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「おはようございます……」
翌朝、瑞穂から貰ったメール通り、いつもより1時間早く出社した。
恐る恐る室内に顔を出すが、室内に人の気配はない。
(やっぱり私だけみたいね。社長もいないし……一体何をすればいいのかしら)
手にしていた箱を机に置き、ざっと室内を見回すが、仕事らしきものは見当たらない。
社長直々の命令だと聞き、激しく叱責されるのかと思っていたのだが、当の本人の姿はない。
叱られるなら、早く叱られてしまいたい。これ以上生殺し状態は辛い。
「どこに行ったのかしら」
「俺はお前の様に暇じゃないんでね」
「ぎゃぁっ!?」
後ろから強く肩を捕まれ、悲鳴にならない声を上げて振り向く。
「なんだ?そのカエルが潰れたような声は」
「し、社長!?」
そこにはいつの間にか近藤社長が渋い顔で立っていた。
一体いつの間に入って来たのだろうか。全く気付かなかった。
「お、おはようございます」
「不満は陰で言え。直接俺に向かって言う度胸があるなら別だが」
「ま、まさか。とんでもないです」
ただのOLが、上司に直接文句だなんてとんでもない。
相手が上司も上司、会社のトップなら尚更だ。
引き吊った笑みを浮かべながら、近藤社長の前だと、どうしてもいつものキャラクターを保っていられないなと思った。
「陽子から聞いたと思うが、昨日残業をサボった罰だ」
社長はドアの影から何かを取り出した。差し出されたのは、真新しいモップだ。
「これは?」
一応受け取るが、何故モップなのかと首を傾げる。
「何に使うかわからないのか?ならこれもやろう」
次いで渡されたのは、同じくバケツと雑巾、それにゴム手袋だ。
「まさか掃除、ですか」
「正解だ」
深雪の表情とは対称的に、社長は子供のように嬉しそうに笑う。それが妙に憎らしい。
「罰と言えば掃除だろう。トイレ掃除──と言いたい所だが、さすがにそれをやらせるわけにはいかない。代わりに始業まで、社長室と秘書室を綺麗にしておけ。普段は家事をしているんだろ。それくらいは朝飯前だよな」
どこから突っ込んでいいのかわからず、バケツとモップを手にしたまま絶句する。
「これは社長命令だ。俺は今から会議に出るが、サボらずにやれよ」
一方的に言い付けると、ヒラヒラと片手を振って去っていく。
その場に1人取り残された深雪は、黙ってピカピカの掃除用具に視線を落とした。
「まさか掃除をやらされるなんて」
ゴム手袋をしてモップをかけながら、溜め息を吐いた。
残業をせずに帰ってしまったのだから、叱責や、それなりの罰は受けると思ってはいた。
だがまさか、その『罰』が掃除だなんて。まるで学生の様だ。
黒くなったモップを水に浸けて絞り、床を拭く。先程からその繰り返しだ。
よく考えれば、迷惑をかけてしまったのは社長よりも同僚だ。
その為秘書室を先に終わらせ、時間を見て社長室へ向かう。
いない事はわかっているが、念のためにノックをしてドアを開ける。
「いいご身分ね」
軽く辺り見回し、軽く皮肉めいた言葉を呟く。
室内に配置されている家具は、どれもこれも、素人の目から見てわかる程上等なものばかりだ。
一体この部屋でどんな仕事をするのかはわからないが、少なくとも、壁際に置かれているマッサージチェアは必要ないと思う。年のわりに、体にガタがきているのだろうか。
「大体、26歳で社長っていうのが有り得ないわよね」
確かに今は、20代で会社を興す若者は多いが、このスケールの会社はそうないだろう。
そういえば、この会社は代々継がれてきたらしい。
つまり、あの人が若くしてこんな大企業の社長に就任できているのは、近藤家の息子だからだ。
あれで仕事ができなければ、俗に言うドラ息子として扱われていただろう。
そんな事を考えながら雑巾を硬く絞り、丁寧に埃を拭い取る。
家具ばかりでなく、棚に飾られている装飾品も高価だ。
メジャーなバカラやマイセンがずらりと並べられており、誤って落とさないかとヒヤヒヤする。
隣には小さなワインセラーまである。いつもここでワインを飲んでいるのだろうか。
その時突然ドアが開かれ、驚いてバカラのグラスにぶつかってしまった。
「あっ!」
悲鳴を上げ、咄嗟にスライディングする。
なんとか床に付く前に手中におさめ、ほっと安堵した。
「何をしてるんだ」
座り込みながら傷がないか確かめていると、後ろから呆れ声がした。
グラスを手にしながら恐る恐る振り向く。
「お疲れ……様です」
まさか、落とした所を見られてやいまいか。
精一杯笑みを浮かべ、自然な仕草で棚に戻す。
「バカラごときの為にスライディングか。随分体を張ったな」
「社長にはバカラ『ごとき』でも、私には違いますから」
落として割った日には、申し訳なくて家に帰れない。それに弁償だってできない。
その為なら、スライディングでもなんでもやる。
軽くスカートを叩き、再び雑巾を手にして掃除を開始する。
しかし、それを制するかのように、社長は軽く咳払いをした。
「もう戻っていい」
「でも、まだ終わっていませんよ」
元々不本意で始めた事だが、途中で放棄するのも気が咎める。
しかし社長は、眉を寄せてドアを指差した。
「いいと言っているんだ。素直に戻れ」
コロコロと態度を変えられ、深雪は不服そうな表情を浮かべて雑巾を戻す。
中途半端なのは不満だが、かといって意固地になって続行するものでもないだろう。
ここは素直に従うに限る。
また、おかしな仕事を押し付けられたら、たまったものじゃない。
「わかりました。失礼致します」
頭を下げると、バケツとモップを持ち、社長室から出て行った。
「全く、気まぐれなんだから」
殆んど追い出される様な形で秘書室に戻った深雪は、ドアを睨みながらポツリと呟いた。
やはりどう努めても、彼の前で素は隠せない。
汚れた雑巾を給湯室の流し台で洗い、バケツの縁にかける。
1時間近くも休まず掃除をしたせいか、もう一仕事終えたような達成感だ。
(部屋も綺麗だし、机も綺麗。清々しい気持ちになるわね)
満足そうな笑みを浮かべて室内を一望していると、ドアが開いて華江達が出勤して来た。
「おはようございます」
すかさず笑みを浮かべて頭を下げる。
誰もいないと思っていたらしく、華江は一瞬目を丸くする。が、すぐにいつもの表情に戻った。
「あ……早朝出勤だったわね。お疲れ様」
「はい。昨日はすみませんでした。私ったら、ついうっかりしていて」
柏木の一件があったとはいえ、仕事は仕事だ。コウにも言われたが、公私混同は社会人として失格だろう。素直に頭を下げ、謝罪する。
しかし華江は「いいのよ」と穏やかに言った。
「元々、2人くらいいればいい仕事だったんだもの。それに貴方は結婚しているんだから、夕飯の支度もあるでしょう」
「でも、だからといって優遇されるわけじゃありませんから。あの、これ宜しければ。お詫びです」
自分のデスクに置いていた箱を持って来る。
「あら、なに?」
「近場ので申し訳ないんですけど……。来る途中に、買ってきたんです。おやつにでも召し上がって下さい」
差し出したのは、近所で人気がある洋菓子店の焼き菓子詰め合わせだ。
フランスで修行したパティシエが、1つ1つ丁寧に手作りしており、味は有名なブランドよりも遥かに勝る。
引っ越してすぐに近所を散歩している時に偶然見つけ、それ以来すっかりファンになってしまい、今では常連だ。
「まぁ、美味しそう。そんなに気を使わなくても良かったのに」
華江は嬉しそうに笑いながら、中を覗き込む。
箱の中にはクッキーやマドレーヌの定番菓子に加え、ガレットやサヴァラン、ドラジェ等が詰め合わせになっている。
「凄く美味しくて、旦那もお気に入りなんです。特にこのドラジェが最高で」
「本当。美味しそうね。あ、そうだわ。ねぇ、ちょっと聞いてもいいかしら?」
「はい?」
コーヒーを煎れようと給湯室に向かいかけた足を止め、振り向く。
「大した事じゃないんだけれどね。座って」
「は、はい」
まさか叱られるのだろうか。
緊張した面持ちで、背筋を伸ばして椅子に座る。
「実はね、貴方の旦那様の事なんだけど」
予想外の言葉に、深雪は目を丸くした。
瑞穂達ならまだしも、まさか華江までもが旦那の事を気にしているとは思っていなかったのだ。
「はい、何でしょうか」
「差し支えなければでいいんだけど、旦那様の名前、教えてもらえる?」
「え……」
ピタリと口をつぐむ。
まさか名前を聞かれるとは。
軽く目を反らし、しどろもどろしてしまう。
しかし華江は、そんな深雪を見てにっこりと笑った。
「差し支えなければだから、そんな顔しないで頂戴。別に責めているわけでも、問い質しているわけでもないのよ。陽子達が、あなたの旦那様を気にしているのは知ってるでしょう?隠されると余計に気になってしまうのね、きっと。だからもし問題がなければ、フルネームだけでも教えておいた方がいいかと思って」
「そう、ですね……」
彼女達がコウの事を気にしているのは、前々から気付いてはいた。
しかしそれだけは、言うわけにはいかない。
「ごめんなさい。旦那の事は言えないんです。多分気付いていらっしゃると思いますけど、ここの社員です」
華江は「やっぱりそうだったのね」と目を細めて笑った。
「良いのよ、気にしないで。そうね、確かに夫婦で同じ会社っていうのは、少し気まずいわね」
思っていたよりも優しい言葉をかけられ、ほっと安堵する。
やはり華江には、無理矢理聞き出そうとする意思はないのだろう。
「はい、そうなんです。それに、旦那の事は絶対に周りに知られないようにって。社長とも約束してるんです」
「え?社長?まさか、社長はご存知だったの?」
どうやら華江は、社長に知られたくない為に隠していると思っていたらしい。
うっかり口を滑らせてしまった。だが前言撤回は難しいだろう。
「はい。社長と旦那は──その、知り合いみたいなもので」
深雪は無意識にソワソワしていた。
まさかこの言葉だけで、社長とコウの詳しい関係を知られるとは思えないが──。
「あの、この事はみんなに黙っていて下さい。旦那がうちの社員だって事は構いませんけれど、社長の事は」
「えぇ、勿論よ。そう、お知り合いだったのね」
華江は何かを想像し、何かを納得した様に頷いた。
そのリアクションが気になり、様子を窺う。
「何かありました?」
「いえ、社長ってあぁ見えて、かなり人見知りが激しいのよ。彼が来てから3年経つけど、今まで行事以外では飲みに行ったりもないし。雑談もあまりないわね」
「そうなんですか?」
人見知りだなんて、あの社長には関連づけられない。
しかし華江は至って真面目な口調で続ける。
「あら、あぁいう人って、意外と繊細なのよ?私達にあだ名をつけるのも、早く慣れようとしているからだし。まぁ、もとはと言えば、近藤ばかりを雇っているのは社長だしね。ややこしいなら、違う苗字の人を採用すればいいんだもの」
「確かに、そうですよね」
その言葉は尤もだ。
あだ名を付けるくらいなら、違う苗字を雇えばいいだけの話。
『近藤』ばかりを採用する所を見ると、わざとやっているとしか思えない。
「社長、貴方には比較的よく話しかけるでしょう。知り合いだって聞けば納得できるわ」
「そうですね」
今まで気にしたこともなかった。
社長が人見知りだなんて。そんなナイーブな一面があると思えば、なんだか可愛く思えてくる。
確かに近藤社長は、見た目も話し方も態度も感じが悪い。
だが、昨日柏木に襲われかけた時、助けてくれたのはあの人だ。
顔の怪我に関しても、予想していたような無神経を投げ掛けられる事はなかった。
再び華江は言いづらそうに口を開く。
「違っていたらごめんなさい。あなたの旦那様って、柏木さんじゃないわよね?」
その言葉に、深雪は思わず立ち上がる。
「ち、違います」
「そうよね。彼、他の人と結婚してるものね。みんなが柏木さんじゃないかって言うから一応確認したくて」
あの男が旦那だなんてとんでもない。深雪は不快感を露にする。
「柏木さんみたいな人が旦那だなんて。もしもそう聞かれたら、キッパリと否定します」
「そうね。わかったわ」
華江も彼の性格をよく知っているらしく、苦笑いしながら頷く。
話をしていると、瑞穂達が出勤してきた。
相変わらず見ている方も気力を分けて貰える程、元気が良い。
「おはようございまーす!あれ、2人とも早いですね!」
深雪は密かに、瑞穂に好意を持っていた。
勿論他の人もみんな優しく良い人達なのだが、彼女が一番自分の性格に合う気がするのだ。
「今日は早朝出勤でしたから。あの、これ昨日のお詫びです」
「え!?差し入れ?嬉しい!ありがとうっ」
焼き菓子の入った箱を見せると、とたんに瑞穂は目を輝かせる。
「早速いただきましょうー!」
「朝からお菓子?後でみんなでいただきましょうよ」
華江は苦笑いを浮かべる。
「今日は朝ごはん抜きだからお腹すいちゃって。紅茶煎れてきますね」
「あ、私もお手伝いします」
瑞穂の様子を嬉しそうに見ながら、深雪も給湯室へ向かった。




