きずり出して傷付ける。
「私がダメだから2人は離婚して、お父さんは私を置いてったんじゃない……」
「捨てられたって? 違う。父親が親権取るの大変なんだぞ。叔父さんは取れなかっただけだ。
お前は違う……捨てられてなんかない」
楡の瞳は仄暗い。
きっと自分の母親のことを考えている。楡を産んで自殺した母親。
「なあ、楡の下の名前知ってるか? 」
不意に廊下の方から男子生徒の声が響いてきた。嫌な予感がして体が硬くなる。
なんてタイミングだろう。
「イチジク、だろ? 変な名前だよな」
「案外可愛い名前なんだな! 」
ギャハハ、と笑う声がした。
楡の顔が見れない。あの笑い声に嫌な記憶が引き摺り出される。
私は小学校の頃を思い出した。
私と楡は小学校低学年まで同じ学校に通っていた。母が一度目の離婚と再婚をする時まで。
その頃の楡は天使のように美しく、繊細だった。今は見る影もないが。
彼はそのイチジクという名前のせいで虐められていた。いや、名前だけが原因ではない。人並み外れた美しさと彼から漂うあの退廃的で自虐的なオーラに皆やられていたのだ。
私は名前でからかわれる楡を見るだけで、助けたりも先生に言いつけたりもしなかった。
ただ自分の名前がなんの捻りも無い名前で良かったと思った。あんな風にいじめられるのだけは嫌だ。
楡はそんな私をあの暗い瞳で見ていた。私は彼を助けてあげるべきだったのだろう。
だが私は見捨てた。関わって自分までもいじめられたらと思うと怖かった。
楡の舌打ちが聞こえハッとする。
昔のような人外じみた美しさはそのままに、悪魔のようになってしまったいとこを見つめる。
男子生徒たちを殴りに行くのだろうか。
「あいつらとは今度お話し合いをしなくちゃな……。
なあ、おい、お前顔色随分悪いけどな。そんな顔になるくらいなら早く彼氏追いかけろよ」
「えっと」
今は別に石狩くんのことで思い悩んでいたわけではないのだが……。
だが、少しはあるのかもしれない。石狩くんとはもう前のように喋れなくなってしまったのだから。
「好きなら好きで良いだろ。何を悩む必要があるんだ」
「私は恋に生きたりはしないよ。それに石狩くんとは何も無い……ただの友達だから」
「……母親みたいになりたくないってか? 親は親だ。お前がああなるとは決まってない。
俺を見ろ。父親はあんなだが俺は真っ当だろうが」
「ううん」
「なんでだよ。そこはそうだねって言えよ」
真っ当じゃないからそう言っているのだけど。
「ハア、とにかく。俺は母親みたいに変な奴と結婚して精神崩壊して自殺もしないし、父親みたいに若い女のケツ追っかけ回したりもしない。お前もそうだろう。
それになんたって俺は菫一筋だからな! 」
「あ、ああ、うん。そうだね」
「今日も菫可愛くて最高だったよ。そうだ、可愛い写真撮れたんだよ。見るか? やっぱやめとこ。勿体無いし。
そうそう、今朝も菫が—」
私は突然始まったノロケ話に逃げ遅れた。何故私に?
楡の口は止まらない。菫が授業中に寝てて可愛いという話が延々と続く。菫授業中に寝過ぎじゃない? 大丈夫?
そうして私は菫本人が来るまでの20分間、ひたすらノロケ話を聞かされ続けたのであった。
*
誰かのことを好きになって胸が苦しくなったことも無ければ、周りの人を振り回してまで誰かと一緒にいたいだなんて思ったこともなかった。
母とは違う、そう思っていた。
だがそれは半分当たっていて半分間違っている。
私もまた母のように苦しくなるほどの恋をした。だが、母とは違ってその相手は恐らく石狩くんただ1人だ。
私は多分石狩くんしか好きにならない。
そう、確信めいた気持ちがある。
石狩くんが私のことを好きじゃなくても、私は石狩くんが好きだ。
それは認めるべきことである。