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「昔はロクな人間じゃなかったんです。中卒だし、全く学歴のない女です。だから本当は、こんな大きな会社に就職できるような人間じゃないんです」


黙っていてごめんなさい、と頭を下げる。


「でも、誤解しないで下さいね。私はヤクザの妻でも、愛人でもありません。私の旦那は……コウイチは、この会社の社員です。それだけは言っておきたかったんです。今までお世話になりました」


終始笑顔を絶やさずに言い切り、瑞穂達が何か言う前に社長室に向かった。


「失礼します」


中に入ってドアを閉めると、社長は笑みを浮かべながら顔を上げた。


「終わったのか?」


「はい。ありがとうございました」


両手を揃え、深々と頭を下げる。


「もういい。最後くらい、普通に話しても」


「そういうわけにはいきません。社長は社長ですから。──お世話になりました」


両手に握っていた封筒を差し出す。


社長はそれを受けとると「お疲れ様」と呟いた。


「ありがとうございました。失礼します」


出口まで歩き、もう一度頭を下げて外に出る。


昨夜あんなにシミュレーションをしていたのに、泣きそうになった。


何度も「やっぱりここで働き続けます」と言いたくなった。だが出来なかった。


最後まで仕事をやりたかったという思いはある。


だが自分は元々、コネで入社した人間だ。


瑞穂達の様に資格もなければ、学歴もない。


にも関わらず彼女達の中に潜り込み、同じ給料を貰うのは心が痛んだ。


コウイチが、職権乱用だと言われても仕方ないのだ。


「これで良かったのよね」


階段を下りながら、ポツリと呟く。


短い間だったが、コウイチや皆のお陰で夢だった社会人生活を送る事ができたのだから。


軽やかな足取りで下りていると、9階の踊場に柊が立っているのが見えた。


「お前やっぱり辞めるのか?」


「はい」


悲し気な柊とは真逆の、笑顔で答える。


彼にも世話になってしまった。


柊が深雪を妹の様に感じているのと同じで、深雪にとって柊も、兄の様な存在だったのだ。


「そうか。なんかまた妹が出ていくみたいで、少し寂しいかもな」


がっしりとした腕が伸び、頭を撫でる。


なんだか気恥ずかしくなり、僅かに頬を赤らめた。


「電車の時、ありがとうございました。あと、一昨日の事も」


口元に手を当て、クスクスと笑う。柊もそれにつられ、笑みを浮かべた。


「アンタは本当に、トラブルに巻き込まれ易いみたいだからな。気を付けろ。あと電車は女性専用車両だ」


「はい。ありがとうございます。お世話になりました」


再び階段を下りる。


だんだんと足取りが重くなる。


まるで、まだここから離れたくないと言うかのように。


すると今度は8階の踊り場に柏木が立っていた。


「辞めるのか」


「そうよ」


立ち止まり、じっと見つめる。


彼には柊とは逆に、トラブルに巻き込まれてばかりだった。


今ではそれすら懐かしく思える。


柏木はやはり気まずそうに目を反らし、頬を掻いた。


「あの時は本当に、悪かった」


「本当に。結婚しているのに恋愛はしたいなんて、最低の男だよ」


毒づくと、柏木は僅かに身を退き、生唾を飲み込んだ。


「わ、わかったよ。これからは、嫁を大事にする」


「絶対ね。アンタが浮気したら、すぐにわかるんだから」


「だからわかったっつーの。ったく、本っ当に可愛い気の無い女だな」


吐き捨てるように言うが、その表情や声色は穏やかだ。


本当は嬉しかった。


生まれて初めて、コウイチ以外の人に『好きだ』と言われ、正直胸がときめいた。


もちろんそんな事、言えるはずもないのだが。


「お昼ご飯ご馳走でした。貴方と話ができて、楽しかったわ」


「あ、あぁ。俺も」


手を差し出され、握手を交わす。


男同士の友情のように、ガッチリと握り締めた。


「じゃあね。ちゃんと仕事しなさいよ」


「わかってるよ」


手を離し、身を翻して階段を下りて行く。


もうこの階段を上り下りできないと思うと、少しだけ寂しく感じた。


数分かけて1階に着いた時は、僅かに息が上がっていた。

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