8
今日は怪我をしてばかりだ。
自宅に戻った深雪は救急箱を引っ張り出し、ソファーに腰掛ける。
踵は靴擦れのせいで出血しており、腹と頬もあのチンピラ達のせいで鈍い痛みをもっている。
「佐伯だなんて奴にも会っちゃったし、今日は厄日なのかしら」
足に大きめの絆創膏を貼り、腹には湿布をする。
体は痛くても、夕飯は作らなければならない。
立ち上がり、冷蔵庫を開ける。しかし中に入っているものを見て、溜め息を吐た。
「牛乳しかない……」
飲食店にでもありそうな、大きい冷蔵庫。
しかし中はガランとしており、ワサビ等の調味料の他には牛乳が数本入っているだけだ。
「あの時、まとめ買いしておけば良かったわ」
仕事帰りにデパートに立ち寄る事はあったが、手持ちできる量となると、結局その日の夕飯を仕入れるだけになってしまう。
一応野菜室も開けてみるが、野菜屑ばかりで、料理に直接的に使用できるものは入っていない。
「仕方ない。買い出し行かなきゃ」
部屋に戻り、私服に着替える。
ついでに2階のクリーニング店でスーツを出そうと何着か手にした時、家の電話が鳴った。
ベッドサイドに置いてある子機に手を伸ばす。
「はい、もしもし」
『やっぱりいた。携帯鳴らしたけど出なかったから。もしかしたら、また寝てた?』
コウの笑いを含んだ声がした。
「寝てないわよ。ただ気付かなかっただけ」
スーツを小脇に抱え、鞄を肩に掛ける。
『そう、まぁいいけど。実は今日、早く帰れそうなんだ。だからすぐに用意して、ウェスティンホテルに来て』
「え?なんでホテル?」
私服姿で玄関に立ち尽くしたまま聞く。
しかしコウは『あと30分くらいで行くからね』と一方的に電話を切ってしまった。
「え?ちょっと!」
慌てて叫ぶが、返ってくるのは終話音だけだ。
「あと30分で、恵比寿?」
何気なく真横にある鏡に映る自分の姿を見てハッとする。とてもじゃないが、この格好では行けない。
「大変、着替えなきゃ」
手にしていたスーツを放り投げ、急いで寝室へと戻った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「はっ……はぁっ」
30分後。
息を切らせながら、指定された場所に到着した。
人はたくさんいるが、肝心のコウの姿が見当たらない。
「一体どこにいればいいのかしら」
ホテルといっても中は広い。
取り敢えず入り口で待とうと、暫くそこに佇む。が、ふと化粧具合が気になり、中に入る事にした。
「急いで来たから酷いわね」
もっと早く言ってくれれば、美容室に行く時間があったものの。
30分後等と急を要され、全て自前で整えなければならなかった。
鞄からポーチを取り出して身嗜みを整えると、一息吐いてロビーに出た。
「なによ、30分って言うから急いで来たのに」
眉を寄せ、椅子に座ろうと歩みを進めた時だった。
「Hi!」
聞きなれない英語と共に肩を叩かれ、振り向く。
そこには30代半ばの外国人男性が、笑顔で立っていた。
いち早くナンパだと気付き、無視して歩き出す。
しかし男性は、穏やかな笑みを崩さずについて来る。
「What does it feel like to be the most beautiful girl in the room?」
直訳すると、それは「この部屋で一番美しい女性は誰だと思う?」になる。アメリカ人特有の遠回しなナンパ言葉だ。
うんざりした様に息を吐く。が、笑顔を作って振り向く。
「Thanks but,I'm waiting for my husband.Good bye!!(ありがとう。でも私、旦那を待ってるの。さようなら)」
穏やかに、しかし強く言い切り、ツカツカと歩き出す。
こんな面倒なやりとりをしなきゃならないのも、全て遅れているコウのせいだ。
(一体何してるのよ)
渋い顔でキョロキョロと見回していると、再び肩を叩かれた。
「what is a beautiful girl like you doing in a terrible place like this?(あなたの様な美女が、こんな所で何をしているんですか?)」
こんな高級ホテルでナンパをされるのも驚きだが、いい加減腹が立ってきた。
八つ当たりを含め、手を振り払って言い放った。
「Fack off!」
だが、振り向いた瞬間、固まる。
「消え失せろ、はないんじゃない?女が使う言葉じゃないよ」
そこには苦笑いを浮かべたコウが立っていた。
「ごめんなさい……」
もっとよく見てから言えば良かった。目を伏せて俯く。
「遅くなってごめん。行こうか」
コウは気にする様子もなく笑顔で腰を抱き、エレベーターに向かって歩き出した。
しかし深雪は、ドアが開いて乗り込もうとするコウの腕を掴む。
「ねぇ。なんでこんなホテルなの?なにかあるの?」
「いや、別に何ってわけじゃないけど。ただ昼間は嫌な思いさせたし、お詫びにと思って。たまには美味しいもの食べたいだろう?」
「え?じゃあご飯食べに来たの?」
とたんにぱっと顔を輝かせる。
買い物を済ませてこなくて、逆に好都合だったかもしれない。
「そうだよ。折角俺と結婚したんだから、たまには贅沢したいだろう?」
「えぇ。そうね」
せっかくエリートな高給取りの男と結婚したのだ。
それを知ったのは婚約した後だったが、たまには外食してもバチはあたらないだろう。
エレベーターに乗り込もうとした中年のアメリカ人男性とコウの肩がぶつかった。
「Oops sorry(おっと、失礼)」
人の良さそうな笑みで会釈され、コウも微笑み返す。
「It's ok.(大丈夫です)」
3人を乗せ、エレベーターのドアはゆっくり閉まる。
「What's floor?(何階ですか?)」
そう聞かれ、コウが「22 floor please」と答えた。
深雪はなんだか落ち着かない様子でソワソワしていた。ふと男性が振り向き、2人を見てニコリと笑う。
「You're a newly married couplf?(新婚ですか?)」
どう返せばいいかわからず、隣に視線をやる。
コウは軽く深雪の肩を抱いた。
「No,just a couple.(いいえ、新婚ではありません)」
年の若い2人を見て、てっきりそう思ったのだろう。新婚だと言われ、悪い気はしない。
男性は軽く「Sorry」と言うと、まだ話を続ける。
「Do you have work today?(お仕事ですか?)」
コウは一瞬どう言おうか迷ったようだったが、説明するのが面倒だと思ったのだろう。適当に肯定する。
「Yes」
「You are good at speaking English!What kind of job?(英語が上手いですね。なんの仕事を?)」
微妙な表情を浮かべる。
まさかこんなに話を繋げられるとは思っていなかった。
どうやらこの男性は話好きらしい。
今度は代わりに、深雪が答える事にした。
「He is just businessman.(彼はただのビジネスマンです)」
「Oh!You are good at speaking English very well!Have you been to foreign country?(あなたも英語が上手い。外国に来たことは?)」
「Yes,I lived in U.S.A a few years.(えぇ。アメリカに、2・3年程)」
コウがいる手前、やりとりは全て任せようと思っていた。が、久しぶりに話してみるとなかなか新鮮だ。
気付けば深雪と男性だけで盛り上がっていた。
コウはなんとなく釈然としないような顔で、黙って階数ランプを見上げている。
途中でエレベーターが止まり、男性は鞄を持ち変える。
「Thank you,Have a nice day(ありがとう。良い1日を)」
終始人の良さそうな笑みを絶やさずに、軽く手を振りながら降りて行った。
再び2人きりになり、コウはポツリと呟く。
「ついさっき、Fack offって言ったとは思えない程社交的だったね」
「さっきはナンパがいたから。普通の人には普通に接するわよ」
あの言葉は、つい勢いで言ってしまっただけだ。
いくらなんでも、あそこまで口調は悪くない。
22階に着き、手を握って降りる。
「ほら、行きましょう。お腹空いちゃった」
「はいはい」
引かれるまま、2人はレストランに入って行った。




