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彼女の旦那のことは誰も知らない  作者: 石月 ひさか
広告課 新道幸一
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「おい、見ろよ」


「本当だ。勢揃いだな」


「?」


ディスクに着いて研修を受けていると、背後からヒソヒソと話し声が聞こえ、振り向く。


「うわ!やばっ」


ドアの隙間から2人位の男が様子を窺っていたらしく、目が合った瞬間、頭を引っ込めて逃げ去る足音が聞こえてきた。


(一体何かしら……)


まるで転校生を珍しがる中学生のようだ。


しかし新入社員を一々見物して回っているわけではないだろう。


どんな理由でも、盗み見をされているのは気分が良いものではない。


立ち上がり、様子を見に行こうとした時、室内に陽気な音楽が流れ、足を止める。


「あぁ、もう昼休みなのね。残りは後でやりましょう」


「あ、はい」


覗き見達の事は気になるが、それよりも昼御飯だ。


実は朝ご飯は形だけで、全く喉を通らなかった。

その為10時くらいから、いつ腹が鳴るかとヒヤヒヤしていたのだ。


華江が離れたのを確認し、安堵の息を吐く。


(私にやっていけるのかしら)


白い天井を見上げ、目を伏せる。


これはあくまでも『研修』の筈だ。しかし、華江の口から出てくるのは、理解不能な言葉ばかりだった。


聞けば秘書課の人間は、基本的に秘書検定というのを持っているらしい。


秘書は愚か、検定と名のつくものは一切取得していない深雪は、数分前、何気なく華江に聞かれた言葉に冷や汗を流した。


「あなたは、秘書検定の他に何を持ってるの?」


「え?検定ですか?」


あの時初めて、頭の中が真っ白になるという比喩を体感した気がする。


まさか何もありませんとは、間違っても言えない。第一、そんな雰囲気ではない。


「え、英語ですね。日常的な英会話はできます。アメリカにいた事がありますから」


「そうなの。なら、TOEICもかなりの高得点でしょうね。留学か何かしてたのかしら?」


「留学ではないのですが……3年程住んでいました」


咄嗟にそう言ってしまった。


アメリカ暮らしは嘘ではない。が、TOEICが何か分からない。


その後も「じゃあTOEICも800点くらいかしら?」と聞かれ、適当に頷いてしまった。


(嘘吐いちゃったわ。どうしよう)


実用的には困らないが、嘘は嘘だ。帰ったらコウに相談してみよう。考え、書類をまとめて立ち上がる。


(さて。気を取り直してご飯食べなきゃ。どこで食べればいいのかしら)


まだ一緒に昼食を食べる仲間はいない。必然的に1人で食べなければならない。しかし深雪は、単独行動には慣れている。


机の上を整理し、財布を持って立ち上がる。


「これからご飯よね?」


その時瑞穂が駆け寄り、満面の笑みで肩を叩いた。


「あ、はい」


「じゃあ一緒に行かない?1人で食べるなんて寂しいじゃない。他の課の人も誘うんだけど、交友関係も広がるし。ね?」


まさか初日から友達ができるとは思っていなかった。


予想外の展開に、目を丸くして驚いてしまう。が、すぐに満面の笑みを浮かべて頷いた。


----------------------------------------


向かった先は、社員食堂だった。とはいっても、一見どこかのレストランを思わせる程に豪華だ。


2人はそれぞれの昼食を持つと、席を探す。


「いたいた。あっちよ」


瑞穂は窓際の席に視線をやると、笑顔で手を振って駆け出す。


「あ、あの人」


そこにいる人物を見て、無意識に呟く。


席には4人の男女が座っていた。その中に、今朝ペンケースを落としてしまった男性がいたのだ。


彼も気付いたらしく、笑顔で会釈する。深雪もそれに倣うと、トレイを持って近づいた。


瑞穂は深雪を隣に座らせると、1人1人紹介していく。


「この子はうちの新人の近藤深雪ちゃん。深雪ちゃん、彼は総務課の小野寺祐介君。私と同期なの」


「よろしく」


フォークを持っていた手を置き、祐介は人懐っこい笑顔でにっこりと微笑む。


少しクセのある髪が、どこか柴犬を思わせる。深雪もつられ、表情を和らげた。


「その隣が事務の丙千里さん。1つ上の先輩だから、今は25歳」


「よろしくね。ちょっと瑞穂。私はまだ誕生日がきてないから、24歳よ!」


ショートカットがよく似合う、お姉さん系だ。どちらかといえば、近藤優とタイプが似ているかもしれない。


「そしてこっちが営業課の畠アキラさん。私より2歳年上だから、26歳」


「よろしく」


短めの黒髪に白い歯が映え、爽やかスポーツマンタイプ。


彼のトレイには見た目に似合っているが室内の雰囲気には不釣り合いなラーメンが乗っている。


そして最後は、今朝迷惑をかけてしまった彼だった。


「広告課の新道幸一。今朝はどうも」


手にしていた箸を置き、少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「え?新道さんと深雪ちゃんって知り合いなの?」


千里は首を傾げ、2人をマジマジと見つめる。


「まぁそうかな。知り合いと言うか、顔見知りと言うか。彼女、見た目のわりに凄いんだよ」


どうやら幸一は、今朝の出来事を話すつもりらしい。

いくら急いでいたとは言え、仮にも女の子が10階までの距離を階段を使って上っていたなんて、知られたくない。慌てて止めるが、無駄だった。


「別にいいだろ。恥ずかしい事でもなんでもないんだから。実は今朝彼女と階段で会ったんだけど、エレベーターが来ないからって、階段を使ってたんだ」


それを聞き、アキラは「へぇ」と目を細める。


「なかなか根性あるんだな」


「あの時はちょっと急いでたから」


新道幸一に見られたのは失敗だったかもしれない。恥ずかしさに耐えきれなくなり、顔を赤くしながら俯く。すかさずそれに気付いた瑞穂が、明るい声を上げた。


「でも階段の上り下りって足にきくのよ?細くなるんだって」


「そうなの?じゃあ私も明日からやってみようかなぁ」


「でも事務局は2階ですよね?丙さんがやったってあまり意味ないと思いますよ」


幸一が茶化すと、千里は「塵も積もればでしょ」と苦笑いした。


やりとりを聞きながら、コーヒーが入ったコップを口元に持って行く。


ふと、千里は何かに気付き、じっと深雪の手を見つめた。


「あれ?その左手につけてるのって、彼氏からのプレゼント?」


「え?」


とたんに視線が手元に向けられる。


「あ、本当。うちの会社、指輪は禁止なのよ。イヤリングやネックレスなら、シンプルなのはokだけど」


「え?そうなんですか?」


瑞穂に指摘され、反射的に指を隠す。過度なアクセサリーは禁止だとは思っていたが、指輪がダメだとは思わなかった。


「なんだぁ、深雪ちゃんって彼氏いるんだ。まぁ、そうだよな。可愛いもんな」


呟くと、祐介は深い溜め息を吐く。


幸一は、黙ってコーヒーの入った紙コップを口に付けている。


この指輪は確かにプレゼントだが、正確には彼氏ではない。


「彼氏からではないんです。これはその……」


言い切る前に、祐介は表情を一変させると、今度はあからさまに表情を明るくさせる。


「え?そうなの?だよね。良かった良かった!」


「全く小野寺君は、すぐにそういう事言うんだから。あんまりがっついてると、彼女なんてできないわよ?」


千里のツッコミに、祐介は慌てて弁解する。


「なっ!?別にガッついてなんてませんって!酷いなぁ丙先輩は」


「だけど華江さんに見つかる前で良かったね。あの人、身だしなみには人一倍うるさいから。結婚指輪以外はダメだから、外しておいた方が良いよ」


それはつまり、結婚指輪は良いという事だ。深雪はぱっと表情を変え、安堵の溜め息を吐いた。


「良かった。じゃあこれは大丈夫なんですね」


そう言ったとたん、皆はピタリと固まる。


「え?な、なんですか?」


一斉に向けられた視線に、軽く身を退いてしまう。真顔で凝視され、戸惑いながら5人を見回した。


何かおかしな事でも言っただろうか。


「あのさ、まさかとは思うけど、それって結婚指輪?」


引き吊った笑みを浮かべ、祐介は指輪を指差す。


だが深雪は、当たり前の事の様ににっこり笑いながら頷いた。


「はい、そうです」


もともと隠すつもりもなかった為、素直に頷く。


「えぇ!?」


すると皆は、一斉に食堂に響くほどの声を上げた。


「結婚?深雪ちゃんって結婚してるの!?」


「はい」


「嘘!だってまだ23歳でしょ!?なのにもう人妻なの!?」


千里は、心なしか他の人よりも切羽詰まった表情で身を乗り出している。


深雪は戸惑いながらも、もう一度頷いてみせた。


「は、はい。そんなにおかしなことでしょうか?あ……まさか、既婚者は秘書課には入れないんですか?」


だとすれば、入社初日に即刻解雇になってしまう。きちんと履歴書の配偶者欄に記入はしたのだが。


不安気に問うと、瑞穂は「いや、それは大丈夫なんだけど」とぼやく。


「ちなみに結婚何カ月目?」


アキラに聞かれ、少しだけ考えた。


実際の所、出会ってから長いので、明確な時間はあまり覚えていなかったのだ。


さらには、今まで改めて計算した事がなかったため、すんなりと答えられなかった。


「えっと……20歳の時だから3年目です」


「20歳で結婚?随分早いんだなぁ」


するとまた、皆は驚愕の声を上げたる


新婚だと思っていたのか、その反応は尋常じゃない。


食堂にいる他の社員達は、何事かと興味を示している。


「20歳で結婚なんて。私はまだ彼氏すらいないのに!」


24歳で独身であることにもはや焦りを感じているらしく、瑞穂はあからさまに落ち込んでいる。


深雪はどう声をかければいいのかわからず、曖昧な笑みを浮かべてサラダを口に入れるしかなかった。

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