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「ってぇな……!!」
明らかに自分の拳は頬に当たったはずだ。
だが、軽く口元を拭っただけで、相手は大したダメージを受けた様子もない。
深雪は悪態を吐くと、左手からナイフを抜き、柄の部分で優也のこめかみを殴り付けた。
頭が真っ白になった。
鈍い音とともに皮膚が割け、真っ赤な血が流れる。
鮮血を見た瞬間、優也の動きは止まった。頭部を中心に、体が熱くて仕方ない。
鼓動が早くなり、全身の力が抜けるのを感じた。
しかし女は、高笑いを響かせながら攻撃を止める気配を見せない。
「ハハハっ!!血ぃぐらいで、ビビってんじゃねぇ!!」
それはもう、いつもの深雪ではなかった。
目は狂喜に輝いており、周りの社員は皆、何も出来ずに呆然と立ち尽くしている。
「オラ!立て!立てよ!まだまだ終わってねぇんだよ!」
反撃する気力を失った優也の腹部を蹴り上げる。
体をくの字に曲げて胃液を吐き出した所に近付き、胸ぐらを掴んで無理矢理立ち上がらせ、顔を近づける。
「おい、さっきまでの威勢はどうした?先にケンカを売ったのはテメェじゃねぇか。俺を殺したいんだろ?さっきそう言ったもんなァ?」
「この、野郎っ……」
弱々しく呟き、右手を伸ばす。
しかし体に届く前に、ねじ上げられた。
「ギャアァァア!」
関節の外れる痛みに吠える。
女はペロリと唇を舐め、糸の切れた人形の様になった体を地面に捨てる。
「ギャアギャア喚いてんじゃねぇよ!」
「はぁっ……はっ……」
このままだと確実に殺される。
片手を床に付き、なんとか逃げようとする。
女はその腕を、踏みつけた。
「うあぁぁっ!」
手の甲に5cm程のピンヒールが突き刺さる。
その痛みは尋常ではない。
「はは、あはは!クズ野郎……!死ねよ……死ねぇ!!」
「ひっ……や、止めてくれぇぇッ」
ナイフを持った右手が振り上げられる。
迫ってくる、銀色に輝く鋭い尖端に反射的に目を閉じた。
だがその時、深雪は通報によって駆け付けた警官に取り押さえられた。
深雪は腕を掴んで床に押し付けられた状態で、罵倒を浴びせる。
取り押さえていた警察の表情が僅かに揺らいだ。
「離せ!離しやがれ!!」
両手足を振り上げ、暴れる。だが、昔の様には払いのけられず、全く身動きがとれない。
2人の警官にねじ伏せられ、苦痛と屈辱に眉を寄せる。
「み、深雪ちゃん」
ふと、怯えた女の声が聞こえた。
無意識に視線をやる。そこには瑞穂を始め、見慣れた同僚が目を丸くさせて立ち尽くしていた。
その時やっと深雪は正気に戻った。自分がしでかしてしまった事に気づき、青ざめる。
「署に連行しろ。おい、救急車の手配を急げ!」
遠くから叫んでいるような声がした。と同時に、冷たく、重いものが手首にかけられた。
見なくともそれが何なのかを理解した。
深雪は両腕を抱えられながら、糸の切れた人形の様に連行された。




