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それから数時間後の、昼休みが近づいた時だった。
控えめにドアがノックされ、事務の丙千里が顔を出した。
「あれ?どうしたんですか」
瑞穂が立ち上がり、すっとんきょうな声を上げる。千里は浮かない顔でチラリと深雪を見ると、すぐに目を反らした。
「今、社長はいないわよね?」
「社長?多分今は外に出てると思うけれど」
何かあったの?とさゆりは首を傾げる。
千里は終始落ち着かない様子で深雪に近付くと、A4の茶封筒を差し出した。
「なんですか?」
「これ、さっき会社宛に届いたの。差出人の名前が無かったから開けたんだけど」
押し付けるように渡され、恐る恐る封筒の中に手を突っ込む。
中に入っている紙を引き出した瞬間、目を疑った。
そこには安物のコピー用紙が数枚入っていた。
呆然としながら取り出し、机の上に乗せる。
「やだ。なにこれ」
後ろから見ていた瑞穂は、眉を寄せて呟く。
紙には大きな文字で『秘書課の近藤深雪はヤクザの愛人』と殴り書きしてあった。
さらにその下には、深雪の社員証の写真を拡大コピーしたものが印刷されている。
それを見た瞬間、例の2人組のチンピラの仕業だと気付いた。
「ヤクザの愛人だって?なんだよこれ」
優は眉を寄せ、紙を手にしてぐしゃりと丸め込む。
深雪は蒼白顔で呆然としていた。そんな肩を瑞穂は笑いながら叩く。
「大丈夫だって。そんなの気にしない気にしない!ね?」
「こんな下らない事する奴いるんだな。気にしなくていいよ」
「え、えぇ」
しかし戸惑いは隠せない。
瑞穂と優が慰めてくれるが、千里とさゆりは訝し気に眉を寄せている。
「でも、開けたのが私だったから良かったけど、下手したら社長の目に入ってたのよ」
「そうよね。理由もなくこんな事しないわよ。ねぇ、これ、本当に嘘なのよね?」
「え?」
そう言われ、深雪は勢いよく立ち上がる。
「ち、違います!!私、ヤクザの愛人なんかじゃ……!!」
心外だ。
その気持ちを全面に押しだし、叫ぶ。
その勢いに、3人は驚いて身を退いた。
しかしさゆりは怖じ気付く事なく歩み寄った。
「じゃあ、貴方の旦那は一体誰なの?うちの会社だって華江さんには言ったらしいけど、名前は?どこの課なのよ」
「それは……」
ぐっと言葉に詰まる。
素直にコウの事を話せば、誤解を解く事ができるだろう。
しかし言えなかった。
これは間違いなくただの誹謗中傷だ。
しかしそれを説明する術はない。
あの時奪われた社員証が、こんな事に使われるとは思っていなかった。
黙秘=肯定と判断したのか、不意にさゆりはいつになく厳しい口調で言う。
「ねぇ、どうしてそうまでして言わないの?貴方、まさか本当にヤクザ絡みなんじゃないでしょうね」
耳を疑った。
流れからして、そう思われてしまうのも仕方ない事だ。
しかし、友人だと思っていた人に、こんなにも簡単に疑われてしまうだなんて。
「違います!私、そんな人間じゃありません!!」
感情に任せ、鋭い目で睨み付けて声を上げる。
嫌な雰囲気が室内に漂う。
さすがの深雪も居たたまれなくなり、勢い良く課を飛び出した。
浮かんでくる涙を拭い、必死に走る。
すれ違う社員達が驚いてこちらを見ていたが、構っていられなかった。
息を切らせて非常階段を下り、昇降口から外に出ると、顔を覆って踞る。
「っ……ううっ……」
何故こんな事になったのか。
余りに人がいないのを確認し、初めて大声を上げて泣いた。
しかしその時ふと人の気配がし、勢いよく振り向いた。
そこにいたのは、あの2人組だった。
とたんに深雪はキッと眉を寄せて立ち上がる。
男はニヤニヤ笑いながら深雪に近付き、腕を掴んで強く壁に押し付け、顔を近付けた。
「ヤクザの愛人。ま、似たようなモンじゃねぇ?秘書課の近藤深雪ちゃん」
「一体何がしたいのよ」
その手を払い、刺す様な瞳で睨み上げる。
「何がしたいって?そりゃ当然、コウをヘコます為だよ。あの野郎はアンタをいたぶった方が効くらしいからさ」
愛されてるねぇ……とゲラゲラと下品な笑い声を上げ、顔を見合わせる。
「とまぁ、最初はその予定だったが変更だ。見た所アンタ、ここの社長ともデキてんだろ?」
「はぁ?バカな事を言わないで!」
ぐっと顎を掴まれ、振り向かされる。
「あの紙、社長にも送ってやったんだよ。そしたらよ、警備員を通して金よこしてきやがった。普通さぁ、秘書1人の為にそこまでするか?あれ見た瞬間、オレはピンときたね」
僅かに厚みのある茶封筒で深雪の頬を撫で、すれすれまで顔を近付ける。
「アンタはやっぱりロクな女じゃねぇな。楽しみにしてろよ、近藤深雪ちゃん」
「っ……嫌!!」
首筋に舌を這わされ、押し返そうと腕を掴んだ時だった。
「おい!?」
昇降口のドアが開き、聞き慣れた声が響き渡る。
「おい、行くぞ優也」
「チッ!!」
顔を見るや否や男達は忌々しそうに舌打ちをし、足早に去って行った。
「大丈夫か!?」
駆け寄って来たのは幸一だった。
肩を抱き、心配そうに顔を覗き込む。
「何もされなかったか?なんでこんな所にいるんだよ」
「っ……」
優しい言葉に、一気に涙腺が緩む。
「っ……わぁぁ!!」
深雪は声を上げてしがみついた。
胸元に顔を擦り寄せ、しゃくりあげる。
幸一は暫く戸惑っていたが、そっと背中に手を回した。
「なぁ、あの事言った方がいいよ」
しかし深雪は、泣きながら首を左右に振る。
「ダメ……言えないわ。だって、コウに迷惑をかけるもの」
「そんな事ないって」
僅かに腕に力を込め、優しく囁く。
「お前が泣いてる方が辛いよ。だからこの際、みんなにハッキリ言おう。その方がいいから」
「っ……」
もしかしたら、彼の言う通りかもしれない。
しかし中々決心がつかなかった。
ただ幸一にしがみつき、暫く泣き声を上げていた。




