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(今のは……何?)
歩きながら、深雪の心臓は早鐘を打っていた。
ドキドキと鼓動が収まらず、胸を押さえる。
柏木広太朗に告白されてしまった。
あの真面目な目を思い出し、無意識に赤面する。
(まさか柏木さんにあんな事言われるなんて……)
あまりに予想外過ぎる。
決して彼を意識しているわけでもなく、恋愛感情を抱いているわけでもない。
生まれて2度目の異性からの告白に、ただ動転しているだけだ。
(とにかく落ち着かないと。落ち着いて、落ち着いて……)
足を止め、深く息を吸い込む。
その作業を何度か繰り返していると、やっと平常心を取り戻せた様だった。
幸い降りた場所は、2つ下の6階だった。
いつもの様に階段を使って8階に上がると、総務課のドアを開ける。
「すみません、秘書課の者です」
中に入ると、見た事のある男性社員がこちらに気付き、歩み寄って来た。
「あぁ、こんにちは。久しぶり」
笑顔で挨拶をされ、それに倣う。
「こんにちは。あの、優さんに取りに来なければならない書類があると伺って参りました」
「え?書類?」
青年は眉を寄せながら呟き、考え込む。嫌な予感がした。
「秘書課に渡さなければならない書類があると思うのですが」
「いや。覚えないなぁ。それって多分、柏木さんですよ」
「え……」
その名前を聞いた瞬間、驚くと同時に『やっぱり』と思った。
嫌な予感が的中してしまった。
正直、総務課に行ってくれと頼まれた時から、広太朗が関わっている予感はしていたのだ。
もう少し早くあの事件の事を思い出していれば、わざわざ遣いを買って出たりはしなかっただろう。
後悔するが、既に遅い。
「そういや、柏木さんの姿が見当たりませんね。多分喫煙室かどこかにいると思うから、行ってみて下さい」
悪意の無い爽やかな笑みで言われ、さっと青ざめる。
あんな事になってしまった手前、どうやって仕事の話をすればいいのだろうか。
しかし請け負った仕事は最後までやり通さねばならない。
「わかりました。探してみます」
無理矢理笑みを作り、力無く総務課を後にした。
「どうしよう。また顔を合わせるなんて」
歩きながら、必死に頭を回転させる。
ずっと避けるわけにはいかないが、さすがに直後はキツイ。
しかも最後は殆んど逃げるように別れてしまった。
暫く考えた後、携帯を取り出して電話をかけた。
(お願い……出て!)
『もしもし』
数回コールが鳴り、相手の声が聞こえる。聞き慣れた声に、安堵のため息を吐いた。
「あ、コウ!良かった!」
『どうした?』
いつもと口調が違う。恐らく近くに誰かがいるのだろうと判断し、気にする事なく話を続ける。
「今から少し平気?どうしても話したい事があるの。もう、私1人じゃどうしようもなくて」
『何があった?』
「それは会ってから話すわ。だからお願い、今すぐ屋上に来て」
『なんだって?おい!』
電話を切ると、深雪はその足で屋上へと向かった。
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言い切る前に、一方的に切られてしまった。コウは軽く眉を寄せ、携帯を見つめる。
「トラブルですか?」
隣を歩いていた社員が、不思議そうに問い掛ける。
実はこれから会議があるのだが、流石に放っておく事はできない。
部下がいる手前、軽く舌打ちをし、携帯を胸ポケットにしまって歩みを早める。
「10分程抜ける。先に行ってくれ」
「わかりました」
部下をその場に残し、急いでエレベーターに乗り込む。
向かう先はもちろん、最上階だ。
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柵を見つめて立っていると、ドアが開く音がして振り向く。
まだ何も言っていないのだが、コウは何かを察したらしく、表情を和らげた。
「良かった。急にごめんなさい」
「他に誰もいない?」
「大丈夫よ。いないわ。確認したから」
「ならいいけど……。取り敢えずこっちに来て」
念のためにもう一度軽く周囲を見回し、物陰に移動する。
比較的人の出入りがない場所とは言え、いつ誰が来るかわからない。
「会社で会いたいなんて珍しいな。何かあった?」
電話の時とはうってかわった、優し気なトーンだった。
しかし、深雪は浮かない表情で目を伏せたままだ。
「今から会議なんだ。だから早く戻らないといけないんだよ」
「そうよね。ごめんなさい」
冷たい物言いだと思ったが、社内での2人はあくまでも赤の他人だ。
何よりそれは、自分が望んだ事なのだから。
「どうしてもお願いしたい事があるの」
「なに?」
コウは鉄柵に凭れ、微笑みながら首を傾げる。深雪は無意識に唇を噛むが、意を決して口を開いた。
「実はさっき、優さんからお遣いを頼まれたの。総務課に書類を取りに行かなきゃならないんだけど……誰もわからなくて」
「あぁ、あれは柏木に聞いてみなよ。他の奴じゃ多分、わからないと思うから」
その口振りは、恐らくコウもどんな内容のものか知っているのだろう。そう判断し、続ける。
「今は柏木さんには会い難いの。コウにこんな事をお願いするなんておかしいのだけれど……。柏木さんから書類を受け取って貰えないかしら」
「え?俺が?どうして」
コウの疑問は最もだ。
広太朗の直属の上司でもなんでもなく、部署すら違うコウが、書類を受取りに行くなんておかしい。
疑問に思うのは仕方ない。
「まさか、柏木が苦手?アイツは口は悪いけど、性格的には嫌な奴じゃないよ。あれでも総務課の課長なんだから」
深雪は「違うの」と呟いて首を振る。
「人見知りとか怖いからとか、そんな理由じゃないの。ただ、今はあの人に会いたくないの」
「今はって──なんで?」
あまり言いたくはないが、それは当然の疑問だ。深雪は言いにくそうに口を開いた。
「実は、さっきあの人に告白されたの」
「え?」
その言葉に、コウは目を丸くした。
「告白って、何を?」
どうやら告白を辞書的な意味合いで解釈したらしい。
他の男が、自分に目を掛けるとは思っていないのか。はたまた、初めからそんな頭すらないのか。
どちらにせよ、深雪にとってはあまり喜ばしい解釈ではない。
「告白は告白よ。あの人に、好きだって言われたの」
「柏木に?」
「そうよ」
「まさか。あり得ないよ」
コウは下らない冗談を聞いたように、恐らく無意識に鼻で笑った。
「あり得ないけれど、実際あったのよ」
柏木の気持ちは受け入れられないし、些か迷惑な事だった。
しかし、ここまで否定されるとムキになってしまう。
「私が他の人に好かれる筈がないって思ってるの?私を好きになる奇特な男は自分だけだとか、そう思っているの?」
「い、いや、違うよ。そういう意味じゃなくて」
不機嫌な顔で詰め寄ると、誤魔化すような笑顔で後ずさる。
「じゃあなに?どういう意味よ」
「それはその……ちょっと近いって。落ち着いて」
心内を当てられて焦っているのか、苦笑いを浮かべ、肩に手を置く。
そして一呼吸置き、こう言った。
「柏木は結婚してるんだよ」
「──結婚?」
一瞬、理解できなかった。が、すぐに意味を理解し、眉を寄せる。
「け、結婚?」
そんな考えは微塵もなかったた。ゆっくり距離を取りつつ、コウは何度も頷く。
「そうだよ。知らなかった?たまに指輪してるよ」
人の結婚の有無を、そうそう確認したりはしない。
しかも左の薬指なんて、初めから見ようと思った事もなかった。
「──そう、結婚してるの」
あの時広太朗が言った言葉は、確かに告白だった。
彼は互いに既婚者だと知った上で関係を迫ったのだ。そう思うと、段々腹が立ってきた。
「で、俺がアイツから書類を受け取ればいいんだよね?」
最初は逃げててしまったという負い目から、会い辛いと思っていた。
だが今は違う。寧ろ会いに行きたいくらいだ。
「もう良いわ。解決したから」
言い放ち、背を向けて歩き出す。
「え!?ちょっ……深雪!?」
「会議があるのにわざわざ呼び出してごめんなさい。でもおかげで、自分で落とし前つける決心がついたわ」
「落とし前?お前一体何する気なんだ?」
止めようとする声を振り切り、屋上から出て行った。




