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「深雪、深雪」
「ん……?」
目を閉じている筈なのに、妙に眩しく感じるのはなぜだろうか。
軽く肩を揺らされる感覚に眉を寄せ、ゆっくり目を開く。
「おはよう」
「おは、よう」
目の前には、微笑む旦那の顔があった。
それは見慣れたものだったが、その背景に広がる景色は、見慣れないものだ。
寝惚け眼で頭がはっきり覚醒していないせいか、頭上にクエスチョンマークを浮かべた様な間抜けな表情をする。
「ここ、なに……?」
「相変わらず低血圧だな」
コウはクスリと笑みを漏らすと、軽く頭を撫でて立ち上がる。
黙ってその姿を目で追ううちに、昨夜、あのままホテルに泊まった事を思い出してきた。
「すっかり忘れてたわ」
髪の毛をかきあげ、恥ずかしそうに笑う。
「深雪はいつも寝起きは『ここはどこ?』状態だもんな」
コウはすっかりワイシャツとネクタイを身に付けた姿で、カップを片手に室内を移動する。
立ち上がろうとした時、自分の格好に気づき、慌ててシーツを手繰り寄せた。
「下着はそこだよ。まだ時間はあるから、下で飯食おう」
「えぇ、そうね」
手を伸ばして下着を掴み、素早く身に付ける。
「私の服は?」
「あぁ、そこの椅子」
新聞を読みながら指を差され、ベッド脇に置かれた椅子を見た。
真新しいスーツが背もたれにかけられている。
取りに行こうと起き上がりかけた時、ズキリと鳩尾が痛んだ。
そっと様子を伺うと、その部分だけ痛々しい痣ができていた。
(やだ……大変)
すぐにチンピラに殴られた痕だと気付いた。
ここでベッドから出れば、間違いなくバレてしまう。
「ねぇ、服を取って」
「別に普通に着替えてもいいよ」
少し離れた場所にいたコウは、新聞から目を離して苦笑いする。その顔は『何を今さら』と言っているようだった。
「お願い」
「全く、仕方ないなぁ」
それを恥じらいだと受け取ったのか、ポツリと呟き、カップを置いて椅子に近付く。
「ありがとう。すぐに支度するから待っていて」
「ゆっくりでいいよ」
そう言うと、再びソファーに戻る。
コウが新聞に集中しているのを確認しながら、素早く着替えを済ませた。
やっとベッドから脱出し、ドレッサーの前に腰掛ける。その時ふと、ある事を思い出した。
「アイロンがないわ」
「アイロン?」
「どうしよう、髪がセットできない」
元々パーマはかけていたが、風呂上がりにロクに乾かさずに寝てしまったため、背中まである髪は殆んどストレートに近い。
「下に美容室があると思うよ」
行ってくる?と聞かれ、時計を見る。あいにく、今からでは間に合いそうにない。
「いいわ。今日はこのままで行くから」
考えてみると、ストレートの髪型は久しぶりだ。
いつもの化粧をするが、髪型のせいで妙な違和感がある。
「なんか別の人みたいだね」
コウもそう思ったのか、上着を羽織ながら笑う。
「変?」
「いや、変じゃないよ。ただ、なんか違和感があるかな」
「そうよね」
だが時間的に美容室に行く余裕も、自宅に戻る余裕もない。
仕方無いかと呟き、上着を着て部屋を出た。
会社に着いた深雪は、恐る恐るドアを開けて顔を覗かせる。
会社には早目に着いたのだが、昨日、あのチンピラに奪われてしまい、社員証がないことに気づいたのだ。
その為、仮の社員証の発行や、再発行の手続きやらで、結局出勤時間ギリギリに課に入る羽目になってしまった。
ドアが開いた音に反応し、瑞穂が顔を上げる。が、深雪を見た瞬間、目を丸くした。
「あれ?花子ちゃん?」
「おはようございます」
頭を下げ、自分の席に着く。言われる事はわかっている。
「どうしたの?今日は髪型違うね」
「はい。ちょっと寝坊しちゃって」
いくらなんでも、旦那とホテルに泊まっていたからとは言えない。
いつもならば「どうして寝坊しちゃったの?」等、色々突っ込んでくる瑞穂だが、今日はそれっきり何も言わなかった。
「あら?キャリアさんは?」
軽く周囲を見回した時、誰よりも早く来ている筈の華江の席が空いているのが目についた。
「休みだよ。また、風邪を引いたんだって」
「そうなんですか」
とは言いつつも、もしかしたら昨日の事と何か関係あるのではと思った。
皆もそう感じているのか、どこかソワソワしている。
そこへ社長が現れ、4人は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「おはようございます」
「あぁ」
いつもの様に挨拶を返す事はなく、真っ直ぐに社長室に向かう。が、深雪を見て足を止めた。
「その頭はどうした」
「寝坊しただけです」
そう言うと社長は、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。
「寝坊か。ずいぶんとお盛んな事だな」
「なっ……」
これは明らかなセクハラだ。
抗議しようと口を開くが、社長はそのまま部屋へと消えて行ってしまった。
「全く。社長って花子ちゃんには妙にセクハラするわよね」
ドアに向かって、瑞穂が呟く。
「人妻っていうので、からかい甲斐があるんじゃないかしらね。だけど社長も、人の事を言えた義理じゃないわよ」
さゆりはポツリと呟き、自分の鎖骨辺りを指差す。それを見た優は、僅かに眉を寄せた。
「うわ。キスマーク?」
「行きつけのキャバ嬢か、どこかの暇なセレブとかかしらね。あの人は相当遊んでるみたいだから」
社長の目がないと、皆は言いたい放題だ。
特に話に加わる事はせず、含み笑いを浮かべる。
するとタイミング良く始業時間になり、それぞれ仕事を開始した。




