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「お疲れ様。先に失礼するわね」
定時になったとたん、華江は鞄とコートを持って出て行く。
まだ席も立っていない4人は、目を丸くし、逃げるように去った華江の後ろ姿を見つめた。
バタンと荒々しくドアが閉められ、顔を見合わせる。
「キャリアさん、どうかしたんですかね?」
少し間が空き、デスクに散らかった私物を片付けながら瑞穂が言う。やはり彼女も気になっていたらしい。
「さぁね。憶測はキャリアさんに叱られそうだし」
優は大きな伸びをする。
「興味ないんですか?」
「ないね」
ぶっきらぼうに返し、立ち上がる。
しかしそれは、寧ろありすぎる興味を抑えるためだろう。
「きっと当たって砕けたんじゃない?前に青山で見たけど、社長のタイプは派手な女よ」
華江さんはあわないから、とさゆりは苦笑いを浮かべる。
「青山で社長と恋人を見たんですか?」
スカーフを外しながら、深雪はすっとんきょうな声を上げた。
「そう。確か先々週の日曜日だったかしら。青山のカフェでご飯食べてたら、目の前にBMWに乗った社長が現れたの。デートみたいだったけど、けばけばしい女だったわよ」
「けばけばしい女……」
譫言のように呟いて眉を寄せる。
「黒いトレンチに、デカイサングラスした女だったよ。化粧も派手で。あれはきっとキャバ嬢かなんかだね」
「うわー……キャバ嬢ですか。同伴出勤ですかねぇ」
瑞穂が苦笑いする。
「かもね。社長、金だけはあるみたいだから」
こういう時の彼女達は、秘書の礼儀正しさ等微塵も感じられない。きっとこんな場面を見たら、彼女達に憧れている男性社員は幻滅するだろう。
まるで女子校のようなノリに、深雪は複雑な顔をする。
「確かにキャリアさんは、派手っていうよりは良妻賢母な雰囲気ですよね」
「そうそう。社長には勿体ない」
「あの、じゃあ私もこれで失礼します」
さすがに話についていけないと感じ、席を立って早々に出て行った。
話に夢中になって、こちらには気付いていない。
音を立てないようにドアを閉め、エレベーターに向かった。
外に出ると、まだ6時前だというのに暗くなっていた。
今日は電車で帰ろうと思ったのだが、何故かこういう時に限って一雨きそうな空模様だ。
「やっぱり迎えに来て貰おうかしら」
なんとなく駅に向かうのが嫌な気がした。
携帯を出し、崎村に電話をする。
『かしこまりました。では10分程しましたら、いつもの場所でお待ち下さい』
「お願いね」
電話を切り、そのまま裏路地に向かう。
本当はロビーで待っても良かったのだが、いつものタイミングの悪さで誰かに会ってしまう気がした。
靴ずれのせいで違和感のある右足を庇うように歩く。
壁に凭れ、ふと胸元を見た時、フルネームと顔写真入りの社員証を首にかけたままだった事に気付いた。
「いけない」
恥ずかしそうに笑い、首筋に手をかけた時だった。
「声は出すな」
どこからか現れた2人の男に挟まれ、ピタリと固まる。
脇腹に固いものがあてがわれ、ゆっくり視線を下げた。
そこには銀色に怪しく光るバタフライナイフがある。
「こんなにすぐに会えるとはな。こりゃ運命かもしれねぇな」
ニヤニヤ笑い、男は深雪の体を壁に押し付ける。
それは昼間、佐伯貴史の店で会ったチンピラだ。
「何の用かしら」
深雪は眉を寄せ、2人を睨む。
「何の用とはご挨拶じゃねぇか。こんなイイ所のお嬢さんだったとはな」
男はニヤニヤ笑い、首にかけている深雪の社員証を引きちぎった。
通りすぎる通行人達は、皆見て見ぬふりをしている。
「俺たち、アンタの彼氏を探してんだよ。今すぐ呼び出せ」
腹部にあったナイフがゆっくり上昇し、胸元に押し付けられる。しかし深雪は微動だにもしない。
「嫌よ。呼ぶわけないでしょう。大体呼んでも、貴方達なんて相手にならないわよ」
「なんだと!?」
その言葉にカッとし、男は深雪の腹を蹴る。
「っ……!」
息が止まり、体をくの字に曲げ、口元を押さえて咳き込んだ。
「お、女相手にボディー狙うなんて、最低ね……」
「うるせぇ。女だろうとなんだろうと、構わねぇんだよ」
手を伸ばして前髪を掴み、壁に叩きつけられる。
クラクラと目眩がし、揺れた。
ぼやけた視界に険しい男の顔が近付く。
「いい加減にしろよ。マジで殺すぞ!!」
通りすぎる男達は、チラチラとこちらに視線をやる。しかし助けに来るのはもちろん、警察を呼ぼうともしない。
「女だと思って調子こいてんなよ。さっさと呼べ!!」
ナイフに力が込められる。
ここは大人しく、コウを呼ぶしかないのか。
震える手で携帯に触れた時だった。
「お前等何してんだ!」
後ろから声がし、振り向く。
そこには眉を寄せた柊光佑がおり、こちらに駆け寄って来る所だった。
そして、深雪を見たとたん、表情を変える。
「んだようるせぇな!テメェには関係ねぇんだから引っ込んでろ!」
黒髪の男はナイフをちらつかせ、柊を追い払おうとする。しかし彼は退かない。
「お前等、そいつに何してんだ!!」
柊はがなり声を上げ、男の胸ぐらを掴んで投げ飛ばした。
そのあまりに綺麗なフォームに、深雪は目を丸くした。
「この野郎……!!」
金髪の男も負けじと声を張り上げ、殴りかかる。
しかし拳が届く前に捕らえられ、肘関節を逆にして抑え込まれた。
その態勢は正しく腕ひしぎ十字固めだ。
「い、痛ぇ痛ぇ!!離せッッ」
巻き込み式でギリギリと腕の付け根から引き上げられ、あまりの痛さに情けない悲鳴を上げる。
そうして暫くした後、やっと解放され、「覚えてろよ!」とお馴染みの捨て台詞で逃げ去って行った。
「なんだアイツ等。弱い野郎だな」
2人の背中に向かって呟き、柊は苦笑いを浮かべる。
「柊さん、大丈夫ですか?」
「あぁ、全然。それよりアンタ、こんな場所で何してるんだ」
パンパンと汚れた背広を叩き、カバンを手にする。
「迎えの車を待っていたら、急にあの人たちに絡まれて。ありがとうございました」
その経緯は敢えて語らず、軽く腹を擦りながら頭を下げる。
「いや、なんかヤバい奴等だったな。間に合って良かったよ」
柊は人の良さそうな笑みを浮かべると、深雪の頭を数回撫でた。
「なんかアンタ見ると放っておけないんだよな。──妹によく似ていて」
「妹さん、ですか?」
聞くと、柊は「あぁ」と目を細めた。どこか懐かしむように遠くを見る。
「今年20歳になるんだけど、今海外に留学してるんだよ。見た目は大人しそうな顔してんのに、アンタみたいにチカンに安ピン刺そうとする奴だ」
「え……」
聞いた瞬間、深雪は表情を強張らせた。
まさか見られていたとは思っていなかった。
「ま、悪いのはチカンだけどな。安ピンぶっ刺すのは、ちょっとやりすぎじゃないか?」
「すみません……」
顔を赤らめ、目を伏せる。
その時道路脇に車が止まり、運転手が顔を出した。
「奥様!どうかなさいましたか?」
「な、なんでもない。今行くわ」
答え、再度柊に向かって頭を下げる。
「本当にありがとうございました。失礼します」
落ちていた鞄を拾い上げ、車に向かって走って行く。素早く乗り込むと、柊に軽く会釈し、崎村に出すように頼んだ。
「すごいな。本当にお嬢様なのか」
走り去る車を見送りつつ、柊はポツリと呟いた。