4
(許せないわ。人を馬鹿にして)
ヒールの音を響かせながら階段を下り、喫煙所に向かう。
(誘えば乗ってくるとでも思ったっていうの?)
既婚者が既婚者に告白をした=不倫相手にはちょうどいいと思われた。
この解釈が偏見だとしても、深雪はそう判断した。
自分はそんなに軽い女ではない。
一言文句を言わなければ気が済まない。一直線に喫煙所へ向かい、ドアを開ける。
そこには案の定広太朗が居り、浮かない表情で煙草をふかしていた。
こちらを見た瞬間、目を丸くして立ち上がる。
「深雪」
「馴れ馴れしく呼ばないで下さい」
ピシャリと言い放ち、中に入ってドアを閉める。
いつもの深雪らしくない厳しい表情に、広太朗は戸惑っている様だった。
「貴方にお話が2つあります。1つ目。秘書課に渡さなければいけない書類がありますよね?それを受け取りに来ました。どこにあるんですか?」
「え?あ、あぁ……それなら俺のデスクの引き出しだけど──」
「わかりました。では、後で取りに行きます」
目を細め、間入れず淡々と続ける。
広太朗の手にある煙草がジリジリと灰になっていく。
このままでは指を火傷すると思ったが、敢えて注意は促さなかった。
「2つ目。柏木さん、私を馬鹿だと思っているんですか?浮気相手には丁度良いって思っているんですよね?だからあんな事を言ったんでしょう」
「はぁ?なんだよ急に」
飛躍し過ぎているのは分かっている。
しかし、自身も妻がありながら、旦那がいる女に告白をした。
つまりはどうあっても、自分のポジションは浮気相手だ。
考えれば考える程腹が立つ。
しかし広太朗は、まるで理不尽な事を言われているかの様に眉を寄せ、渋い顔をしている。
「何勝手にキレてんだよ。いつ、そんな事言った?俺はただ純粋にアンタを──」
「結婚していながら他の女を口説くのは、純粋じゃないわ」
言い放つと、広太朗は顔色を変え、言葉に詰まった。
やはり図星なのだろう。深雪は黙って相手を見上げる。
「なんで知ってるんだよ」
「それは別にどうでも良いじゃないですか。見た所指輪もしてないようだし、知られては困る事なのかしら」
「それは……!」
反論の言葉が見つからないのか、ぐっと唇を噛んでいる。
もう少しで指を火傷するな、と視線を反らした時、煙草を灰皿に押し付け、苦笑いを浮かべて立ち上がった。
「わかったよ。正直に言えばいいんだろ。確かに俺は結婚してる。だけどアンタに対しての気持ちは嘘じゃない」
「嘘じゃない?よくもそんな事を言えますね」
今まで恋愛という恋愛をした事がない深雪にとって、不倫というのは何よりも醜いものだという意識だった。
眉を寄せ、まるで汚いものを見るかのように目を細める。いや、現に汚い者だと心の中で思っていた。
「なんだよ。結婚したら、恋愛はしちゃいけないのか?」
いけしゃあしゃあとふざけた事を言われ、ついカッとなる。
「当たり前よ。恋愛がしたいなら、妻とすればいいじゃない。他の女に気をとられるなんて、信じられない!」
「信じられないって……。なんだよアンタ、見た目通り初なんだな」
フッと軽く笑うと、ゆっくりこちらに歩み寄って来る。
思わず後退り、距離を取った。室内には気まずい雰囲気が漂う。
それはエレベーターの時とは比べ物にならない程重たいものだった。
「さすがはお嬢様育ち。まるで中学生みたいな思想だけど。その分だとアンタ、初めての相手が旦那なんだろ」
ガラリと態度が豹変し、その変わり様に目を疑った。
「そんなの関係ないでしょう!」
セクハラを超えた発言に、声を上げる。
しかし広太朗は、相変わらず笑みを浮かべたままだ。
「やっぱりそうなのかよ。勿体ねぇな。ま、その年で結婚してるってのが既に勿体ねぇけどさ。ロクな恋愛経験がないから、そんな風にDV男をつかまえたりすんだよ」
右手が伸び、頬に触れる。
「余計なお世話よ!」
その手を払い除け、後ろ手でドアノブを探す。だが焦っているせいか、なかなか見つけられない。
「俺の事極悪人みたいに思ってんだろうけど、男はみんなこうだぜ?妻がいたって子供がいたって浮気はする。アンタの旦那だって絶対にしてるよ。試しに携帯でも見てみるんだな」
「こ……コウはそんな人じゃない。一緒にしないでっ」
やっと右手がノブを捉え、ドアを開けて出て行こうとした時だった。
「じゃあアンタが浮気するかもな」
「!?」
手を引いてドアから引き離し、壁に押さえ込まれる。
「また逃げんのかよ」
男の割に細い腕が、体を捕らえて離さない。不愉快な顔が近付き、眉を寄せて身を捩る。
「離して!」
「そんな顔で嫌なんて言ったって、余計に煽るだけなんだよ」
乾いた唇が首筋を這い、思わず目を見開く。
「やめて!私に触らないで!!」
「触らないで?別に触ってはいないだろ」
怯える深雪を楽しそうに見つめ、わざと唇の間から舌を差し出す。
生暖かなものが耳に触れ、小さな悲鳴を上げた。
「ひっ……嫌ぁ!」
ぐっと目を閉じ、突き飛ばそうと胸を押す。
しかし広太朗はそれを予想していたらしく、腕ごと体を抱き寄せてしまった。
「なんだ。俺に抱かれたかったのか?」
「違うわよ!いい加減にしないと大声を出すわよ!?」
「大声は困るな」
呑気そうな声で呟くと、背けている深雪の顎を掴み、無理矢理上げさせる。
「アンタが大声出すなら、出せないように塞ぐからな」
「っ……!」
好きでもない男とキスなんかしたくない。
声を上げようと開きかけた口を閉じ、固く結ぶ。
そんな様子を、広太朗はニヤニヤ笑いがら見つめている。鳥肌が立った。
「強気なお嬢様系ってのは今まで経験ないからさ。どんなのか興味があるんだよなァ」
「ふざけないで。離してよ!」
懸命に腕に力を込め、押し返そうとする。だがやはり力の差は歴然で、びくともしない。
昔はこんな事なかったのに。
悔しさで、涙が浮かんでくる。顎を掴んでいた手が緩められ、そのまま下半身へと伸びる。
(こんな奴にされるなんて、絶対に嫌!!)
力で敵わないなら、他の方法をとるしかない。
これはもう、貞操を守るとか、旦那を裏切りたくないとか、そんなものではなかった。
こんな下らない男にいいようにされる。それが何よりも屈辱的で、悔しくてならない。
広太朗の手がスカートの隙間から侵入する。
しかし深雪は先ほどとはうってかわり、冷静な瞳で見つめていた。
相手は自分より2回り程大きな男だ。
タイミングを間違えば、先ほどの二の舞になってしまう。
この態勢で確実に動きを封じるにはどうすればいいか。
ふと、太もも辺りに下半身を押し付けられているのに気付き、膝に全神経を集中させる。
(離れろ!変態っ)
肩に手をかけて力を込め、足を振り上げようとした時だった。
「社内不倫とはいい度胸だな」
不機嫌そうな声と供にドアが開けられる音がし、広太朗はハッと我に返って体を離す。
「恋愛は確かに自由。だが不倫を自由にした覚えはない」
「しゃ……社長!?」
そこには眉を寄せた近藤社長が立っており、厳しい顔で2人を一瞥する。
その隙に深雪は広太朗を突き放し、喫煙所を飛び出した。
----------------------------------------
「柏木。うちの有能な社員を寿退社させておきながら、まだ他の女に手を出すのか?もしもアイツが辞めたら、お前はどうやって責任を取るつもりだ」
「そ、それは……」
まさかここで社長が現れるとは思っていなかった。目を反らし、明らかにしどろもどろする。
「おい。こっちを見ろ」
目の前で指を鳴らされ、恐る恐る視線を戻す。
近藤社長の顔は、今までにない程恐ろしく歪められていた。
思わず頭に『クビ』の2文字が過る。
「あの女に限らず、うちの秘書課の女に手を出すな。いいか、2度目はないからな。次は懲戒免職を覚悟してやれ」
そう言われれば、所詮一般社員である柏木にはもう何も言えない。
「わ、わかりました……申し訳ありません」
「ったく。どいつもこいつも」
吐き捨てるように言い、社長はその場を後にした。




