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「やだ!花子ちゃんどうしたのその顔!」
職場に顔を出して挨拶をした瞬間、返ってきたのはやはりその言葉だった。
ここまでの道のりで、既に5回以上は同じやり取りを繰り返している。
「実は昨日、ドアにぶつけちゃって。私ったら引き戸と押し戸の判断がイマイチできなくて」
予定通り恥ずかしそうな笑みを浮かべ、席に着く。
「あぁ……昔やった事ある。私の場合は迷ってる時に開けられて、こめかみの所を思い切りぶつけちゃったんだぁ。当たり所悪かったねぇ。なんか殴られたみたいに見えるもの」
「そうなんですよね。本当、場所が悪くて」
人間、多少違和感のあるものでも、直ぐに答えれば信用して貰い易い。
「凄く痛々しく見えるよ。打撲って地味にくるからなぁ」
「しかも翌日に、なのよね。タチが悪いわ。私も前に階段でつまずいちゃって、太ももの所が痣になってるの」
「あぁ、わかります。しかも、知らない間にできてるんですよね」
いつの間にか話の流れは自己体験に移り変わっていた。
無駄に突っ込まれなかった事に安堵しつつ、小さく息を吐く。
そこに社長が現れ、おしゃべりをしていた瑞穂達は慌てて頭を下げる。
「おはようございます、社長」
「おはようございます」
「あぁ」
礼をしている4人の前を颯爽と過ぎ去り、何かに気付いたかのように、深雪の前で足を止めた。
「おはようございます」
しかし深雪は敢えて何も言わず、頭を下げる。
社長にだけは、無神経な言葉を投げ掛けられるのを覚悟していた。
「……」
しかし予想外にも軽く眉を寄せただけで何も言わず、ドアを開けて社長室に入って行ってしまった。
「なんか今日の社長、様子が変ね」
らしくない態度に疑問を抱いたさゆりは、狐に摘ままれたようにキョトンとしている。
「本当。花子ちゃんのこと、何か言うんじゃないかって、ちょっとヒヤヒヤしたのに。何かあったのかもしれませんねぇ」
瑞穂も同じ事を思っていたらしく、苦笑いを浮かべる。
「いくら社長でも、そこまで無神経じゃないわよ。ほら、仕事しなさい」
華江に尻を叩かれ、皆はそれぞれデスクに着いた。
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「あ!ヤバイ!」
もうすぐ昼休みだと、そわそわしながら時計を見ていた時、珍しく、慌てた様子の優の声が響いた。
「どうかしたんですか?」
「総務に取りに行かなきゃならない書類があったの忘れてた」
ヤバイなぁとぼやき、額を押さえて溜め息を吐く。
「じゃあ、私が行ってきます」
どうせ暇潰しに昼休みへのカウントダウンをしていた所だ。何よりお遣いは新人の役目だろう。
「本当に?助かるよ。……あ、でも大丈夫?」
また聞かれるよ、それ。と優は自分の頬を指差す。
「大丈夫ですよ。別に隠す事でもありませんから。じゃあ行って来ますね」
立ち上がり、チラリと時計に視線をやる。20分もあれば戻って来られるだろう。
「確か8階ね」
呟き、エレベーターのボタンを押す。
今日はさすがに、階段を降りる気力はない。
エレベーターは5階に止まっていたらしく、ゆっくりと上昇してきた。が、一度8階で止まり、再び動き出す。誰かが乗り込んだらしい。
どこか途中で止まるかと思っていたのだが、予想外にもそのまま10階に来てしまった。
(誰か降りて来るのかしら)
過程を見る限り、間違いないだろう。ドアが開くと同時に降りる人が優先と、右に避ける。
しかし中から現れた人物を見て目を丸くした。
「あ」
その人物は目が合うと、小さく声を漏らした。
「柏木さん」
それは今向かう予定だった総務課の柏木広太朗だった。
彼の顔とエレベーターを見た瞬間、先日の事を思い出して目を反らす。
今まですっかり忘れていたが、彼には無理矢理キスをされてしまったのだ。
旦那がいる身でありながら、好きでもない男に口付けられて平然としていられる度胸は持ち合わせていない。
「あのさ」
「お疲れ様です」
広太朗は何か言いたげに口を開いたが、軽く会釈し、エレベーターに乗り込んだ。
優には総務課に行って欲しいと言われただけで、広太朗に会えとは言われていない。
『閉』のボタンを押そうとした時だった。
「待てよ。無視か!?」
閉まりかけたドアに手をかけ、広太朗が無理矢理同乗してきた。
2人を乗せたまま、エレベーターはゆっくりと降下して行く。
あんな事をする人と一緒になんて居たくない。
途中で降りようとボタンに手を伸ばすが、寸での所で掴まれてしまった。
「なんですか?」
「だから無視すんなよ!」
「無視だなんて……」
そんなつもりはない。
ただあの事を気にしないようにすると、必然的にそうなってしまうのだ。
すると広太朗は、深い溜め息を吐いてガシガシと頭を掻いた。
「あん時のアレ……気にしてたんだよ」
そう言いつつも、手を離す気配はない。
「手を離して下さい」
逃れようと身を捩る。しかし広太朗は、更に手に力を込めた。
「離したら逃げんだろ!」
締め付けられるような痛みに、眉を寄せる。
「痛いですっ!」
「じゃあ話を聞けよ!」
これ以上はどう足掻いても無駄だ。
そう判断し、抵抗するのを止めてじっと目を見る。
「わかりました。だから、離して。痛いから……」
「あ、悪い」
広太朗はハッと我に返り、申し訳なさそうに呟いて手を離した。
「今、あの事謝ろうと思って来たんだよ」
黙って広太朗を見る。彼の口からきちんとした謝罪が出るのを待っていた。
「悪かった。いきなりあんな事して」
「もう、結構です」
穏やかだが吐き捨てるように言い、掴まれていた右手の手首を擦る。
感じていたよりもよほど強く掴まれたのか、皮膚がうっすらと赤くなっていた。
「気にしないで下さい。私も忘れますから」
「あ、あぁ……」
ピシャリと拒絶する口調に、広太朗は目を游がせながら頷く。
しかし直ぐに顔を上げ、驚いたように頬に触れた。
「その顔どうしたんだよ!?誰にやられたんだ!まさか旦那か!?」
身を乗り出して問い詰められ、僅かに後退る。
「別になんでもありません。ちょっとぶつけただけです。第一、柏木さんには関係のない事です」
他人の意思を無視してキスをする様な男に心配等されたくない。
出来る限りの距離を取り、チラリと階数ランプを見る。
まだ9階を通過した所だった。
何故かこういう時に限って、時間の流れが遅く感じる。
「関係ないって……そんな事ないんだよ」
「何故ですか?」
一体彼が何を言いたいのかわからない。
警戒心を露にし、眉を寄せてじっと目を見て言葉を待つ。
こういう状況の時に、相手から目を反らしてはいけない。
それは深雪の中で、当たり前の事だった。
広太朗から視線を外さないようにしながらも、横目で執拗に階数を確認する。
もう少しで、この気まずい心密室から解放される。
このまま彼が何も言わないのであれば、それでも構わない。
何より今は、エレベーターから早く降りたかった。
しかし8階に着いたエレベーターはそのまま通過して行ってしまった。
うっかりしていた。階数ボタンを押し忘れていたのだ。
その時ふと、伏し目がちだった広太朗が口を開いた。
「関係、無くなんかないんだよ。少なくとも俺は。アンタが、その……気になるんだ」
「え?」
一瞬意味が理解できず、目を丸くする。すると広太朗の顔がみるみる赤らめていった。
「好きなんだよ。アンタの事が」
そう言った瞬間、誰かが待っていたらしく、ゆっくりとドアが開く。
だが、エレベーターホールに人の気配はない。
「そんな事を言われても困ります」
思わぬ告白に、つられて顔が赤くなってしまう。
しかしあくまで毅然とした口調で答える。
「人妻だって事は、わかってる。でも好きなんだ」
広太朗は今までに見せた事のない真面目な目で、じっと見つめる。
そんな事を言われてもどうしようもない。
しかしこれ以上、何も言うことが出来なかった。
まるで周りの時間が止まったかのように2人は見つめ合う。
だがそれは、一般的な男女の甘い雰囲気ではなく、緊張感が漂うものだった。
ドアが閉まる音で我に返り、慌てて『開』ボタンを押して脇をすり抜ける。
「とにかく困ります。私には旦那がいますから」
心内を悟られたくないが為に顔を見ないように言い、エレベーターを後にする。
後ろからひき止めようとする声がしたが、聞こえないふりをした。




