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彼女の旦那のことは誰も知らない  作者: 石月 ひさか
広告課 新道幸一
9/89

3

「今日はありがとうございました。お疲れ様です」


終業時間になり、深雪は皆に一礼して会社を後にした。


今日1日で、かなり疲労が溜まってしまった気がする。


立ち仕事でもないのに足が重く、脹脛が痛い。


ついでにパソコンばかりを見ていたせいか、目が痛くて仕方ない。


会社を出て、駅に向かって歩きかける。が、すぐに足を止め、手にしていた携帯に視線を落とした。


(だめだわ。今日はもう、電車は無理)


この疲労感で、帰宅ラッシュの満員電車には乗ることができない気がした。


電話帳を開いてボタンを押すと、二言三言会話をし、近くの花壇に腰を下ろした。


暫くし、会社の前に見るからに高級そうな車が止まる。


誰にも見られていないのを確認すると、車の後部座席に乗り込んだ。


「お疲れ様です奥様。今日はこのままご自宅でよろしいでしょうか?」


「えぇ、お願いします」


運転席に座る初老の男性に問われ、笑顔で頷く。


深雪を乗せた高級車は、皆の注目を集め、ゆっくりと走り出した。


後部座席のシートに背もたれると、一息吐き、暗くなりかけた街並みを見つめる。


いつもより口数の少ないのが気になったのか、運転手の崎村はそっと様子を窺った。


「初出勤でお疲れですか?それとも旦那様となにか?」


「ちょっと疲れちゃっただけ。会社勤めも大変だなって思って」


そんなに落ち込んでいるように見えたのだろうか。慌てて笑顔を作る。


「左様にございますか。今日は旦那様も早く帰ると仰っておりました」


「そう。わかったわ」


微笑むと、話すのも億劫になり、それきり黙り込んだ。


「急に呼び出してごめんなさいね。どうもありがとう」


車を降りて運転手に礼を言うと、エレベーターに乗って最上階へ向かう。


鞄から鍵を出し、ドアに差し込んで開錠する。玄関のドアを開けると、足早に靴を脱いでソファに倒れ込んだ。


「はぁ、死ぬかと思った」


やはり今朝の階段が効いたのか、足がガチガチで棒のようになっている。


最初は帰宅時くらいは公共交通機関を使おうと思っていたのだが、やはり車を呼んで正解だった。


「疲れた。でもまだ初日だし、そのうち慣れるわよね」


呟き、目を閉じると、猛烈に眠たくなってきた。


少しだけ、休もう。眠たくて仕方ない。


目を閉じてうとうとしかけた時、部屋のチャイムが鳴った。


大した音ではなかったが、反射的に飛び起きてしまう。


今のチャイムはマンションの玄関先ではなく、部屋のものだ。となれば必然的に相手は決まる。


「どうしよう、ご飯支度とか全然していないのに」


スーツのまま玄関に向かい、ドアを開ける。やはりそこには、旦那が笑顔で立っていた。


「なんだ。まだそんな格好してたんだ」


「だって今帰って来たばかりなのよ。あなたこそ早いのね。どうしたの?」


時計を見ると、まだ6時を少し過ぎた所だ。今までこんなに早く帰って来た事などない。


「せっかく急いで終わらせて早く帰って来たのに」


「そういう意味じゃなくて。まだ夕飯の支度とかしてないから」


今まで、どんな事があっても夕飯を作って笑顔で出迎えようと思っていた。


今回のは自分が悪いわけではないが、眠ろうとしていた手前、なんだか申し訳なく感じてしまう。


「夕飯?あぁ、夕飯はいいよ。就職祝いに、レストランを予約しているから。とりあえず着替えようか」


「就職祝い?」


そんなのは初耳だ。いつの間に予約してくれたのだろうか。


コウは深雪の体を抱き上げると、寝室まで連れて行き、床に下ろした。


「ありがとう、すぐに準備するわね」


背を向けてスカーフをほどく。


正直に言えば、あまり外食をしたい気分ではなかった。


確かに夕食を作らなくても良いのは助かるが、今からドレスアップをし、気張った店に出向く気力などない。が、せっかく予約してくれた手前、断る事などできなかった。


(出前とかにしてくれればありがたいんだけどなぁ)


クローゼットを開けてドレスを選びながら、深雪は旦那にバレない様、小さな深い溜め息を吐いた。

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