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向かった先はコウが自室にしている隣の部屋だ。
合鍵はいつも持っている。
小さく息を飲み、シリンダーにキーを差し込む。
部屋に入る事自体は悪い事ではないはずなのに、手が僅かに震えた。
ゆっくりと右に回すと、ボルトが外れる音が人気の無い廊下に響いた。
無意識に周囲を確認し、素早く部屋に飛び込んでドアを閉める。
(なんだか、泥棒みたい……)
その心情は旦那を疑っている罪悪感のせいだとわかっているからこそ、いたたまれない。
靴を脱ぎ、恐る恐る室内に入る。
間取りは自宅の部屋と全く同じで、唯一バスルームの場所だけが左右反転している。
基本的に『自宅』で過ごしている為、互いに必要の無い場所なのだが。
室内は生活感が無く、さっぱりしていた。
軽く周囲を見渡し、一直線に寝室に向かった。
寝室といってもベッドはなく、書斎と言った方が正しいかもしれない。
壁には大きなスライド式の本棚があり、中にはどこの国のものかわからない字の本が無数に並べられている。
深雪は窓際に設置されている茶色のデスクに近づくと、その上に置かれているデスクトップパソコンに触れた。
コウは大体、部屋にいる時はこのパソコンか携帯電話で連絡を取っている。
彼の性格上、もしも何かを隠すならば、すぐに見られる可能性の高い携帯電話より、パソコンの方だろう。
椅子に座り、スイッチを入れる。軽やかなメロディが鳴り、画面が立ち上がる。
と思いきや、真っ青な画面の右側にパスワードを入力する文字が現れた。
「パスワード?」
何故持ち運びをしないパソコンに、ロックをかける必要があるのか。軽く眉を寄せ、取り敢えず思い付く数字を入力する。
【1203】
これは彼の誕生日だ。しかし解除されない。
【0325】
今度は自分の誕生日を入れる。これでも画面は変わらない。
「パスワード……パスワード」
他に何かあるだろうか。頬杖をつき、必死に考える。
その時ふと、ある数字を思い出した。
「もしかして……」
呟き、人差し指で8桁の数字を打ち込む。
すると画面が変わり、Windowsが立ち上がった。
「やった……」
まるで難解な問題を推理したような気持ちになり、手を合わせて喜ぶ。
しかし同時に、なんとも言えない罪悪感に苛まれる。
深雪が入力したのは、結婚記念日だった。
2人の記念日をパスワードに設定する様な旦那を、自分は疑っているのだ。
「私……最低な女ね」
呟き、目を伏せる。
きっとコウは浮気も隠し事もしていない。
あんな不倫を当然だと思っている様な男の言葉に翻弄され、自分は何を馬鹿な事をしているのか。
そう考え直し、電源を切ろうとマウスを動かす。しかし立ち上がった筈の画面は真っ暗で、矢印が見当たらない。
「あら?どうして?」
マウスやキーをいじる。
よく見ると、画面にカラフルな文字が点滅しているのに気付いた。
【PC LOCK】
蛍光色の6文字の英語が、チカチカと点滅を繰り返しながら、画面上を移動している。
予想外の出来事に、深雪は目を白黒させる。
その時ふと、何ヵ月か前にコウが言っていた言葉を思い出した。
『パソコンにロックかけるにはUSBも使えるんだ。これを抜くとロックがかかるんだ』
あの時は興味が無くて聞き流していたが、恐らくUSBロックをかけているのだろう。
だとすれば、鍵であるUSBを差し込まなければ使えない。
周囲を確認するが、当然あるはずがない。
どうしようか迷っていると、エレベーターの音が聞こえた気がした。
立ち上がり、耳を澄ませる。
パソコンの起動音に紛れて、確かにエレベーターの音がする。
時計を見ると、いつの間にか9時を過ぎていた。
「え!?嘘っ……ヤバい!!」
急いで電源を切ろうとするが、ロックがかかっている為にシャットダウンができない。
すっかりパニックになり、コンセントを抜き差しして強制的に電源を切り、寝室を出た。
あのエレベーターにはコウが乗っているに違いない。
他の住人という可能性もあるが、嫌な予感がする。
靴を履いて部屋を飛び出し、鍵をかける。
ふとエレベーターの方に視線をやると、40階のランプがついてドアが開く所だった。
この階には深雪達しか住んでおらず、部外者が入って来る可能性もない。その為相手は必然的に決まる。
ゆっくりとドアの開く音が響く。慌てている為、シリンダーにキーが入らない。
「なんで!?」
ガチャガチャとドアノブを回しながら、呟いた時だった。
「どうしたんだ?」
「!?」
後ろから声をかけられ、恐る恐る振り向く。そこにはコウが怪訝な顔で立っていた。
「あ、お……お帰りなさい」
「ただいま。何してるの?」
「え?あの……」
上手い言い訳が見つからず、シドロモドロする。
それを見たコウは、何かを察したのか、笑みを浮かべた。
「あぁ、わかった。当ててみようか」
「え……?」
部屋にガサ入れに入ったのがバレてしまったのか。
さっと青ざめる。
しかし彼の口から出た言葉は、良い意味で深雪の予想を裏切った。
「自分の部屋で寝てたんだろ。で、夕食作るの忘れてた。違う?」
「え?あ……」
言われてみれば確かに、ガサ入れに夢中で夕食の仕度はしていない。
自分の部屋で眠っていた事にすれば、必死になって自宅の鍵を開けようとしていた説明もつく。
「そ、そうなの。ついうっかりして……」
とっさに頭を切り替え、恥ずかしそうに俯く。
コウは自分の予想が当たった事に嬉しそうにしている。
「だろ?やっぱりね。いいよ。近くで何か買ってくるから。深雪も何かいる?」
「え、えぇ。じゃあ……あの、サラダ」
「サラダ?そんなので腹いっぱいになる?まぁいいや」
持っていたカバンを手渡すと、財布だけをポケットに入れてエレベーターに向かう。
「あ。中に弁当箱入ってる。洗っておいて」
「わかったわ。き、気を付けてね」
なんとか笑みを作り、カバンを手にしたまま見送る。
コウの姿がエレベーターに消えるのを見届け、やっと息を吐いて室内に戻った。




