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「びっくりした。バレたらどうしようかと思った」
何度も溜め息を吐き、カバンを開けて空になった弁当箱を取り出す。
ふと視界に黒い携帯電話が入った。
いい加減にしろと自分で思いつつも反射的に手が伸び、ホームボタンを押す。
最初に目に飛び込んできたのは、いつの日か撮った、ツーショット写真の待ち受け画面だった。
それを見て再び罪悪感を感じ、ゆっくり閉じる。
あんな男の言葉に乗せられ、最低な事をしてしまった。
結局この行動により、深雪はただ墓穴を掘っただけだった。
お弁当箱を洗いながら、自分のしてしまった事を後悔していた。
あんな人でなしの言う事を真に受けて、不純な気持ちで旦那の部屋に入り、パソコンまで開いてしまった。
確かに、二重パスワードに疑問を抱かないわけじゃない。
室内専用の私物にロックをかけるという事は、見られたくない対象は間違いなく深雪1人。
それは確かに悲しいが、正直最後のロックが破れなくて良かったと思う。
もしもあのままメールを見てしまったら、きっと自分自身を許せないと思うから。
コウはあの男と違って、浮気を男の甲斐性だなんて思う人じゃない。
もう何年も一緒にいるのに、その誠実さを信用しなかった。
雑誌やテレビで、彼の浮気を携帯メールで知ったという女の子が、泣いて語っているのを見た事がある。
あの時は他人事ながら、何故泣くのか理解出来なかった。
自分はならきっと相手を強く責め、泣かせる事はしても泣くだなんて事はできないと思っていたからだ。
だが、こうやって自分が同じ経験をして初めて気付いた。
彼女達は、恋人に裏切られた悲しみだけで泣いていたわけではない。
悔しさや、自分自身への懺悔等、色々な複雑なもので涙を流していたのだ。
もしもあのままパソコンを見る事ができて、結果がどうあったとしても、やはり自分も泣いてしまったと思う。
だから尚更、すぐ近くにある携帯電話に手を伸ばす事は出来なかった。
これ以上自分の心を、醜い嫉妬で塗り潰してしまいたくなかったから。
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暫くして、コウはコンビニの袋を持って戻って来た。
「ただいま」
「どうしたの?その数」
ドサリと置かれた袋を見て、呆然としてしまった。
「やっぱり買い過ぎたかなぁ。久しぶりにコンビニ行ったら懐かしくなって。手当たり次第に買ってきたんだ」
でもどこか嬉しそうに言い、大きな袋から次々に品物を取り出してテーブルに乗せる。
「こんなにたくさん、誰が食べるの?」
「俺と深雪。腹減ってるだろう?サラダだけだと栄養偏るよ」
はい、と笑顔で菓子パンやおにぎりを差し出される。
「こんなにたくさんは……」
確かにお腹は空いているし、コンビニフードは馴染み深い食べ物だ。
だけど、いくらなんでもこんな時間に、更にこんなにたくさん食べるのは気が引ける。
一応、体型には気を使わなければならない。
だがコウは「気にするなよ」と言い、包みを開けてオニギリにかぶりついた。
「やっぱり体に悪い物は旨いなぁ」
「体に悪い物だなんて」
呟いた瞬間、いつだったか、広太朗と一緒にファーストフードを食べた時の事を思い出した。
彼も確か、店を出た時に似た様な事を言っていた気がする。
「男の人ってみんな、同じ事を言うのね」
あの男とコウは全く違うのに。
妙な偶然もあるものだと思いながら、深雪もオニギリのフィルムを剥がし、口に入れる。
独特の味が口内に広がった。
確かに体に悪い物は美味しいかもしれないが、正論を言いながら食べても美味しさが半減するだけだ。
「みんなって誰?」
「なにが?」
不意にコウは口からオニギリを放し、呟く。
殆んど無意識に話をしていた為、何の事かわからなかった。
「今、男はみんなそう言うって言ったから。誰か男と飯食った事があるの?」
「え?」
その時やっと、失言に気付いた。
広太朗とランチをした事を話していなかったことを思い出したのだ。
「誰と食ったの?」
素直に広太朗に誘われたと言えば良いのはわかっている。
だが、今までの過程を思い出し、あんな人と一緒にご飯を食べただなんて言いたくなかった。
その為、無意味な嘘を吐いてしまった。
「しゃ、社長よ。前に秘書課の皆と居酒屋に行った時」
「社長?……お前、馬鹿?」
「あ……」
とたんにコウの表情が険しくなる。
言ってから、しまったと思った。
社長関係の嘘は、コウに話しても仕方ない。
慌てるあまり、何よりもバレてしまう嘘を吐いてしまった。
「なんで嘘吐くんだよ。なんか疚しい理由でもあるのか?」
「疚しい理由だなんて……そんな事ないわ」
絶対にない。あるはずがない。
だが、あんな嘘を吐いてしまった手前、胸を張って言い切る事が出来ない。
慌てれば慌てる程、挙動不審になってしまう。
これではまるで、浮気をしているみたいだ。
そんな深雪の心中を察したのか、コウは溜め息を吐きながらじっと目を見つめた。
「別に怒ってるわけじゃないんだからさ。つまんない嘘吐くなよ」
「ごめんなさい。実は前に柏木さんと一緒にファーストフードを食べたの」
「柏木とファーストフード?」
復唱した後、何かを思い出したのか、コウはみるみる顔付きを変えた。
「そうか。だからアイツ、お前を好きだとか言ったのか」
こういう時のコウは一気に嫉妬心を丸出しにする。
元々は深雪に男っ気がなかったのがいけないのかもしれない。
慣れてないせいか、コウは自分以外の男に女扱いされるのを酷く嫌う。
それはまるで、深雪が浮気に対して過剰な嫌悪感を持つように。
他の人にはおかしいと言われるかもしれないが、今までコウの嫉妬深さも独占欲も、重荷だと感じた事は無かった。
なぜなら自分でも、コウ以外の男から女扱いされる事が、おかしな事だという認識があるから。
「なんであんな奴と一緒に飯なんか食ったんだよ」
「別に、好きで一緒に食べたわけじゃないわ。無理矢理連れて行かれたのよ。それに先輩だし、断れるわけないじゃない」
あの時、本当は行きたくなかった。
だが相手は先輩な上、コウの知り合いだ。
殆んど無理矢理だったのは否めないが、好意で誘ってくれたのはわかっていたから、断れなかった。
そう伝えると、コウはやっと納得したのか「そうか」と呟いて再びオニギリを口に運ぶ。
「ねぇ、信じて。私、あの人とは何もないわ」
誤解されるのが嫌で、なんだか妙にすがるような声色になってしまった。
「わかってるよ。喫煙所での事も知ってるし。だから初めから、そんな風になんて思ってないよ」
ゆっくり優しく、小さな子供に語りかけるように話す。
深雪はただ黙って聞いているしか出来ない。
少し間を置いて、コウは何かを決心したように口を開いた。
「なんか深雪はいつも、俺がこういう話を聞くと、浮気はしていないとか、関係はないとか言うよな。どうして?」
「え……」
そう言われ、ハッとした。
なんだか心の奥底の痛い部分を突かれたような衝撃だった。
確かに今まで、浮気男のような言い訳紛いの事ばかり言っていたような気がする。
浮気なんて勿論の事、コウに対して秘密なんて作った事はない。
だけどよく考えてみると、信じていると言いながら、本当は信用していなかったんじゃないかと気付いた。
この人の自分に対しての気持ち全てを、疑って不安がっていたのかもしれない。
そしてコウは、そんな不安定な気持ちを前々から感じていたようだった。
すっと手を伸ばし、泣き出しそうになっている深雪の手を握る。
「こっちおいで」
軽く手を引かれ、隣に移動する。
そのまま肩に頭を乗せると、コウは小さく笑った。
「今日はなんかおかしいな。どうしたんだ?」
「……ごめんなさい」
呟き、肩に顔を埋めて目を閉じる。
原因はわかっていたけれど、言いたくなかった。
これが女独特の複雑な感情なんだろうか。
「謝るなよ。責めてるわけじゃないんだから」
「えぇ……」
言葉が心に染み入る。こんなに優しくて寛大な人を疑うなんて、自分はどうかしていた。
「ごめんね……」
「まぁいいか」
クスリと軽く笑い、髪を撫でてくれる。それが心地好い。
「さて、食うか。まだたくさんあるんだよ」
「そうね。たくさん食べましょう」
目元を拭って顔を上げ、食べかけのオニギリに手を伸ばす。
今ならパンでもお菓子でも、いくつでも食べられる気がした。